兵庫から全国へ〜挑戦を続けた、二人のトレーナー〜

「ロードバクシン小牧太! 一気に先頭に立った! ロ〜〜〜ドバクシン、ゴールイン! ロードバクシンです。(中略)あっぱれ兵庫の馬!!!」

──2001年兵庫チャンピオンシップ 吉田勝彦アナウンサー実況より

サクラバクシンオーの産駒で後に兵庫三冠馬(園田ダービー、兵庫CS、菊水賞)となったロードバクシンが兵庫CSを制してから、幾年もの時が流れた。
かつてアラブのメッカと称された兵庫県競馬にサラブレッドが導入されたのは1999年。
その2期生となるロードバクシンは、兵庫生え抜きの馬では唯一、兵庫(園田)でのダートグレード競走を制した馬として今も歴史に名を残している(2021年5月現在)
数々の勝利を上げたロードバクシンだったが、遠征競馬ではなかなか力を発揮する事が出来なかった。

兵庫から全国へ

他地区の競馬場でも強い走りが出来る馬を作り上げる為に、関係者は様々な努力を重ねている。
そして、全国区に通用する兵庫生え抜きの馬を育てる事がホースマン達にとって大きな夢のひとつであろう。

ロードバクシンを超える馬を育てる為に、数多くのトレーナーが試行錯誤を続けてきた。
その中で今回は、既に鬼籍に入ってしまっているが、二人のトレーナーについて綴りたいと思う。彼等の意志が今のホースマン達に受け継がれていると信じて。

寺嶋 正勝(てらしま まさかつ)調教師

大阪・春木競馬場で騎手として活躍するも春木競馬場の廃止に伴い兵庫県へ移籍。
田中道夫騎手、花村道春騎手との三羽ガラスで兵庫県競馬を盛り上げた2000勝ジョッキーである。
独特の長手綱での騎乗は、武邦彦騎手の乗り方に憧れての騎乗スタイルだった。
1991年に兵庫で騎手デビューした岩田康誠騎手はそのスタイルに憧れ、自身の騎乗スタイルに取り入れたらしい。

1994年に騎手を引退した同氏は、1995年10月に調教師としてデビュー。同時に弟子の下原理騎手が騎手デビューを果たし、「寺嶋正勝」の勝負服のカラーを受け継ぐ事となった。

1999年白鷺賞、ユウターヒロボーイで重賞初制覇。愛弟子・下原理騎手の騎乗だった。
その後もコスモクロスで播磨賞、マイネルエクソンで菊水賞や園田金盃を制するなど、活躍馬を輩出しつづけていた寺嶋調教師にダービー制覇のチャンスが訪れたのは2006年のことだった。

チャンストウライである。

2005年夏、2歳新馬戦ファーストトライ競走を勝利した後にJRAのレースに2度挑戦。
阪神での野路菊ステークスではメイショウサムソン、京都での萩ステークスではフサイチリシャールに敗れはしたが、この2レースでの経験がチャンストウライの成長を後押しした。

園田で2連勝し何とか兵庫ダービーに駒を進めたチャンストウライ。しかしその前に、2005年兵庫ジュニアグランプリで2着、兵庫CSで3着に入った、名門・曾和直榮厩舎のジョイーレが立ちはだかる。

チャンストウライは2番人気だったが、マッチレースとなった直線でジョイーレを競り落として見事に兵庫ダービー制覇を果たした。
続く菊水賞もジョイーレと火の出るようなデッドヒートを展開──そして、僅かハナ差で制した。
この時の馬連の払戻が100円元返しという、レアケースな一戦でもあった。

だが、チャンストウライはその後に骨折。復帰は翌年の1月となることが判明する。
復帰後、馬体重は菊水賞からプラス29kgとなっていた。
後に東海地区の重賞を勝ちまくるベストタイザンを捕まえるのに苦労したが、それでもチャンストウライは最後の直線で鋭い伸びをみせる。

「チャンストウライ! プラス29kgでも強い〜!」

──吉田勝彦アナウンサー実況より

その後、チャンストウライは梅見月杯2着から名古屋大賞典で5着と善戦。兵庫大賞典を制してJpnⅠ帝王賞に挑戦する。
そして、13番人気ながら4着に入り、兵庫デビュー馬として初めてJpnⅠ競走での入着を果たしたのであった。さらに翌年の佐賀記念JpnⅢでは念願のダートグレード競走を制し、その後も様々なレースに挑み続けた。
まさに、兵庫出身のヒーローだった。

さらに寺嶋調教師はチャンストウライと同馬主のカラテチョップで、2009年姫路開催での兵庫ダービー制覇も果たしている。
つまり、園田と姫路両方での兵庫ダービーを制している唯一のトレーナーであった。

そしてチャンストウライが2010年春に引退してから3年半後。デビュー当時は橋本忠男厩舎に所属していたオオエライジンが南関東へ移籍後に出走を果たせぬまま、寺嶋厩舎へ移籍してきた。

立て直しを図るべく寺嶋厩舎のスタッフが尽力し、オオエライジンは再転入2戦目の園田金盃を制して2014年正月、川崎の報知オールスターカップへ挑戦し見事勝利した。
この時、下原理騎手が遠征騎乗する予定だったが、移動中に新幹線運転見合わせというトラブルに遭う。結局は川崎競馬場へ指定時間までに到着出来ず。そして急遽、張田京騎手へ乗り代わっての勝利だった。

オオエライジンはその後も挑戦し続けたが帝王賞で無念の競走中止。競走生活を絶たれた。

気さくでダンディなトレーナーであった寺嶋正勝調教師。ゴールデンジョッキーカップでも田中道夫調教師と共に誘導馬に騎乗して歴戦の騎手達を先導されていた。

次なる活躍馬を育てるべく自らも調教に騎乗し積極的に動いていた矢先、2015年3月10日に急逝した。63歳だった。

馬だけでなく騎手や関係者も育て上げてきた寺嶋正勝調教師の急逝に対する、周囲のショックは大きかった。しかし、愛弟子であった下原理騎手はその後に全国リーディングを獲得し、師匠の勝ち鞍と重賞勝ち鞍を上回る記録を重ね続けている。

愛弟子と共に果敢に挑み続けた寺嶋正勝氏の功績と情熱は、今のホースマン達に脈々と受け継がれている。

吉行 龍穂(よしゆき たつほ)調教師

2004年12月に52歳で西脇にて厩舎開業。
初出走初勝利を達成し、開業から僅か2ヶ月後にトーコーアンタレスでJRA小倉へ遠征する。その後の阪神では日本ダービー2着馬のインティライミと同じレースを走ったりと、早くから積極的な遠征を重ねるトレーナーであった。
JRAからの移籍馬も数多く手掛け、勝利へと導いている。その中でJRAでも馴染みのある「トーコー」の冠名の森田藤治オーナーと「キー」の冠名の北前弘一郎オーナーから、多くの馬を託された。
JRAから移籍してきたトーコーカントで船橋競馬場の房の国オープンを制したり(鞍上は佐藤隆騎手)、旭川でのブリーダーズゴールドカップへの参戦したりと、チャレンジは続く。
その挑戦の中で、吉行調教師の初重賞制覇となったのは2006年9月、姫路チャレンジカップでのキーホークだった。
南関東在籍時は前々で競馬をしていたが、このレースでは後方からの競馬で直線での大外一気を見事に決めての勝利だった。
騎乗していた松平幸秀騎手(現・調教師)は逃げの名手というイメージが強い騎手であったが、展開を読んだ見事な騎乗ぶりであった。

キーホークの勝利からしばらくして、吉行厩舎に入厩してきたのがキーポケットという牝馬である。

「この馬の名前、覚えておいてよ。コイツで重賞を獲るから」と吉行師が語っていたのが、記憶に新しい。

当初はJRAからデビューする予定だったがゲート試験を合格する事が出来ず、未出走のまま西脇に移ってきた馬だった。その後、スタッフの懸命な努力の末、能力試験に合格し園田競馬場でデビューを迎えていた。
兵庫ゴールドトロフィーが開催された日の第1レース2歳未勝利F6クラス。キーポケットは2着馬に4.6秒差をつけて勝利した。
実況した竹之上次男アナウンサーが「キーポケット1着でゴールイン! 2着はまだゴールしません」と語ったのが印象に残る。
先述のキーホークとの併せ馬で先着する程のスピードの持ち主であった。しかし同時に気性の激しさもあり、仕上げるのに苦労を重ねた。明け4歳となった2008年の兵庫牝馬特別で重賞初制覇。
JBC開催が行なわれた2008年園田競馬場の最終レースに組まれた重賞、兵庫クイーンカップで重賞2勝目を飾る。

あの、吉田勝彦アナウンサーがマイクロフォン越しに場内のファンと対話したレースだ。
「園田競馬は明日も開催致します、明後日も開催致します」
「今日だけではありませんので園田競馬、どうぞまたお越し下さい」
(ファンの拍手が鳴り響いた後に)
「ありがとうございます」
この直後にレースがスタートしてキーポケットが1番人気に応える走りを見せた。

さらに2010年新春賞では牡馬相手に勝利。パートナーの吉村智洋騎手に、園田で初の重賞勝ちをもたらした。

この年からグランダム・ジャパンシリーズが創設され、キーポケットは初代古馬女王に輝く活躍を見せた。キーポケットが2011年に引退した吉行厩舎では、一時期はJRAからの移籍馬が大半を占めている時期もあった。
しかしながら吉行師は自らに課せられたミッションをキッチリと遂行し、それぞれのオーナーとの絆を深めてきた。

「トーコー軍団」と呼ばれた森田藤治オーナー所有の高額馬たちを吉行師に預けて来られたのも、そうした信頼と実績があってこそであったのだろう。

そしていざ、兵庫生え抜きの馬で全国へ。
2014年にトーコーガイアで兵庫ダービーを制し、トーコーニーケで関東オークス2着入線を果たしていた吉行厩舎に、トーコーヴィーナスという購入価格3150万の2歳牝馬が入厩した。
母は1997年桜花賞3着のホーネットピアスという、良血馬である。
JRAからデビューしても何ら不思議ではない牝馬が園田からデビューをする。
「勝って当たり前、負けたら非難の嵐」
大きなプレッシャーの中で、吉行師は期待に応える馬作りを続けた。

重賞初挑戦となった園田プリンセスカップでは主戦の木村健騎手が腰痛の為、普段の調教をつけていた小谷周平騎手に代打騎乗を依頼。そしてその小谷騎手に、初の重賞勝ちをもたらした。
師の「若手にもチャンスを」という信念を体現した瞬間であった。

その後もトーコーヴィーナスは浦和の桜花賞で2着に入るなど、2015グランダムジャパン3歳シーズンで総合優勝を果たす。

さらに翌年の2016年もグランダムジャパン古馬シーズンに挑み続けた。その集大成といえるのが大井、レディスプレリュードJpnⅡでの2着同着。
ただの好走ではなく、あのJBCレディスクラシックを連覇した、あのホワイトフーガとの2着同着である。
騎乗した大山真吾が果敢に逃げて、直線ではあわやのシーン。タマノプリュネットに交わされるもホワイトフーガとは並んでの入線だった。兵庫の馬にとって大井は鬼門とされていたが、トーコーヴィーナスは大健闘したのであった。
さらには、見事、グランダムジャパンの古馬部門タイトルも獲得した。

個人的な話だが自分は、とある御縁があって吉行師と交流を持たせて頂いた。
厩舎スタッフには鬼の様に厳しい方であった一方で、ファンに対しての心遣いは有り難いものであった。キーポケットのデビュー前の頃に「いつか重賞勝った時には一緒に口取りをしよう」と気さくに仰った吉行師。トーコーヴィーナスの勝利で自分の念願がようやく叶った時の師の表情は、にこやかであった。

馬の上に居る時が一番良い。
馬の話をされる時は凄く楽しかったのを今でも思い出す。
昔の馬の話も大好きでマーチスは強い馬だったなあと語っていた。

森田藤治オーナーがディアドラで悲願の中央GI制覇となった2017年秋華賞。その口取りには吉行師の姿があった。開業当初から築き上げて来た絆が形となった瞬間でもあった。

さらなる挑戦を続けている最中、2018年8月24日に吉行師は急逝。
66歳だった。
公式発表されたのは4日後の事。
お別れの言葉すらかける事は叶わなかった。

その後、ディアドラは翌年夏のナッソーステークスを勝って世界にその名を轟かせる事になった。

吉行師の想いは所属していたスタッフに受け継がれ、スタッフは松平幸秀厩舎の所属となった。
松平厩舎は2019年の兵庫ダービーをバンローズキングスで制して、騎乗していた吉行智洋にダービージョッキーの称号をプレゼントする。
翌年には森田オーナー所有のピスハンドで兵庫チャンピオンシップ地方馬最先着(4着)となった。

志半ばで旅立たれた寺嶋正勝と吉行龍穂という二人のトレーナー。
常に挑戦し続けて互いに切磋琢磨した二人が空の上から今の園田、姫路競馬を酒を酌み交わしながら見つめているのだろうか。

写真:Y.Noda

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