人馬の出会いを紡ぐ馬 ドリームジャーニー

人生には、大きな転機となる出会いがある。
池江泰寿調教師と池添謙一騎手にとって、ドリームジャーニーとの出会いがまさにそれだったのではないだろうか。

池江泰寿調教師。
1993年に浅見国一厩舎のもとで1年間修業をしたあと父の池江泰郎厩舎に移籍。
ここで後にドリームジャーニーの父となるステイゴールドに調教助手として関わっている。

その後、アメリカの名門マイケル・スタウト厩舎やニール・ドライスデール厩舎で調教助手としての腕に磨きをかけ2004年開業。

初年度は4勝、翌年度は20勝と勝ち星を重ねていったものの、ビッグレースを勝てない日々が続いていた。

転機は2006年。
飛躍のきっかけはドリームジャーニーであった。

前日の冷たい雨が上がって、すっきりとした青空が広がる暮れの中山競馬場。
その日、2歳牡馬のチャンピオンを決める朝日杯フューチュリティステークスが開催された。

ドリームジャーニーは、新馬戦、芙蓉ステークスと連勝し、東京スポーツ杯2歳ステークス3着からのG1挑戦。
この年の朝日杯フューチュリティステークスは、サンデーサイレンス産駒の姿こそなかったものの新馬戦から3戦無敗のオースミダイドウを中心に好メンバーが揃っていた。

ドリームジャーニーはスタートで出遅れ、道中は最後方をポツンと追走。

前半4ハロン46秒8の平均ペースで先行勢有利の展開に見えた。
3コーナーから4コーナーにかけて押し上げていくも、直線を向いてもまだ最後方。
「さすがに届かないか……?」と思わせたところから、直線だけでライバルたちを一気にゴボウ抜き。
見事、一着で駆け抜けた。

レース自体の上り3Fが35秒5に対し、ドリームジャーニーのそれは34秒0。
ほかの馬たちが止まって見えるような豪脚であった。

レース後、鞍上の蛯名正義騎手はその末脚についてディープインパクトを引き合いに「軽く飛びましたね」と語ったほどである。

この時のドリームジャーニーの馬体重は、416キロ。
朝日杯フューチュリティステークスの歴代勝ち馬の中で最軽量である。
小さな体を目一杯使って、小気味よい高速回転で追い込んでくる姿に、ファンは魅了された。

池江調教師にとっては開業から実に30回目の挑戦での重賞初勝利、同時にG1初制覇となった。
レース後、池江調教師はようやく勝てた安堵の思いとともに、5年前の香港ヴァースでの父ステイゴールドの末脚を思い出したとのコメントを残した。

しかし、この見事な勝利以降、ドリームジャーは結果を出せずに苦しむこととなる。


年が明けて3歳クラシック戦線。
3番人気に支持された皐月賞は8着に惨敗、続く日本ダービーも5着に敗れる。
秋初戦の神戸新聞杯こそ1着になったものの、本番の菊花賞は2番人気に支持されながら5着に終わった。

次走、適距離を探り1800MのG3鳴尾記念で必勝を期するも、1番人気に支持したファンの期待に応えられず8着。
ここで4ヶ月の休養を挟むここととなる。

4歳になり仕切り直しの一戦となったマイラーズC。G1勝ちと同じ距離。
復活を願ったファンが2番人気に支持するも、14着に惨敗した。

結果を残せないまま、さらに安田記念へ。
ここで初めて、池添謙一騎手とドリームジャーニーがコンビを組むこととなる。
日本ダービーまで主戦を務めた蛯名正義騎手に変わり、3歳秋以降の4戦は武豊騎手が手綱を取っていた。
しかし、このレースには武豊騎手騎乗でG1を制覇していたスズカフェニックスが出ていたため、代打で池添騎手が乗ることになったのだ。

近走の不振もあり、ドリームジャーニーは現役で唯一となる2ケタ台の11番人気に甘んじる。
結果も振るわず10着。

代打騎乗のため当然1戦限りの予定であったが、惨敗の中でも手ごたえを感じていた池添騎手は、池江調教師に機会があればまた乗せてもらいたいという気持ちだけは伝えていたという。

──すると、次走の小倉記念。
たまたま武豊騎手が騎乗停止となってしまい、再び池添騎手に声がかかる。
ここで見事に優勝に導いた池添騎手が引退までドリームジャーニーの主戦を務めることになるのだが、その道のりは決して楽なものではなかった。

続く朝日チャレンジカップで連勝を飾ったものの、天皇賞秋、有馬記念と朝日杯フューチュリティステークス以来のG1制覇を目指すも惨敗。
年が明けた緒戦のAJCCは1番人気に支持されながら8着、続く中山記念も2着に敗れる。
距離を一挙に伸ばした天皇賞春こそ3着と好走したもののG1制覇には至らなかった。


そして池添騎手が鞍上を務めるようになって10戦目。

2009年の宝塚記念。
この年はディープスカイが単勝1.6倍の圧倒的支持を集めて1番人気になっていた。
ディープスカイにとっては凱旋門賞挑戦へ向け負けられない戦いであった。
ドリームジャーニーは2番人気も単勝オッズは大きく離された7.1倍。
実質的に1強、ファンはディープスカイがどのように勝つのかを注目していたと言えよう。

池添騎手はこの日を迎えるまで、毎日のように天気予報をチェックしていたという。
4年前に自身が手綱をとってスイープトウショウで優勝した年を最後に、ここ3年はいずれも雨模様の宝塚記念であった。
しかしこの年は見事な快晴。
ドリームジャーニーにとっては願ってもない馬場コンディションとなった。

パドックではどの馬も歴戦の古馬だけあって落ち着き払った姿で周回している中、ドリームジャーニーだけはチャカチャカうるさいしぐさを見せる。
しかしこれが、ドリームジャーニーにとっては好調のサインであった。

宝塚記念オリジナルのファンファーレが超満員の阪神競馬場に鳴り響く。

スタートはほぼ横一線。
ドリームジャーニーもまずまずのスタートを切った。

10番枠からスタートしたスクリーンヒーローが、内に切れ込みながら追っつけてハナに行く。
ピンクの帽子の2頭、コスモバルクとカンパニーが外から続く。

1番人気のディープスカイはこれらを見ながら中団の絶好位。
ドリームジャーニーはディープスカイの真後ろにつける。

1コーナーの入り口あたりからコスモバルクが仕掛けて先頭へ。

向こう正面。
コスモバルクが後続を10馬身近く引き離して逃げる。

2番手にスクリーンヒーロー、カンパニーが3番手につけ、直後に3番人気のサクラメガワンダーが続く。
ディープスカイはサクラメガワンダーの外側やや後方を追走。

──ゴールの向こうに凱旋門が見えているのか、ディープスカイ!

実況の声が、ファンの思いを後押しする。

ドリームジャーニーは依然としてディープスカイの真後ろ。
全身をバネのように伸び縮みさせて走る姿は、虎視眈々と獲物を狙うチーターを思わせた。

4コーナー手前。
逃げていたコスモバルクを、後続の馬が飲み込みはじめる。
スクリーンヒーロー、サクラメガワンダー、カンパニーが並んで先頭に立つ。
中でもサクラメガワンダーは抜群の手応え。

これを見たディープスカイの四位洋文騎手が手綱をしごいて追いかける。
歓声が沸き起こる。

最後の直線。
内に進路をとったスクリーンヒーローを交わしてサクラメガワンダーが先頭。
スクリーンヒーローも最後の抵抗をみせる。
外からディープスカイ。
四位騎手が必死に追う。
しかしディープスカイにいつもの反応がない。
もたつく間に外からドリームジャーニーが並びかける。

──外からドリームジャーニー! 外からドリームジャーニー! ディープスカイ押せ! ディープスカイ押せ! 先頭はしかし、ドリームジャーニーだ!

ディープスカイと殆ど馬体を合わせることなく抜き去ったドリームジャーニー。
2着サクラメガワンダーに1馬身以上の差をつけて圧勝だった。

朝日杯フューチュリティステークス勝利から、実に二年半ぶりのG1制覇となった。

レースの後、勝利騎手インタビューで池添騎手は興奮気味にこう語っている。

──この馬にもう一度G1を勝たせたい、そういう厩舎の強い気持ちが僕には十分伝わっていたし、それに応えたいという一心で今日は勝負だなと思っていた。結果を出せてよかった。

気性の悪さはオルフェーヴルより上とも言われたドリームジャーニー。
能力はあるが難しい馬を、池江調教師と厩舎スタッフ、池添騎手が一丸となって育てつかみ取った勝利であった。

その後ドリームジャーニーは暮れの有馬記念も優勝し春秋グランプリ制覇を成し遂げる。

翌年2010年は惜しい競馬が続くも勝ち星を挙げることができず、2011年の宝塚記念を最後に引退となった。
池添騎手にとってはこの馬との出会いと経験が後の3冠馬オルフェーヴルの主戦騎手へとつながっていく。

宝塚記念の3か月後、9月に行われた札幌競馬場での引退式。
最終レースが終わった後にも関わらず詰めかけた沢山のファンを前に池江調教師が語った。

──なかなか勝ちきれない時期があったり、ケガで悩んでいたり、気性的に折り合いも難しいとか、そういう苦労があって、それを克服することでうちの厩舎の技術力がどんどん高まった。オルフェーヴルの春の2冠制覇、ダービー制覇というのはジャーニーがいてくれたおかげだと感じている。感謝の気持ちでいっぱいです。

その1か月後、オルフェーヴルは池添騎手を背に菊花賞を制し、三冠馬となる。
その後も強さと強烈な個性で多くのファンを沸かせたオルフェーヴル。

オルフェーヴル×池添謙一×池江泰寿。
この夢のような出会いを紡いだ馬。

それが、ドリームジャーニーだった。

写真:Horse Memorys

あなたにおすすめの記事