『名は体を表す』〜聖剣 デュランダル〜

『名は体を表す』とは、よく言ったものである。

無論、競走馬の名前にはたくさんの思いが込められていて、それに応えるべく携わる人間が動き、馬たちがそれに呼応するのだから必然と言えば必然なのであろうか。

キズナ、ウオッカ、クロフネ……古くはテンポイントなども、その名前に相応しい活躍を遂げ、日本競馬史に名を残した馬といえるだろう。
また、これらの他にも、たとえ大レースを勝てなかったとしてもその名にふさわしい活躍をした馬は、数多いるはずだ。

しかし、改めて
「その名にふさわしい活躍を遂げた馬」
を尋ねられたときに、私は真っ先に 1 頭の馬を連想する。

『デュランダル』
2003、2004 年の 2 年連続して JRA 賞最優秀短距離馬に選出された名スプリンターである。
その名はフランスの叙事詩『ローランの歌』に登場する聖剣の名。
「切れ味の鋭さ、デュランダルに如くもの無し」
その叙事詩にこんな一節があるのだが、デュランダルの切れ味は、まさに伝説の聖剣のそれだった。

デュランダルといえば多くの人が想起するのが、連覇を達成したマイル CS だろう。
私も彼のマイル CS を何度見返したことだろうか──到底、見当もつかないほどだ。

「名刀デュランダルの切れ味! 大外からファインモーションを切り裂きました!」
「名刀の切れ味は今年も衰えていません!」

これらは 2003 年と 2004 年のマイル CS における馬場鉄志氏の名実況であるが、その卓越したワードセンスになんともリズム感の心地良い実況と、手綱を取った池添謙一騎手のあまりにも派手なガッツポーズを、当時レースを見ていた人の多くが容易に再生できるのではないだろうか。
そして、ここまで揃って初めてデュランダルの「1つのパッケージ」であるとすら感じてしまう。

彼のスタイルは、一貫していた。
ゲートを出たら最後方まで下げて 4 コーナーで馬群の 1 番外を回り、大外一気で追い込んでくる。
他馬の動向やレースラップなど、一切関係ない。

「届くか、否か」

ただそれだけだった。

「馬群の 1 番外をデュランダル!」
この台詞を何度、耳にしたことだろうか。
彼の走りは、最後に必ず伸びてきてくれるという信頼感と、それが果たして届くのかどうかという圧倒的な高揚感と、外から全てを飲み込むようなゾワっとするような姿……ある種の『恐怖感』すらある、独特な空気を帯びていた。

私がデュランダルを知ったのは、彼が引退してから 5 年以上が経ってからのことだった。
ようするに、私はそのレース結果などとうに知っているのにも関わらず、その独特な空気感に飲まれ、あっという間にその虜になったのだ。
彼の走りを見返すたびに、鳥肌が立つようなゾワっとした感覚と手足の先まで電気が通ったようなビリビリした感覚に襲われる。

これがまさに『痺れる』、『震える』といった感情だと認識するのは、もう少し年齢を重ねてからのことだった。

彼は、他に類を見ない異質なスプリンターだった。
その根拠となる、こんな記録がある。
彼は 2003 年のスプリンターズ S から引退レースとなった 2005 年のマイル CS まで 8 戦連続して GⅠに出走し続けたが、これは既に引退した馬たちの中では 12 走連続のブエナビスタ、9 走連続のオグリキャップに次いで、キタサンブラックやハーツクライらに並ぶ 3 位タイの記録(地方交流競走を除く)なのである。(2020 年 11月現在)
この手の記録は、路線が充実していて GⅠの数自体が多い中長距離路線を主戦に戦い抜いてきた馬たちが名前を連ねる。だからこそ、短距離を主戦場にしていたデュランダルの存在がどれだけ異質なものであるか、どれだけ偉大なことであるか──その想像は容易であろう。

生まれつき蹄に弱さを抱えていたため順調にレースを使えないという状況にありながらも、世代交代の激しい短距離戦線で約 3 年にもわたってトップレベルに君臨し続けた。決して逃げ切りの少なくないこの路線にあって、あえて極端な追い込みをその信条としている彼が、オープン馬になってからは適性外だった 1800m戦・中山記念と、ラストラン・マイル CS のたった 2 度しか掲示板を外していないのだから、その姿は歴代の名スプリンターたちと並べても決して引けを取らないといえる。

彼はこれと同時に、奇跡の復活を遂げた不屈のスプリンターでもあった。
2005 年、病魔が彼を襲う。

『蹄葉炎』

サラブレッドにとって命の危機を伴うほどの、重篤な疾病である。
上述のウオッカもテンポイントも、その死の大きな要因となったのがこの病だった。そこからは長らく、治療に専念することとなる。

しかし前走から 10 ヶ月が経った 2005 年 10 月 2 日、デュランダルの姿は中山競馬場にあった。
そして道中最後方追走から 4 コーナーで大外を回る自分の競馬に徹し、馬場のまん真ん中を強烈なまでの末脚で追い込んできたのだ。
結果、勝った香港のサイレントウィットネスには及ばなかったものの、この時記録した上がり 3 ハロンタイムが 32.7、これは生涯最速タイムだった。
聖剣の刃は、ひとつの陰りもなかった。
それどころか命の危機を乗り越えてなお、その切れ味は増していた。

上がり 3 ハロン 32.7 は近年においてもそう簡単に記録される数値ではなく、2017 年のシュウジ(10 着)が記録するまでスプリンターズ S 史上単独最速タイムであり、現在もなお最速タイの記録である。それを今から 15 年も前に、蹄葉炎で 10 ヶ月休養した馬が、その復帰戦の GⅠで繰り出すのである。

これを驚異的と言わずして何と言おうか。

彼はまさに『ローランの歌』の一節、「切れ味の鋭さ、デュランダルに如くものなし」を体現した馬だった。
私とて競馬を見て「この馬は強い!」と感じたことは数知れずある。これでもたくさんのレース映像を見返してきたつもりだし、実際に現地に赴くこともそう少なくはないからだ。現に、キタサンブラックの天皇賞(春)、アーモンドアイのジャパンカップなど世界レコードを記録したレースもその競馬場の最前列にいて、同じ空気を肌で感じてきた。
そしてそれらがとんでもないパフォーマンスであって歴史に残る走りだったことに対して異論はないし、その場にいたからこそ彼らの強さは身に染みてわかっているつもりだが、今までで 1 番衝撃を受けた馬はどれかと問われれば、私は間違いなく「デュランダル」と即答するだろう。

それ程までに彼の走りは圧巻だった。

あなたにとって日本競馬史上 1 番強い短距離馬はどの馬だろうか?

サクラバクシンオーか、ロードカナロアか、あるいはキンシャサノキセキか──それ以外の名を挙げる方も多くいることだろう。
しかし私は、逃げ込みをはかるサクラバクシンオーも、ねじ伏せにかかるロードカナロアも、抜け出そうとするキンシャサノキセキも、それ以外の馬たちも、全てまとめてデュランダルがその豪脚で差し切ってくれると信じているのだ。
伝説の聖剣に切れないものなどないと、そう信じ続けているのだ。

2013 年 7 月、彼は馬房で息絶えているところを発見された。
たった 14 年。
デュランダルの生涯は、皮肉にも彼の最大の魅力であったあの末脚のようにあっという間のものだった。

当時高校生だった私は、「デュランダル死す」の報をネットニュースで見た。
その頃は競馬場にも行ったことがなかったし、自分が馬に乗るとも、種牡馬や功労馬に会いに行くとも、もはや会いに行けるものだとすらも思っていなかったが「デュランダルに会ってみたかった」とふと思ったのを今でもよく覚えている。
そんな漠然とした思いを胸にしてから 5 年が経った夏、大学生になった私は北海道に飛んだ。
宿泊先のホテルから 2 時間くらいかかるだろうか。
ブリーダーズ・スタリオン・ステーションに着いた私は入り口に立つスタッフの方に真っ先にこう尋ねた。
「デュランダルのお墓はどこですか」

会いたい時に会いに行く。
今ではこれが私のモットーだ。
会いたくても会えなかった馬がたくさんいる。

人間よりも繊細で寿命も短いサラブレッドには、「いつか会える」、「来年にしよう」は通用しない。
ディープインパクトも、キングカメハメハも、マヤノトップガンも、ナリタタイシンも、ヒシマサルも、会いに行った翌年にはもうそこにはいなかった。
そして私にとっての永遠のヒーロー、ビワハヤヒデでさえも、30 年の長旅に終止符を打った。
たった 1 度でも、それがたかが数分だとしても実際にこの目で見た彼らの馬体が、その場で感じた息吹が、彼らをこの目で見たという事実が、私にとって何ものにも代え難い最高の財産なのである。

デュランダルのそれを感じることができなかったことが、今になってとても悔しく感じる。
画面の向こうにいたあの衝撃を目の前にしたとき、それは私の目にどんな馬に映ったのだろうか。

私は今でも北海道に赴く際には、必ずブリーダーズ・スタリオン・ステーションに立ち寄り放牧地の外れの墓石に手を合わせに行くのだ。
広い放牧地に風が吹き、鳥の鳴き声と草の擦れる音がだけが聞こえる。
そんな穏やかな時間がゆったりと流れる。
彼の墓石を目の前にしてそっと目を瞑る時、草の擦れる音がさながらスタンドから湧き上がる歓声のように聞こえることがある。

そうしてそれらの音の少しだけ遠くに
「馬群の 1 番外をデュランダル!」
アナウンサーの実況とともに彼の走る姿が、そしてあの“伝説の聖剣”が、うっすらと見える──そんな気がしてならないのである。

写真:RINOT

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