すっかり解放感に包まれながら会場に戻ると、そろそろ未供用馬のセリが始まろうとしていました。僕が候補に挙げていた、アメリカンウェイクやエトワールがどのような評価を受けるのか、今後のためにも知っておきたいと思いました。50番のアメリカンウェイクが登場するとすぐに声が掛かり始めましたが、意外にも上がるペースが遅く、裏側から10万円単位に抑えて競ってくる人がいる始末です。
上がり幅の単位は、基本的には鑑定人によって決められます。たとえば100万円スタートの馬であれば、「150万円の方いますか?」と50万円単位で鑑定人が促していきますが、手を挙げた人が「110万円!」と言えば刻むことも可能です。そこで鑑定人は「150万円の方?」と再び促しますが、手が上がらなければ110万円で落札です。
アメリカンウェイクは僕の予想だと、さすがに500万円は軽く超えてくると考えていたので、300万円台から10万円単位で刻む人がいることが不思議でした。そのペースに巻き込まれたのか、価格が上がるペースはじわじわとしたもので、最終的には600万円で落ち着きました。コスモビューファームが落札したそうです。
次は僕が未供用馬の中では最も気になっていた51番のエトワールです。さすがにもう1頭は買えないのですが、誰も手を挙げずに100万円で主取りになったらどうしよう?最後にひと声挙げて落札してしまおうかなどと邪(よこしま)な気持ちも湧いてきましたが、こちらは速いペースで価格が上がっていき、あっという間に1000万円を超えてしまいます。最終的には、なんと4000万円!でシンボリ牧場が落札しました。アメリカンウェイクとエトワールの間には、血統的にも馬体的にもそれほど大きな差があるとは思えませんでしたが、見る人が見れば分かるのかもしれませんね。
落札した後、契約書にサインをして、馬と記念写真を撮り、これで一連の流れは終わりかと思いきや、最後にもうひとつ大事なことが残されていました。保険の契約です。これだけの高額商品であり、生き物ですから、さすがの(あらゆる保険にほとんど興味のない)僕も保険に入ることにしました。セリ会場の一角に、会議室によくある長机が置いてあり、そこで契約をします。大ざっぱに言うと、繁殖牝馬に対する保険と、そのお腹にいる仔馬に対する保険の2種類があります。
僕が落札したダートムーアは税込みで770万円でしたので、そこからお腹にいる仔の父ニューイヤーズデイの種付け料(250万円)を引いた520万円が繫殖牝馬単独の価格と考えます。お腹にいる仔馬の価格が250万円という形に分割し、それぞれに対しての保険があるということです。繁殖牝馬は520万円の3.2%に当たる16万6400円、仔馬は250万円の8%に当たる20万円が保険料ということになります。
長谷川さんの話では、環境が大きく変わることで、特に高齢の繫殖牝馬はお腹の仔が消えてしまう、つまり流産してしまうことがあるそうです。また、繁殖牝馬自身に何かあったとき、基本的にはお腹の中の仔も亡くなってしまうことが多いため、どちらにも保険をかけておく方が妥当かなと思いました。もちろん、繁殖牝馬の価格によっては保険をかけないという選択をする人もいるかもしれませんが、僕にとっては初めての繫殖牝馬であり、何かあってからでは遅いので、長谷川さんのすすめるままに、どちらの保険にも入ることにしました。合計36万6400円を保険料として支払いました。
すべての仕事を成し遂げた空港までの帰り道は、これまでに味わったことのない達成感と高揚感に僕は包まれていました。びしょ濡れになってしまったことなど、気にもなりません。無事にダートムーアが碧雲牧場まで到着し、ニューイヤーズデイの仔を生んでくれて、さて来年はどの種牡馬を配合しようかということで頭が一杯です。「碧雲牧場からダービー馬を出す」というビジョンに一歩近づいたような気がしました。千里の道の一歩にすぎないことは百も承知ですが。
11月1日に碧雲牧場にダートムーアが無事にやってきたと報告がありました。さすがのダートムーアも慣れない環境に最初はソワソワしていたようですが、次第に慣れてくれるのではないでしょうか。碧雲牧場に解き放たれたダートムーアの姿を動画で見るにつけ、僕も今すぐ日高に駆けつけて、一緒に走って遊びたい衝動に駆られました。東京とは全く違う時間が日高の牧場には流れていて、にもかかわらず、僕とダートムーアは同じ時間を過ごしているのです。これから僕は日々の喧騒や忙しさに押しつぶされそうになったとき、碧雲牧場の草の上を駆け巡るムーアのことを思い出し、僕たちが生きる場所はたくさんあることを確認することでしょう。
美学者の伊藤亜紗さんが著書「ポストコロナの生命哲学」の中で、人間の身体性にまつわるこんな面白い話をされていました。伊藤さんの友人がモンゴルに行き、結婚式を挙げたときの話です。式が終わり、父親役を務めてくれたモンゴルの親戚の方が、「君にこの馬を1頭プレゼントする」と言い出したそうです。友人は「急に言われても、持って帰れない」と断ろうとしましたが、「この馬を持って帰れという意味ではなく、自分たちがこの馬をモンゴルでずっと飼っているから、君が来たときにいつ乗ってもいい。君の馬なんだから」と言われたそうです。
この話の意味としては、人間はその場にいられなくても、何かを分身として残すことでその場にいられるということです。その馬がモンゴルにいることによって、伊藤さんの友人は東京にいてもモンゴルの草原を感じたり、モンゴルで出会った人たちを思い出したりすることができるわけです。残された人々も、その何か(この場合は馬)があることによって、その人の存在を感じることができる。分身が存在することによって、物理的な距離を超えて、一緒にいると感じられるということです。そこにいるということは、身体性が必ずしも問われるわけではないのです。
(次回に続く→)