馬産地・青森より、愛をこめて。 - 青森県出身の2歳女王・タムロチェリー

桜花賞と同じ舞台で行われる阪神ジュベナイルフィリーズは、翌年のクラシックを占う登竜門であり、心身ともに未完成な少女たちが迎える大舞台である。天性の才に恵まれてこの大一番を踏み台に更なる飛躍を遂げる馬も居れば、このレースこそが生涯最大の輝きとなる馬も居る。この舞台の後、彼女らの競走馬として歩みがどちらになるかはわからない。だが、例えその後の戦績が華美なものにならなくとも、このレースを制したものは2歳女王の称号と共に後世にその名を残すこととなる。

2001年。小柄な少女が一世一代の走りで2歳女王の称号を掴み取った。メインストリームとは決して言い難い青森県からやってきた彼女は、西園厩舎の水色のブリンカーと眩しいピンク色の勝負服を纏い、22年ぶりの快挙で故郷に大きな花を送ることとなった。本稿ではその馬、タムロチェリーを振り返りたい。

タムロチェリーを語る上で欠かせないのは、彼女の出自でもある青森県の馬産事情だろう。

青森県はかつて競走馬の一大産地であった。歴史に名を残す馬も数多く輩出している。

1940年から50年代にかけて、皐月賞とオークスを制したトキツカゼ。そのトキツカゼが産み落とし、母をも超える偉大な戦績を残した二頭の年度代表馬オートキツとオンワードゼア兄弟。岩手県が生んだ三冠馬セントライトの8つ下の弟としてこの世に生を受け、皐月賞と菊花賞を制して種牡馬としても大きな存在感を放った顕彰馬トサミドリ。兄弟ダービー馬のヒカルメイジとコマツヒカリ。ヒカルメイジが父として輩出したグレートヨルカとアサホコ──。

競馬が今ほどには洗練されておらず泥臭かったかつての時代を生き、私にとっては歴史史料を紐解いてようやく蹄跡を辿ることができる存在──私が競馬と出会ったときには既に伝説となっていた数々の名馬達──は、青森の地で、この世に生を受けていた。

1960年を超えると北海道で生産された馬たちの躍進が始まる。1978年にカネミノブが、1979年にテンポイント、トウショウボーイに挑み続けたグリーングラスが年度代表馬に選出されたが、道外における競走馬の生産は頽勢へと向かった。本記事の執筆現在、青森県でのサラブレッド生産頭数は100頭を割り込み、国内の生産頭数の1%に満たない寂しい現状が浮かび上がる。

青森県産馬の存在がすっかり希薄なものとなった1999年。かつてグリーングラスが産まれた諏訪牧場で産声を上げたのが、タムロチェリーであった。父は遠く海を渡って日本に輸入され諏訪牧場で種牡馬としての晩年を過ごしたセクレト。現役時代は4戦3勝という戦績で、愛2000ギニーでは種牡馬サドラーズウェルズと刃を交え、英ダービーでエルグランセニョールに土をつけてビッグタイトルを手にしたノーザンダンサーの直仔は、本国でも日本でも期待ほどの繁殖成績は収められないまま、タムロチェリーがこの世に生を受けた半年後の10月にこの世を去っていた。

青森の大地で悠々と育まれたタムロチェリーは、1歳時のセリでJRAに購買され宮崎育成場で鍛錬を積む。2歳になった彼女は「抽せん馬」として谷口屯オーナーと西園厩舎に迎えられ、デビューの時を迎えることとなった。

2001年7月。夏の小倉開催開幕週2日目。当時はまだ芝1800mで施行されていた北九州記念を心待ちにする九州の競馬ファンの前で初陣を迎えたタムロチェリーだったが初戦は他の馬を怖がって外に逃げ、勝ち馬から2.7秒離された7番人気11着。中二週で臨んだ折り返しの新馬戦で3着と前進すると、再度の中二週で距離を延ばした芝1800m戦で、珍名で名を馳せたオモシロイをクビだけ退けて初勝利を挙げる。

その翌週、彼女は小倉2歳ステークスへ出走するために再び小倉競馬場に姿を現す。勝ち上がりに3戦を要した彼女の下馬評は低く、出走15頭中の最低人気の15番人気。全くのアンダードッグの存在であった。

迎えた初めての重賞の舞台。前半3F33秒7のペースをほぼ最後方で追走すると、四角の下り坂を利して勢いをつけて直線を迎える。300mに満たない小倉の短い直線で豪快に追い込むと、メンバー中最速の末脚で逃げ粘るオースミエルストを捉えった。開幕週から参戦しつづけた灼熱の小倉競馬場。前週からの連闘策を実らせて、タムロチェリーは重賞ウイナーの称号を手に入れた。

晴れて重賞ウイナーとなったタムロチェリーは一息を入れて臨んだ11月の京都、ファンタジーステークスで+16kgと一回り大きくなった姿を見せる。だが坂の下りから早めに進出した彼女は、馬群の狭い所に入ってしまい最後方まで後退してしまう。再び盛り返す脚こそ見せたものの、三番手からスムーズに抜け出した快速牝馬のキタサンヒボタンから遅れること0秒9差の10着。展開の綾に絡めとられたとはいえ、結果を残せなかった彼女は牝馬戦線から大きく後退した。


ファンタジーステークスの翌週、西園調教師は悩んだ末に小倉2歳ステークスを制した小池騎手から欧州の名手オリビエ・ペリエ騎手へのスイッチを決断する。数少ないステークスウイナーからの騎乗依頼にペリエ騎手は快諾の意向を示し、名手の力を得たタムロチェリーは一世一代の大勝負に臨むこととなった。

第53回阪神ジュベナイルフィリーズ。前述のファンタジーステークスを含めて4戦4勝のキタサンヒボタンが一番人気に支持されたもののそのオッズは3.5倍。無傷の2連勝中で素質の一端を示していたオースミコスモ、ファンタジーステークス2着でその名の通り500kg超のグラマラスな馬体を誇ったツルマルグラマー、札幌2歳ステークスで牡馬相手に2着と健闘したナリタブライアン産駒のマイネヴィータ、函館デビューで堅実な走りを続けてきたヘルスウォールが10倍以下で続く混戦模様の一戦となった。タムロチェリーは7番人気。前走の大敗を考慮すれば評価されたという見方もできようが、このオッズにはおそらくマイルチャンピオンシップ(ゼンノエルシド)、ジャパンカップ(ジャングルポケット)で2週連続G1制覇を成し遂げた騎手の存在が多分に加味されたものであっただったろう。混戦模様の中でもタムロチェリーに掛けられる期待は決して大きなものでは無かった。

道営から転入してきたアローキャリーがワールドスーパージョッキーズシリーズのために初来日したキーレン・ファロン騎手を背に果敢にハナを奪い、オースミコスモとキタサンヒボタンがやや力み気味に直後を進む。タムロチェリーは中団外、他馬に揉まれることのない位置取りで自らのリズムを保つ。

四角の勝負処、ペリエ騎手に促されたタムロチェリーは先行集団を射程圏に入れる。そして迎えた直線、マイペースに持ち込んだアローキャリーが逃げ粘り、好位を追走したキタサンヒボタンとオースミコスモが追いすがり、その外からもう一列後ろで息を潜めていたマイネヴィータとチャペルコンサートが脚を伸ばす。だが各馬の脚色に際立った差は生まれない。序盤の貯金を活かしたアローキャリーがそのままゴールへ流れ込もうとする中、タムロチェリーがただ一頭、ペリエ騎手の叱咤に応えてじわじわと差を詰める。

残り100m地点でもどの馬が抜け出すか判らない大混戦の鍔迫り合い。

残り50m、急坂で各馬の脚色が鈍った刹那に最後の一伸びを見せると、ついにアローキャリーをとらえた。

青森県にグリーングラス以来22年ぶりのG1タイトルがもたらされた。

2歳女王に選出されたタムロチェリーは翌年、牝馬クラシック戦線に臨んだ。だが初戦のチューリップ賞で2番人気の支持を大きく裏切って大敗を喫すると、桜花賞12着、オークス12着と結果を出せぬ日々が続く。

秋を迎えても、苦しい戦いは続いた。タムロチェリーが2歳女王に輝く一日前、阪神初日の新馬戦を牡馬相手に破格のスケールで勝利を収めて評判を集めたファインモーションが"遅れてきた大物"として大輪の華を咲かせる傍らで、タムロチェリーは秋華賞13着、エリザベス女王杯12着。

世代最初のG1ウイナーとしてかつては主役の座を伺っていたタムロチェリーは、すっかり端役のポジションに追いやられてしまったように感じられた。

4歳シーズンに入り巻き返しを期したオープン特別でも期待したような結果が得られなかった彼女は、デビューから丸二年の節目となった北九州記念で9着に敗れた数日後、現役引退を表明する。競走生活の全てを注ぎこんで掴み取った阪神ジュベナイルフィリーズの勲章を胸に、彼女は青森の故郷に帰っていった。


タムロチェリーはたった3頭の仔を残し、2007年8月15日午前11時、8歳の若さで癌のためにこの世を去った。

フォーティナイナーとの間に産まれた1番仔タムロチェストはJRAで2勝を挙げる活躍を見せた。彼女が亡くなる3か月前にこの世に生を受けた遺児・3番仔タムロスカイは、母を失った逆境にもめげずに6勝を挙げてオープンクラスで活躍した。2013年のメイステークスで18頭立ての16番人気の低評価を覆して押し切った走りは、波乱の立役者として駆け抜けた母の血のなせる業だったのかもしれない。

そして2番仔として遺された唯一の後継繁殖タムロブライトは、自身は未勝利に終わったものの繁殖牝馬としてその血を繋いだ。タムロブライトがドリームジャーニーとの間にもうけたミライヘノツバサは、若くして頭角を現し皐月賞と菊花賞に挑戦。屈腱炎での1年半にわたる雌伏の時を越えて2020年のダイヤモンドステークスを16番人気で制した。「グリーングラス以来22年ぶりのG1制覇」を成し遂げたタムロチェリーの血は、20年の時を経て今度は「マイネレーツェル以来12年ぶりのJRA重賞制覇」を青森にもたらした。

青森県産の馬は、今も決して多くない。そんな地に流れ着いた英ダービー馬セクレトが遺したタムロチェリーは、細い糸を紡いで今も青森県産馬の底力を示し続けている。

2021年、ヨカヨカの活躍を筆頭に九州産馬が競馬界に大きなムーブメントを起こし、馬産地の多様性が魅力に満ちたものであることを改めて証明した。青森県で競走馬の生産を行っている牧場は現在30戸程度。この中からいつかまた、大きな舞台で異彩を放つスターホースが生れ落ちることを心から期待したい。

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