それはもう、15年近く前のこと。
最初は、その名前に惹かれた馬だった。
その荒削りな走りに、心を奪われた馬だった。
その気まぐれな走りに、もどかしさを感じた馬だった。
タスカータソルテ。
その名の意味は「ポケット一杯の幸せ」。心温まるネーミングだ。
ダービー馬、ジャングルポケットの初年度産駒にして、その想いを受け継いだ1頭。
新時代を草創し、たくさんの幸せをもたらした父にちなんだ、ウィットに富んだ名前だった。
彼が立身出世してクラシック戦線に脚を踏み出す姿を、彼が一線級に跳ね返される姿を、彼が何度敗れても再び挑む姿を……
……そして脚を痛め走れなくなった彼が馬運車で運ばれていく姿を、今も鮮明に覚えている。
彼が歩むたび、ポケットの中に幸せが詰まっていった。
2007年1月。新春の京都・福寿草特別。
「もしかしたら、後の大物に出会えるかも?」とパドック最前列に張り付いていた私の前に、彼は姿を現した。
黒光りして手脚が長く、品のある佇まいの馬だなと感じた。
戦績を見ると、初勝利を挙げた中京の未勝利戦で2歳レコードを樹立しており、非凡な能力の一端が示されていた。
口を割りながら返し馬に向かっていく姿には、内に秘めた生来の我の強さも感じさせる。
「いつか、このレースを見たことを自慢できたらいいな」
そんな思いを胸にシャッターを押していた。
彼は淀の芝2000mを易々と駆け抜けた。ゲートを飛び出し、コースをぐるりと一周してゴールラインに戻ってきたとき、2着のマイネインティマは4馬身、3着とはさらに4馬身、4着はそのさらに7馬身も彼方だった。
ゴール板を駆け抜けた後も、走り足りぬとばかりにますます加速していきそうな走りは、生命力と大きな可能性に満ちていた。
翌日の新聞には、クラシック戦線に名乗りを挙げた彼の名が躍っていた。
クラシックへの夢物語。彼の大きなポケットに一つの幸せが収められた。
次に彼と出会ったのは、ダービーへの東上最終便、京都新聞杯。
弥生賞と毎日杯で壁に跳ね返された彼だったが、陣営はダービーの切符を諦めていなかった。ラストチャンスに賭けて再び淀の舞台に舞い戻ってきた。
ライバルを出し抜こうと各馬が睨み合う展開の中、タスカータソルテは中団インで脚を溜める。少しでも気を損ねたらどこかに飛んでいってしまいそうにも思えたけれど、岩田康誠騎手はガッチリと手綱を抑えて1コーナーをクリアし、2コーナーをクリアし、淀の坂を上り、そして下っている。
直線、速め先頭から押し切りを図るフェザーケープの外に進路を求めると岩田康誠騎手は相棒の力を一気に解き放った。瞬間、グッと身体を沈み込ませ、あっという間にフェザーケープを捕えた。インを強襲したローズプレステージと外に回ったクレスコワールドが追いかけてくるが、タスカータソルテの脚色は誰よりも確かだった。
新緑の淀を風となって駆け抜けた彼は、近2走の悔しさを吹き飛ばす鮮やかな走りで重賞タイトルを奪取した。
続くダービーではアドマイヤオーラからの降板を告げられた武豊騎手が手綱を取った。
ウオッカが演じた歴史的ゴールから1秒3離されてのゴールになったけれど、憧れの鞍上を背に、夢舞台で多くの歓声を浴びた。
秋には菊花賞にも挑戦した。流石に距離も長く後方から僅かに脚を伸ばすに留まったけれど、クラシック2冠を完走して見せた。
まだまだ荒削りで発展途上。どこか線の細さを残して力もつききっていなかったけれど、世代のレギュラーとして、彼は無くてはならない存在となっていった。
かけがえのない経験を積む中で、彼の大きなポケットには重賞タイトルとクラシック参戦の思い出のふたつが、大切に収められていった。
年が明けて4歳になった。
中京記念から始動したタスカータソルテは、6番人気の低評価に奮起して2つ目の重賞タイトルを手にした。センカク、ワイルドファイアー、ワンモアチャッターと鼻面を並べたゴール争いを制しきったのは彼が持つ底力の為せる業だった。
少年期から青年期へ。未完成な様子は相変わらずではあったけれど、力強くて誇らしげなその仕草には、年齢を一つ重ねたぶんの風格が備わったように思えた。
G1タイトルを目指してシンガポールの遠征も計画された。
選出されたはずの海外行きのチケットは馬インフルエンザの影響で白紙となったけれど、世界を意識できる一頭となっていた。
夏に参戦した札幌記念は彼のベストバウトとなった。
1番人気は前年のグランプリホース、マツリダゴッホ。2番人気は皐月賞3着、ダービー4着の3歳馬マイネルチャールズ。
一つ上の世代と一つ下の世代のトップホース2頭を相手に、タスカータソルテは圧巻の走りを見せた。
ゲートを飛び出したコンゴウリキシオーが淀みなく逃げて、離れた2番手をメイショウレガーロとマンハッタンスカイが進む。その直後にマイネルチャールズとマツリダゴッホ。有力馬が速いペースを先へ先へ進んでいく中、横山典弘騎手を背にしたタスカータソルテは後方のインでじっと息をひそめる。
4角でマツリダゴッホが動く。
ダイワスカーレットすら完封したその脚力で、あっという間に先行各馬を呑み込むと、そのまま2馬身、3馬身と一気に後続を突き放す。
古馬の迫力に気圧されたマイネルチャールズは手応えを失う。マツリダゴッホが一掃した馬群を捌いてフィールドベアーが追いすがるが、マツリダゴッホの勢いには到底及ばない。
マツリダゴッホの独壇場か、と思われた残り200m。馬群から只一頭、タスカータソルテが飛び出す。横山典弘騎手の卓越した勝負勘に導かれ、「ここしかない」と刹那のタイミングで力を解放する。
残り100m。まだその差は2馬身から3馬身。けれど、王者の背中はグングン近づいてくる。
残り50m。マツリダゴッホの尻尾をタスカータソルテが捕まえる。
残り10m。身体が並び、そして抵抗の間を与えることなくタスカータソルテはその鼻先を前に押し出す。
ゴールを駆け抜ける瞬間、横山典弘騎手は小さく拳を握り締めた。それから満面の笑みで観客に拳を突き上げた。
タスカータソルテはマツリダゴッホを相手に大金星を挙げて見せた。
勝ち時計は1分58秒6のレコードタイム。これは本稿執筆時点(2024年)も破られていない大記録である。
コンゴウリキシオーが演出した激流を乗り越え、グランプリホースを真っ向勝負で打ち負かしたその走りは、タスカータソルテ自身がG1馬に比肩する心身の強さを持ちうることを証明していた。
彼のポケットには、さらに2つの重賞タイトルと、レコードタイムの勲章が収まった。
大きく膨らんたポケットの中の幸せを胸に、彼はさらなる幸せを手にせんと歩み続けた。
幾つもの重賞タイトルを胸に、彼はG1にも挑戦した。5歳時には一年越しの計画を敢行し、シンガポールにも飛んだ。
我が強い彼は、時に気持ちで身体を動かし、時に気まぐれで走るのをやめた。
G1タイトルは能力だけでは手にできない。なかなか噛み合わない、もどかしい日々が続いた。
6歳を迎えてさすがに成績も下降線を辿ってきたかと思われた矢先、年明けの中京記念でシャドウゲイトに肉薄する2着と復調気配を見せた。続く大阪杯もコンマ2秒差の5着。一時の不振を脱し、再びタスカータソルテは躍動を見せていた。
6月、金鯱賞。
この年の金鯱賞は中京競馬場の改修に伴う代替開催で京都競馬場で開かれていた。
いつもとは少し趣の異なる延長戦の京都開催。重賞の心躍る本馬場入場曲が流れる中、宝塚記念の主役の座を射止めんと、新緑のターフを出走馬たちが思い思いに駆け出していく。
アーネストリーが、ナムラクレセントが、スマートギアが、アクシオンが、長い休みを乗り越えたアドマイヤオーラが、思い思いに駆け出して行った。
タスカータソルテも5番人気の支持を集めている。十分に争覇圏内、ここでマツリダゴッホを封じたあの走りを取り戻せれば…そんな思いを胸に、伸び伸びと走る彼の姿を収めようとカメラを向けた。
ファインダーを覗きながら、ふと、唐突な既視感に襲われた。
黒い帽子の2枠2番。G2の赤いゼッケン。薫風の京都の強い陽射し。ピカピカに輝く黒鹿毛。
──3年前も、こんな感じだったっけ。
まだ若かりし日、京都新聞杯で大きな飛躍を遂げた姿が蘇る。あの頃、口を割って鞍上との折り合いに苦慮していた彼は、随分大人びた様子で駆けている。私は心の内でそっと祈った。
──良い走りができますように。
それから約10分後、ゲートが開いた。
タスカータソルテは内枠を利して、中団のインにその身を収めた。3年前のあの日をなぞるように、力をぐっと溜めながら、最初のホームストレッチを駆け抜けていった。
翌週、京都競馬場の馬頭観音を訪れると、手向けの花と彼の写真が供えられていた。
在りし日の姿をじっと見つめ、ファンにも愛されてたんだな、と思いながら、私はそっと手を合わせた。
それからライスシャワーの碑の前で、天に上った彼に思いを馳せ、痛々しい彼の姿を懸命に振り払い、喜びに満ちた彼の姿でなんとか心を満たしながら、もう一度彼の冥福を祈った。
タスカータソルテ。
その生涯は悲しい幕切れとなってしまった。
けれど、父から受け継いだその名の通り、彼は携わるすべての方々に、ポケットがパンパンに膨らむほどの幸せを送ったはずだ。例え幕切れがどれだけ悲しかろうとも、在りし日の彼がもたらした幸せの尊さ、輝きは変わらない。
ふとしたとき。
それは札幌のレコードが破られる時かもしれない、それはジャングルポケットの血が輝くときかもしれない、それはウィットにとんだ素敵な名前を見た時かもしれない。
何気ない一瞬に彼のことを忘れずにいようと思う。
ポケットいっぱいに幸せを詰めたまま、今も空の上を元気に駆け回っているであろう彼の姿を、心に刻んで。
写真:norauma