密集した馬群が淀の坂を駆け上る。蹄音が大地を揺らし歓声と溶け込む。日本とアイルランドの名牝がじわりと進出を始める。
しかし、ファンの視線は遥か前方に向けられている。
馬群の遥か前方をひた走る2頭は残り1000mを切ってもなお、大きなリードを保っていた。
驚愕の結末を予感し、スタンドがにわかにざわつき始める。
さまざまな声が渾然一体となり、競馬場の空気がねじれるように歪む。
──ええい、いっそのこと、そのままいっちゃえ!
私の心に、破壊願望にも似た、いたずら心の火が灯る。
歴史に残る逃走劇の予感に心が躍る。
もしも競馬がセパレートコースを一頭ずつ走る種目ならば、きっといまよりずっと簡単だろう。
駆け引きのない純粋な身体能力勝負において、人馬はただ速く走ることに集中すればいい。
繊細なコントロールを成し遂げる難度はきっと高い。けれどそこにあるのは自身との戦いのみ。紛れる余地が格段に減ってタイムトライアルと化した競馬は平穏で予見しやすく、そしてきっと味気ない。
でも、実際の競馬はずっと複雑だ。
馬群は密集し、荒い息遣いで汗まみれの肉体をぶつけ合う。土塊を弾き飛ばしながら、不屈の精神で前へ前へと脚を進める。ほんの僅かなペース配分や気の焦り、一瞬のコース取りのミスが、ゴールラインでの決定的な差につながる。
言葉の通じないこの聡明な生き物を、ジョッキーは時速60kmを超える速度で操り、相手を出し抜き、封じ込めようと策を弄する。
レースが思い通りに進むことは殆どない。例え最高の走りをぶつけても、相手が一歩上回れば土に塗れることになる。失敗を繰り返しながら諦めずに己を貫くうちに、相手の思わぬ失策に恵まれることもある。
多くの馬がひしめき合いながら一つの土俵で競い合う種目だから、ほんのわずかな揺らぎが勝敗を左右する。
だからこそ、競馬はギャンブルとして、ロマンとして、たった一つのレース、ほんの数分の中にも大きな深みを宿している。
2009年11月15日、京都競馬場。第34回エリザベス女王杯。
晩秋を迎えた淀は、いつもより一枚多く羽織らないと身体が冷えるような肌寒さで、朝一番に飲む温かいコーヒーが染み入った。
土曜日早朝に降った雨の影響は時の経過に伴い少しずつその痕跡を消し、レースを前に良馬場へ回復した。
スタンドの喧噪が次第に熱気を帯びる中、私は群衆の一員として、ゴール前で息を呑みながらその瞬間を待っていた。
スタンドからは予想に興じる老若男女の声が聞こえる。
本命党も穴党も、ファンの話題は一頭の華やかな名牝に集中していた。
その名はブエナビスタ。
競馬史にその名を刻むこととなる女王は、このとき3歳。阪神ジュベナイルフィリーズ、桜花賞、優駿牝馬をいずれも規格外の末脚で突き抜け、既にトップホースの地位を確立していた。
渡仏を見据えた札幌記念で伏兵ヤマニンキングリーに僅かに後れを取り、国内に専念して3冠を目指した秋華賞ではレッドディザイアの雪辱を許していた。進路取りの妙で取りこぼした近2走は負けて強しの内容で、決して彼女の評価を落とすものではなかった。
だが、敗戦は敗戦。これ以上の敗北を重ねることは彼女のプライドが許さない状況だった。復権を期す彼女の想いと彼女の強さを信じるファンの支持は単勝1.6倍のオッズにも表れていた。
スタンドでぼんやりしていると、馬券検討のさまざまな声が聞こえてくる。
「ブエナビスタの相手探し」「ブエナビスタから紐荒れに期待」「ブエナビスタが飛んだとしたら……」。
本命党も穴党も、ブエナビスタのことを考えている。
いろんな声に耳を傾けながら私は出馬表を眺める。何度にらめっこしてもブエナビスタ以外の答えは見つかりそうにないな、とマークシートに手を伸ばした。
「ブエナが差し損ねるかもしれへん。俺はあの逃げ馬2頭も抑えとくわ」
ふと、遠くからおっちゃんの声が聞こえた。
はて、逃げ馬2頭とは。と馬柱を見ると、11番テイエムプリキュアと7番クィーンスプマンテの名前が目に留まる。1か月前の京都大賞典では2頭で大きく後続を引き離す逃げを打ち、かたや9着、かたや殿に沈んでいた。
上位争いは厳しそうかな、と私はすぐにその可能性を消去した。ブエナビスタが突き抜けることを確定した未来のように思いながら、新聞とのにらめっこを続けた。
まだ薄い雲が残る京都競馬場の本馬場に、華やかにドレスアップした誘導馬に率いられた18頭が姿を現した。
晴れ舞台に臨む各馬は、皆、気合十分の誇らしげな様子で、芝コースの感触を確かめるようにゆっくりと私の目の前を駆け抜けていく。
3冠路線で上位争いを続けてきた3歳馬ブロードストリート、アイルランドから海を渡ってきたオペラ賞勝ち馬シャラナヤ、前年の覇者リトルアマポーラ、ラストランを迎えた2冠牝馬カワカミプリンセス。いずれ劣らぬG1クラスの強者たちだ。
本馬場入場のほぼ最後に、ブエナビスタがスラリとスマートな出で立ちで登場すると、歓声が一層大きくなった。ファンの注目を一身に浴びながら、安藤勝己騎手を背に落ち着いた所作で駆け抜けていった。
ファンの注目の少し外で、青い帽子と緑の勝負服の明るい栗毛馬もキャンターに入っていった。
夢中でシャッターを切っていた私のアルバムを振り返っても、このときの彼女の様子は殆ど残っていない。
その馬、クィーンスプマンテが新進気鋭の若武者を背に大仕事をやってのける未来が待っていることは、このときの私は微塵も思っていなかった。
ファンファーレが鳴り響き、ファンの手拍子は薄曇りの空に吸い込まれていった。
歴戦の各馬は落ち着いた様子でゲート入りを進め、ピンと張り詰めた一瞬の静寂の後、大観衆の目の前で決戦の火蓋が切られた。
ポンと勢いよくクィーンスプマンテが飛び出していく。田中博康騎手は作戦通りとばかりにハナを主張する。ゲートが速くなかったテイエムプリキュアの熊沢重文騎手も、すぐさま体制を立て直し、促しながらクィーンスプマンテを追いかける。2頭は競い合うような形で1周目のゴール板を駆け抜ける。
やり合う2頭に巻き込まれてリズムを崩してはならぬと後続勢は手綱を引く。外枠を飛び出したブエナビスタは、自身の末脚への絶対的な自信を胸に、馬なりで後方に構える。
1角を超え、2角を過ぎ、クィーンスプマンテをテイエムプリキュアが追い続ける。
ターフビジョンには縦に長く伸びた隊列が大写しにされている。スタンドからは驚きを含んだ歓声が上がる。
捨て鉢に映る2頭の逃げ争いを見送った3番手を確保したのは前年の覇者リトルアマポーラだった。鞍上クリストフ・スミヨンの意識は後方に控えるただ一頭に向けられている。最大のライバルとの勝負に向けて少しでも余力とアドバンテージを稼ぎたい、そんな思いは手綱を通じてリトルアマポーラに伝わり、さらにペースを落とす。
実質的に逃げる形となったリトルアマポーラの直後にはチェレブリタとブラボーデイジーがつける。格下と目される彼女らにとって得策なのは、自ら動かず強い馬に先導役を任せること。早々に固まった先行各馬の隊列は、後続勢の進出を阻む分厚い蓋となっていく。
アイルランドのシャラナヤは中団でじっくり脚を溜める。欧州のタイトルを掴み取った末脚はここでも上位だが、ライバルは評判の同期生。前を行く各馬を目標に動けば格好の的になってしまいかねない。体力を温存しながら後方の動向をじっと伺う。
ブロードストリートとカワカミプリンセスは、中団後方の馬群の切れ目で揉まれぬようにレースを進める。ロングスパートが身上の彼女らが動き出すのは坂の下りに入ってから。最大のライバルの気配に神経を尖らせながら、仕掛けのタイミングを伺う。
ブエナビスタはほぼ最後方を淡々と追走する。彼女の脚力をもってすれば、スローであっても馬群を一呑みすることは容易いはず。ライバル全員のマークが自信に集中する中で、それらを全て跳ね除けるための力を蓄える。
馬群の中で、互いが互いににらみを利かせる。後方に構える本命馬への警戒と先に動いて死に役になりたくない思いが、各人の判断を後ろへ追いやり、縛り付ける。
先頭をひた走る2頭への警戒は、依然、ほとんどなかった。
先頭の1000mの通過タイムが告げられる。
60秒5。
数字を見たファンの幾らかが、異変に気付き始める。
暴走気味の逃げを打っているかに見えた2頭のペースは決して速くない。速くないのに、3番手以降は遥か後方に離れている。
淡々と前を行くクィーンスプマンテと、直後を追いかけるテイエムプリキュア。共倒れになった京都大賞典の教訓を糧に、共存の道を選んだ2頭は、ストレスの無いマイペースのまま坂を上り、下り始める。
「これあかんて! あかんて! なんで誰も動かへんのや!」
「アンカツ! スミヨン! はよいけ!!!」
残り800mを過ぎたあたりで、スタンドのあちこちから焦りの交じった叫びが聞こえはじめる。
後続馬群ではブエナビスタが危険を察知した外を回ってスパートを開始した。あっという間に他馬をパスし、4角手前でリトルアマポーラに並びかける。
次の瞬間、馬群を捌ききった安藤勝己騎手の目には、20馬身以上もの遥か前方でラストスパートに入った2頭が目に映る。
それはもう、生身のサラブレッドの限界を超えた、絶望的とも言える距離だった。
「ブエナ! 差せ! 追いつけ!」
「もうええわ! このままいったれ!」
「なんやこれ! なんやこれ! わけわからん!!!」
「あー! アカン! 行ききってしまう!!」
直線を向いて猛追するブエナビスタとその遥か前方を行く2頭に様々な声が飛んでいる。
それは怒号なのか、悲鳴なのか、あるいは狂気じみた笑い声なのか。目前で繰り広げられる異様な光景に、ファンは混乱に陥っている。
直線の中ほどでクィーンスプマンテはテイエムプリキュアを突き放す。
田中博康騎手は必死に手綱を押し込み、相棒を叱咤する。ゴールまで残り100m。勝負あり……。
次の瞬間、ブエナビスタが最後の意地を見せる。
身体をぐっと沈み込ませて加速した彼女は、生き物の極致のようなスピードでクィーンスプマンテを追いかける。残り200mで20馬身あったはずの差は15馬身、10馬身、5馬身とみるみるうちに縮まる。
ゴール寸前、ブエナビスタはテイエムプリキュアの尾を掴まえ、次の一完歩で鼻面を並べる。
テイエムプリキュアを交わし去ったブエナビスタは、勢いそのままにあっという間にクィーンスプマンテを抜き去った。
物凄いスピードで彼方へと去っていくブエナビスタを見送りながら、田中博康騎手は噛みしめるように左手を握り拳を挙げていた。
クィーンスプマンテは全力を尽くしながら、ブエナビスタの急追を凌ぎ切ってゴール板を駆け抜けた。この日、エリザベス女王杯の勝者として名を刻んだのはクィーンスプマンテだった。
スタンドは騒然とし、歓声と驚嘆の声が入り混じっている。
ブエナビスタはこの日もとんでもなく強かった。
だが、勝てなかった。
クィーンスプマンテとテイエムプリキュアが起こした大波乱の決着に、多くのファンが握り締めた馬券は紙くずと化したが、スタンドを包む空気に不思議と悲壮感はなかった。
競馬の醍醐味、難解さ、そして恐ろしさが凝縮されたスリリングなレースだった。歴史の目撃者となったファンは、心震え、どこか満ち足りた気持ちだったのかもしれない。
クィーンスプマンテは母の父サクラユタカオーから鮮やかな栗毛とへこたれないスピードを、父ジャングルポケットから大舞台でも臆せぬ強心臓を授かっていた。
5勝全ては逃げて挙げたもの。数多の敗北の中で自信のスタイルを確立していた。2走前には洋芝のみなみ北海道ステークスで、格上挑戦ながら牡馬相手に勝利をあげていた。
可愛らしい顔つきに似合わず、豊富なスタミナと男馬にも怯まない根性の片鱗を示していた。
あの日のエリザベス女王杯をもし100回繰り返せば、99回まではクィーンスプマンテに勝利の女神は微笑まないかもしれない。
ブエナビスタは殆どの世界線でクィーンスプマンテに後れを取ることはなく、多くの場合は先頭でゴールを駆け抜けただろう。
けれど、現実に起きたのは、奇跡かもしれない1回だった。
それを手繰り寄せたのは、クィーンスプマンテと田中博康騎手の信念の走りにほかならない。
私はいまでも落ち込んだ時、何かを吹っ切りたくなったときに、ときどきVTRを見る。
そこには、自分の走りに徹し、諦めずにゴールへ向かう人馬の姿が大写しになっている。
その走りは、私の心の奥底に秘めた衝動を刺激し、特有のカタルシスに誘う。
そして私に勇気を与えてくれる。
自由に、自分を信じて、力強くあるべきだ、と。
勝負はそんな簡単に決まるわけじゃない、と
諦めないものに、女神は微笑むのだ、と。
写真:norauma