[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]ダミーフォール発症(シーズン1-63)

福ちゃんの弟か妹が生まれた4日後、慈さんから電話がかかってきました。明後日にはそちらに行くのに、と思いながら通話ボタンを押すと、「治郎丸さん、ダートムーアの25なんですが、今日の朝まで普通に元気にしていたのですが、お昼前に急に倒れて、暴れ回っているんです。その様子から、ダミーホールなんじゃないかと思って獣医師さんに来て診てもらいました。ダミーホールって分かりますか?」

急に質問が来たので、穴のようなものを想像しながら、「一度も聞いたことのない単語ですね」と正直に答えると、慈さんは僕がそう来ると知っていたかのように、「ですよね。ダミーホールって、生後直後に仔馬に起こる症状なのですが、お産中に何らかの形で脳に酸素が行き渡らず、低酸素状態で生まれてくることが原因と言われています。母馬のお乳が見つけられずに吸えなかったり、自分で立ち上がれなかったりするので、誕生後すぐに発覚することが多いです。まれに遅れて症状が出る馬もいるようですが、もうすでに4日経っていますし、(ダートムーアの25は)今の今まで普通にお乳を吸って、母馬と一緒に走り回っていましたからね…」

慈さんの話を聞きながら、ダートムーアの産道を通って生まれてくる際に圧迫されて、酸素が回らないことで脳が障害を受けてしまい、神経系が冒され不随意運動のように手肢をバタつかせて暴れ回り、誰も手のつけようがなくて困っている光景が浮かんできました。つい数日前に、五体満足で生まれてきて、ダートムーアの乳を美味しそうに吸っている姿を動画で見ただけに、あまりの豹変ぶりに呆然としてしまいました。

「獣医さんに診てもらったのですが、症状を見る限りダミーホールとはいえ、発症が4日後と遅かったこともあり、確定診断までには至っていません。今後の経過観察と血液検査を経て、どのように対処していくか考えますね。今はまだ起き上がれませんが、横になって落ち着いていますので、しばらく様子を見ます」

慈さんからの報告を受けながら、このまま立ち上がれず、不随意運動を繰り返すようであれば、どこかで決断をしなければならないのではと頭の片隅で考えていました。福ちゃんのときもそうでしたが、最終決定権はオーナーである僕にあります。ダートムーアの25が普通に生きていくことが難しかったり、もがき苦しみながら死んでいくのであれば、楽にしてあげることも必要かもしれません。片目が見えないけれど、身体は至って健康であった福ちゃんとの違いはそこです。

脳や神経系に障害を受けてしまった馬が、どのような馬生を歩むことになるのか想像すらつきません。競走馬としてはもちろん、(この時点では牡馬なのか牝馬なのか僕は知りませんが)繁殖としても扱いが難しいはずです。今回ばかりは、さすがの楽観的な僕でも光を見出すことができそうもありません。塞翁万事が馬とか、禍福は糾える縄の如しとか言っている場合ではなく、どこをどう考えてみても絶望的でしかない。僕は完全に穴に落ちてしまったのです。

「これから川崎競馬のパドック解説がありますので、終わったらまた連絡しますね。慈さんも辛いでしょうが、どんな様子か僕も確認したいので、動画を撮って送ってください」とだけ言って、僕は電話を切りました。

のちに送られてきた動画を見ると、1本目は小さな馬用の布団をかけてもらった小さな馬体が横たわっています。2本目の動画は、横を向いて寝ながら、手肢をバタつかせている仔馬を見かねて、(馬房のどこかに肢をぶつけて怪我をしないように)ミヅキさんが手肢を押さえてくれています。見るに堪えない光景でした。

この日は、全身が押しつぶされそうな暗澹たる気持ちで過ごしました。メインレース以外は良い線を行っている馬を推奨できた気はしますが、正直に言うと、それどころではありませんでした。ふと気を緩めると、ひっくり返って手肢をバタつかせているダートムーアの25の映像が脳裏に浮かんできます。

福ちゃんのときは、片目でも問題なく生きていけるという妙な自信がありましたが、今回の症状はダメかもしれないと僕は直感しました。慈さんは悲観的なことは決して言いませんでしたが、厳しいと感じていたはずです。それでも、あきらめてはいけないという想いも僕たちは失ってはいません。奇跡的に回復して、あのときはビックリしたよね、と笑い話になる日が来ると良いとも思いました。

パドック解説が終わり、競馬場を出てすぐに慈さんに電話をしました。慈さんも出産と種付けで最も忙しい時期でしょう。これで2年連続、ダートムーアの仔がご迷惑をかけていることになります。「だいぶ落ち着いてきていますが、まだずっと横になった状態です。良い兆候としては、たまに自力で立ち上がろうとしたり、目に力が宿ってくる瞬間が出てきたことでしょうか」と今の状況を端的に教えてくれます。

生きるという兆候が少しずつ見えてきているのは嬉しいことですが、生まれて4日後のとねっ子が寝たきりになっているのですから、依然として厳しい状態であることに違いはありません。

「しばらく様子見ですね。生命力を信じるしかありません」としか言えず、僕は電話を切りました。

すぐにでも飛んで行きたい気持ちを抑えながら、翌日も仕事をこなしました。シモジュウこと大狩部牧場の下村社長にもLINEを入れると、「ダミーフォールは、生後直後から24時間以内に発症することがほとんどなので、(4日後に発症するケースは)珍しいです。現場は大変かと思いますが、無理をせず、立ち上がることを助けてあげながら、乳を飲ませてあげることが第一ですね。様子を見ながらですね」と返ってきました。シモジュウは軽種馬協会や社台ファームの獣医師として、数々の修羅場をくぐりぬけ、臨床経験を積んできていますから、いつも的確な見解が返ってきます。

このLINEの文面を見て、僕は初めてダミーホールではなく、ダミーフォールであることに気づきました。改めてダミーフォールについて調べてみると、いくつかの解説が出てきます。

◆虚弱新生子馬NMSについて(馬の資料室)
https://blog.jra.jp/shiryoushitsu/2019/11/nms-63c6.html

◆新生子馬の疾病に関する講習会について(馬の資料室)
https://blog.jra.jp/shiryoushitsu/2021/01/post-bcf0.html

◆NMS治療の目標は自力起立でき親から飲乳できること(馬医者残日録)
https://blog.goo.ne.jp/equinedoc/e/f414db15b0dd6e37fb51e6bb5ded76a5?fm=entry_awc

◆「JRA育成牧場管理指針」
https://www.jra.go.jp/facilities/farm/training/research/pdf/research_seisan.pdf

ダミーフォールのダミー(Dummy)とは、日本語でも良く使われる本物ではない(偽物の)というダミー、そしてフォール(foal)は仔馬という意味です。獣医学的には新生子不適応症候群Neonatal Maladjustment Syndromeと呼ばれるそうです。分かりやすく説明すると、仔馬が母親の体内から外の世界へ出てきたにもかかわらず、なぜかスイッチがうまく切り替わらず、その環境の変化に適応することができない病気ということです。

症状としては、脳組織が障害されることによって無目的歩行、吸乳反射の消失、異常発声、嗜眠、といった異常行動を示すそうです。酸素欠乏だけではなくエネルギーの欠乏や血液の酸性化なども生じるため、脳だけではなく消化管や腎臓、肺といったあらゆる臓器が障害され、重症例では手厚い看病が必要となるとされています。読んでいるだけで恐ろしくなります。生まれた直後から異常を呈する場合と、時間が経ってから異常を呈する場合があるようです。後者であっても2日以内とされていますので、ダートムーアの25の4日後の発症はずいぶん遅いですね。

恐ろしいのは、発症が遅い方が予後も悪いと言われていること。産後直後に発症した方が軽症で済むのに対し、後から発症した場合は重症化しやすいそうです。4日後に発症したダートムーアの25は果たしてどうなるのでしょうか。

慈さんに電話をしてみると、「少しずつ改善は見られています。まだ母乳を飲まないので、輸液を点滴しながら水分と栄養分を補給していますが、何とか立ち上がりました。血液検査の結果も出て、不思議なことに、どの数値にも異常はありません。逆に原因が分からず、治療の施しようがないのですが、今のところダミーフォールとして獣医師さんも処置してくれています」と報告してくれました。

その晩、慈さんが送ってくれた動画を見て、僕は衝撃を受けました。たしかに自分の足で立ててはいましたが、まるで夢遊病者のように、生気がなく壁に向かって立ち尽くしているだけの姿は、まさにダミーフォールの症状だったからです。発症が4日後であっただけで、典型的な症状を呈している以上、ほぼダミーフォールで確定です。

ダミーフォールは新生子不適応症候群と呼ばれているように、単独の病名ではなく、そのような症状を示す病気の集合体ということです。まだ不明なあらゆる原因によって引き起こされた、いくつかの症状をまとめて、新生子不適応症候群(ダミーフォール)というに過ぎないのです。ダートムーアの25の場合は、低酸素状態で生まれたことではなく、他の何らかの原因によってダミーフォールを発症したのです。発症が遅い方が重症化しやすいのは、低酸素状態で生まれたダミーフォールよりも、その他の原因によるダミーフォールの方が症状は重く、治療が難しいからではないでしょうか。

翌朝、羽田空港まで向かいました。高速で事故渋滞が発生していたため、バスから電車に切り替えた関係で到着がギリギリになり、慌ててチェックインをしました。予約番号と確認番号を入力すると、僕の名前と年齢が出ます。ジロマルタカユキ50歳。こんなとき、ふと自分が50になったことを思い知らされます。そしておよそ1年前も、福ちゃんの小眼球症が分かって、暗鬱とした気分で北海道へ向かったなと思い出しつつ、少し割り切るような気持ちも出てきました。

これだけ僕の馬に不幸が続くのは、僕のこれまでの行いが悪かったからであり、その罪滅ぼしなのかもしれない。状況によっては処分しなければいけないかもしれないと冷静に考えつつ、矛盾するようですが、たとえ僕の命を差し出してでもダートムーアの25には生きてもらいたいとも思います。命を使い切ったつもりでまだ生きている僕と、これからの馬であるダートムーアの25では、未来の意味や価値が全く異なるのです。1年前と同じような、何とかして生かしてやりたいという気持ちがむくむくと湧いてきました。

搭乗直前、慈さんに1本連絡を入れました。すると慈さんが、「治郎丸さん、昨夜から今朝にかけて、劇的に良くなりました! 自分で立って、母馬から乳を飲めるようになりました」と教えてくれました。自力で起立でき、母親から飲乳できることが最初の一歩だと考えていたので、発症から3日目でスタートラインに立てたのです。嬉しい知らせでした。僕の気持ちがダートムーアの25にも伝わったのでしょうか。生きようという意志が形となって現れ、希望の光が見えました。

牧場にとっても忙しい時期であり、しかもダートムーアの25の看病も加わって、今回はさすがに新千歳空港まで迎えに来てもらうわけにはいかず、空港から牧場の近くの鵡川駅まで電車を乗り継いで行きました。慈さんのお母様が鵡川駅に車で迎えに来てくれました。車内では当然ダートムーアの25の話になり、慈さんや理恵さん、ミヅキさんが中心となって、泊まり込みで看病してくれたとのこと。手肢をバタつかせて暴れてしまうと、身体をどこかにぶつけて怪我をしたりする二次災害が広がるため、手肢を掴んで抑え込まなければいけません。生まれたばかりとはいえ、60kgもある動物が無我夢中で暴れるのですから、抑えようとする人間側も筋肉がパンパンになり、肢が当たって打撲など、満身創痍になったそうです。

しかもいつ暴れ出すか分からないため、ダートムーアとダートムーアの25の馬房の中で昼夜見守るのです。この状態があとどれぐらい続くのだろうと思うと、さすがの明るい碧雲牧場の食卓も昨日はどんよりと重暗くなっていたそうです。それが一夜明け、自分の足で立ってお乳を飲んだのですから、誰よりも碧雲牧場の皆さまが喜んだのではないでしょうか。

「ダートムーアも偉いですよ。子どもは元気がなくなり心配なだけではなく、獣医師さんや私たち人間がひっきりなしに親子の馬房に入ってきたり、外にも出してもらえないにもかかわらず、とにかく協力的で我慢してくれていました。他の繁殖牝馬だったら、イライラして人間に対して攻撃的になったり、馬房を歩き回ったり尻っぱねをしたり、仔馬に怒りをぶけたりして大変なことになっていたと思います。お乳を飲まないので、乳が上がってきたり(出にくくなる)は少しありましたが、それでも母親としての役割を放棄することはありませんでした。偉いお母さんです」と言ってくれました。僕は自分が褒められたような気がしました。

碧雲牧場に到着し、福ちゃんの元ではなく、真っ先にダートムーアとダートムーアの25の馬房に向かいました。さすがに心配だからです。馬房の扉を開けてもらうと、中には2頭が静かにいます。ダートムーアの25は頭をやや左に傾け、力なく垂らしたまま。自我というものが感じさせず、何をするでもなく、魂が抜けたように立ち尽くしています。3日前まで跳ね回っていた仔馬の変わり果てた姿に呆然としているのか、ダートムーアもボーっとしたまま。劇的に良くなったと聞いていましたが、僕の正直な感想としては、痩せこけた仔馬がまるでゾンビのようにそこに立っているようにしか映りませんでした。

急に倒れて、大暴れしたドン底を知っているからこそ、劇的に良くなったと慈さんたちは感じているのでしょう。実際そのとおりなのですが、突然現れて目の前の現実だけを見た僕には、楽観的になる材料はとても見つけられませんでした。壁一面に血が付いているのは、横になって暴れたとき、下になっている目が擦れて出血したものです。そのまま壁を舐めるように動くので、血があらゆるところに付いています。良く見ると、右目がお岩さんのように腫れています。皮膚が剥がれて、赤い部分が見えて痛々しい。理恵さんが犬猫用の良質な軟膏を塗ってくれたりして、外傷は少しずつ良くなっているそうですが、角膜が傷ついたのか、眼球が白濁しています。

その後、シモジュウも碧雲牧場に来て、ダートムーアの25を見てくれました。実際に見てもらうと安心します。母乳を自力で飲めるところまで来たのは碧雲牧場の献身的な看護のおかげであり、ここから少しずつ時間をかけて良くなっていくはず。ただ予断を許さない状況、つまり良い方向にも悪い方向にも転じ得るという認識をシモジュウも抱いたようです。

シモジュウの大学の1つ下の後輩にあたる揖斐獣医師もちょうど来ていました。今回ダートムーアの25の急変の際に駆けつけてくださいました。フットワークが軽く、気軽に相談しやすい先生だそうです。「ありがとうございます」と僕は頭を下げました。子どもが病気になると、親が頭を下げなければならない回数が増えるのです。

「そういえば、オスかメスか分かった?」と理恵さんが聞いてきました。性別は実際に会うまでのお楽しみということにしていました。個人的にはそろそろオスかなと思っていますが、送られてきた動画に映る顔を見るとシュッとしてメスっぽいかなと感じていました。ただそれどこではなかったという現実もあります。健康になって生きてくれたら性別なんてどちらでも良い、そんな状況でした。

「まだ見てないです」と僕が言うと、理恵さんは仔馬の尻尾を上げ、後ろから見せてくれました。「分かった?」と聞かれたのですが、馬の陰部をまじまじと見たことがなかったので、はっきりどちらか判別できません。おちんちんが付いていない気もします。「女の子かな」と自信なさげに言うと、「そうです! ムー子です」と返ってきました。

なんと今年も女の子。あとから聞くと、「牝馬ばかり産むメスっ腹と呼ばれる繁殖牝馬もいるんですよ」と慈さんは言っていました。これで僕の元に来てから3年連続で牝馬。たしかにダートムーアはメスっ腹っぽくて、ダートムーアの25を含め、これまで産んだ9頭の産駒中7頭が牝馬です。血を残すという意味においては、牝馬を多く産むことには価値があります。名牝系というのは牝系の血を多く残した馬たちでもあり、また血を残した牝馬が多いから名牝系とも言われるのです。とはいえ、生産者にとっては牡馬が生まれるか、牝馬が生まれるかは死活問題であり、9頭取り上げて2頭しか牡馬が生まれない繁殖牝馬は、牧場にとっては頭を抱える存在になりかねません。生産者ではない僕でも、苦笑いするしかないメスっ腹であり、名牝系です。

その日の夜はしゃぶしゃぶでした。本来はダートムーアの安産と理恵さんの誕生日祝いをささやかに行いたかったのですが、ダートムーアの25がこのような状態では、誰もが心の底から喜べません。それでも皆で鍋をつつきながらの、碧雲牧場の食卓の明るさには救われました。理恵さんが、「あの子は私と同じ誕生日に生まれたのだから大丈夫。私も未熟児で生まれて、今はこんなに立派に育ったんだから」と笑っていいのか悪いのか分からないジョークを飛ばしてなぐさめてくれました。

その話を(同じ誕生日の)福ちゃんの声の人にしたところ、「同じ誕生日だから言わせてもらうと、なんだかんだ運が良いよ。もうダメだっていうピンチほどかいくぐれる」と返ってきました。もしかすると4月4日生まれの女性はピンチに強いのかもしれません。

「ムー子が女の子だったから、ここまで早く回復できたのかもしれないよ。牝馬は病気や痛みに強いし、ムー子は生まれたときからやんちゃで、馬房の中でもお母さんの周りを所せましと駆け回っていたからね」

元気な女の子だったから、ダミーフォール発症後、わずか2日で立ち上がり、自力で母乳を飲めるところまでに回復したと考えることもできます。また牝馬が生まれ、しかもダミーフォールになったことは、不幸が重なったようにしか僕には思えませんが、不幸中の幸いということにしておきましょう。

(次回へ続く→)

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