![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]ソッパ(シーズン1-78)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/12/2025123001.jpg)
碧雲牧場の最後の1日、いつもより精力的にカメラを回しました。もうこれでしばらくは福ちゃんの動画を撮れないのだと思うと、焦りが湧いてきます。これまで1日も休むことなく、YouTubeチャンネルは毎日更新を続けてきたのですが、さすがに育成牧場に渡り、僕たちの手を離れてしまうとそのような訳にはいかなくなります。今のうちに福ちゃんの動画を撮りためておき、できる限り不定期更新になるまでの期間を先延ばしたいものです。
13時に碧雲牧場を出発し、13時半から14時の間にはエクワインレーシングに到着する予定です。その前に、福ちゃんの写真を撮ってくれているパートの青木さんやスタッフのミズキさんのご家族が来てくれて、一緒にランチをした後、見送りに加わってくれることになっています。福ちゃんとの別れを総出で惜しんでくれるのはありがたく、嬉しい限りです。10時ごろには青木さん、11時ごろにはミズキさんのご家族が続々と到着しました。
理恵さんたちが買ってきてくれた唐揚げや定食弁当を食べながら、僕たちは福ちゃんの門出を祝います。誰もが「福ちゃんがいなくなると寂しくなるねえ」と言ってくれます。福ちゃんは碧雲牧場の自己所有馬ではないにもかかわらず、小眼球症を抱えて生まれてきてYouTubeチャンネルの配信を始めたこともあって、まるで家族のように目をかけて育ててくれたのです。ただこの寂しいという思いを打ち消してしまうほどの衝撃的な出来事がこのあと起こるとは、この時点では誰も想像していませんでした。
時計の針が13時を回り、「そろそろ行きましょうか」と慈さんがひと声かけました。外を見ると、いつでもどうぞとばかりに馬運車が準備されています。話し合いの末、僕と理恵さんとミヅキさんの3人が馬運車の中に乗り込み、慈さんが運転をすることになりました。ミヅキさんが福ちゃんを手綱で押さえ、理恵さんと僕がカメラを回す役割です。前日の馬運車に乗り込むスムーズさを見ると、今日もあっさりと乗り込んで、あっという間にエクワインレーシングに到着し、名残惜しさを感じる前にお別れすることになるかもしれないと考えていました。育成牧場に入ったとしても、これまでと同じ頻度とは言えないまでも、碧雲牧場から30分の距離ですから、会いたいときは会いに来られる、寂しくなんかないのだと自分に言い聞かせて臨みました。
僕の予想どおり、馬房から連れられてきた福ちゃんは、一歩目を渋っただけで、昨日のリプレイのようにスムーズに乗り込み、馬運車内に張られた綱に手綱がつながれます。理恵さんとミヅキさんが先に馬運車に入り、僕も続いて乗り込みます。馬運車の中は、福ちゃんと向き合う形で左から理恵さん、真ん中がミズキさん、右が僕という立ち位置です。僕の方からは福ちゃんの小さな瞳がよく見えます。旅立ちの準備は万端です。
後ろの扉が閉められ、車内が暗くなり、慈さんの「行くよ~」という発車の合図と共に馬運車が少し動き始めたとき、福ちゃんの態度が一瞬変わった気がしました。軽い鎮静を入れているので、それまではボーっとしていたのですが、異変を感じて正気が戻ってきた感じです。うつらうつらとして、気づいたらエクワインレーシングに着いていたというイメージだったので、このとき微かに嫌な予感がしました。
馬運車が走り出すと、馬は倒れまいとして、四肢を踏ん張ってバランスを取ろうとします。ほとんどの馬は、どれだけ馬運車に乗るのを嫌がったとしても、いざ走り出してしまうと立っていることに必死になり、集中します。うるさい馬などは、逆にスピードを上げて走った方が馬運車は大きく揺れて、大人しくなるという人もいます。飛行機は飛んでいるときの方が安全で、離陸と着陸のタイミングが危ないことと似ていますね。意外にも、馬運車も動き出してしまった方が安全なのです。
ところが、福ちゃんにそのような常識は通用しませんでした。碧雲牧場の敷地内の砂利道を通り、公道に出ようとしたあたりからすでに、いつもの福ちゃんと違います。人間を見れば近づいてきて、どこを撫でても嬉しそうに目を細め、お返しに服をカミカミしてくれる福ちゃんはそこにはいません。危険を察したのか、恐怖に駆られたのか、僕はこれまで人間のそうした表情を見たことがないのではっきりとは言い切れませんが、死の恐怖から何としてでも逃れることだけに集中し、瞳孔が見開かれている、まさに死に直面した生き物が見せるような真剣な表情を見せていたのです。スイッチが入ったのです。
母ダートムーアも普段は大人しいのですが、一度スイッチが入ると人間の言うことが耳に入らなくなると聞いていました。姉のルリモハリモにもそうした面はあったようです。話には聞いていても、実際にスイッチが入った場面を見たことがないので、ふーんと聞き流していました。福ちゃんにおいては、毎日の動画でもそうした面は(あえて碧雲牧場は送らなかったのかもしれませんが)見たことはなく、もちろん随所に煩くなることもあったとは思いますが、母や姉よりも大人しいという認識でした。まさか福ちゃんのスイッチが最後の最後に、馬運車の中で入ってしまうとは。
僕の嫌な予感もスイッチが入ったという感触も的中しました。ミヅキさんが持っていた手綱を一気に持っていく形で、いきなり後ろに飛んだのです。こうして暴れて後ろに飛び出していくことを「ソッパ」と言うらしいのですが、漫画「アラレちゃん」のスッパマンみたいなクスっと笑ってしまう響きとは裏腹に、福ちゃんのソッパは衝撃的でした。ガーン!という大きな音が馬運車内に響き渡るほど、馬運車の後ろにある扉に向かって全力でぶつかったのです。見境がないというか、ぶつかって自分のお尻が痛いとかそんなことお構いなしに、命懸けで逃げようとしています。「馬運車の後ろから入ってきたから、そっちから出られると思って後ろに逃げるんだよ」と理恵さんがあとから言っていました。
馬運車は動いているので、足元はおぼつかず、後ろのドアにぶつかったあと尻もちをつく形になり、そこから足をバタつかせて起き上がり、今度は前肢を上げて立ち上がろうとします。馬運車は天井が低いため、それほど高くは立ち上がることができず、頭をぶつけて戻ってきます。隣のミヅキさんも手綱を持って行かれてしまい、後ろに下がろうとする福ちゃんを引き戻そうとしますが、手綱を離さないだけで精一杯。500kg近い筋肉の塊のような動物が死に物狂いで暴れ出すと、人間には到底コントロールすることができません。しかも馬運車は揺れ続けており、僕たちの足元もおぼつかず、狂乱する馬と慌てふためく人間が密室に閉じ込められて、阿鼻叫喚の世界。
左側にいた理恵さんもさすがにまずいと思い、撮影を止めて、「福! 福ちゃん大丈夫だよ!」と声をかけながら、引っ張りまわされるミヅキさんに加勢しようとします。僕は何をすることもできず、カメラを止めるな! という一心で回し続けました。もしかすると僕がカメラを構えていることが怖いのかと思い、カメラを低い位置に下げてみたりしても、福ちゃんの様子は変わりません。福ちゃんは一向に落ち着くことなく、軽い鎮静を入れたことがウソのように、むしろその暴れっぷりは勢いを増してきます。
碧雲牧場を出発してわずか5分ほどでしたが、僕たちには長い長い時間に感じられました。理恵さんが運転している慈さんに電話をかけました。「やばい。このまま行くのは難しいと思う。鎮静をがっつり入れないと危ない」と伝え、一旦、牧場に戻ることにしました。5分ほど走ったということは、戻るにしても5分かかります。果たしてこの狂乱状態をあと5分耐えられるのか? 僕たち人間の危険ももちろんそうですし、福ちゃんが怪我をしたりしては元も子もありません。両者が無事に戻ることができるのか、この時点では僕は自信がありませんでした。人間が大けがを負ったり、打ちどころが悪ければ命を落とすことも考えられましたし、福ちゃんの肢や腰の骨が折れて予後不良になってしまう未来も十分にあり得ました。それでもこのままエクワインレーシングまで残りあと25分間突き進むよりも、牧場に5分で戻る方がリスクは少ないはずです。
(次回へ続く→)
![[発売中]午年を彩り、引退馬支援にも繋がる「2026年ハピクリカレンダー」](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/12/img_5683-300x300.jpg)