[追悼エッセイ]ある少年一家とダンス一族のお話〜ダンスインザムードの訃報によせて〜

私の一家はダンシングキイの子供たちに、ちょっとした縁がある。

一族最初のG1ホースとなった3番仔のダンスパートナーが勝ったオークスで4着に入線したのは、私の祖父が社台レースホースで出資していたオトメノイノリだった。

その後、父と祖父が放牧中のオトメノイノリに会いに行った時、一緒にダンスパートナーも見せてもらったという。父はのちに、同世代の頂点に立った彼女の様子を「オトメを見に行ったのに、ダンスに見惚れてしまった。他の馬とは全然違う『私は女王様よ』とでも言いたげなオーラを出していた」と語ってくれた。

そして彼女の弟であるダンスインザダークは社台レースホースで一口の募集がかけられたが、祖父は「今度こそダンシングキイの仔に勝ちたい」と、彼の出資ページには見向きもしなかったという。結果的に他の馬への出資は見送ることとなったため、祖父の出資馬がダンスインザダークのライバルとしてと戦うことはなかったが、やはり、ダンシングキイの仔は祖父たちにとって意識せずにいられない特別な存在だったのだろう。

そこから時は10年ほど流れ、ダンシングキイの仔がみたび社台レースホースの募集にかけられる。だがこの時、祖父はサンデーレーシングの会員に移っており、出資を検討する機会はなかった。

だが、祖父と父がダンシングキイの仔に抱く特別な想いなどをよそに、当時まだ幼少期の私が惚れ込んだのがその9番仔──ダンスインザムードであった。

■速く、美しきG1初制覇

2004年の4月、3戦3勝という無敗の戦績を引っ提げて、ダンスインザムードは桜花賞に出走してきた。私はまだ小学校に入学したかどうかという年齢だ。無論、この頃に遊んだ事柄や経験したものに対する記憶はほとんどない。

だがしかし、不思議と競馬の映像だけは見入った記憶がある。当時から日曜の15時台となれば父と共にテレビの前に張り付いて、数々の名馬の誕生を見届けてきた。ビリーヴの高松宮記念やデュランダルのスプリンターズステークス、アドマイヤドンとフリートストリートダンサーのジャパンカップダートに、ディープインパクトの牡馬三冠などをまだ小さかったのに覚えているのは、とにかく幼少期の私は強い馬が好きだったからだろう。それもただ強いのではなく、速く駆け抜ける姿を見せる馬や、熾烈な叩き合いを繰り広げる馬。

まだ生まれて間もないころからこんな体たらくなのだから、成長した今、競馬に心血を注ぐほどハマっているのはある意味必然ともいうべき流れではある。そしてこの日もまた、私は家族と共に小さなブラウン管の前へ、強い馬を見るために陣取っていた。

そんな少年の意図などいざ知らず、ダンスインザムードは2.9倍の1番人気に推されていた。前走のフラワーカップではノーステッキのまま先頭へ並びかけ、追い出されてから瞬時に後ろを突き放して圧勝。そのスピードを考えれば妥当とも言える評価だろう。血統的にも2頭のG1馬を上に持ち、鞍上には天才・武豊騎手。桜花賞では何度も芸術的な騎乗を繰り返し、この時点で既に4勝を挙げている名手の手綱なら、もう怖いものはないようにも見えた。

とはいえ、美浦所属の彼女にとってはキャリア初となる関西遠征に加え、デビューしてからまだわずか4か月という不安要素も抱えていたことから、ここまでの勝ち方を加味しても断然の人気とは言えない支持。2番人気のスイープトウショウはキャリア5戦すべてで出遅れているという悪癖を抱えながらダンスインザムードと差のない3.8倍のオッズだったことからも、展開ひとつでは逆転もあり得るのでは…というのが当時のファンの見方だった。

しかし、いざレースが始まってしまえば、それは杞憂に終わることとなる。800m通過の時計は46秒8で、ラップタイムは全く緩みのない12秒4-10秒9-11秒4-12秒1。このペースを作ったムーヴオブサンデーをダンスインザムードは好位6番手から追走したが、4コーナーを前にして早くも先頭に並びかけていった。

改修前の仁川の直線は短い。早め抜け出しが必勝パターンといえど、並の馬なら確実に最後は脚が上がる展開なうえ、一閃の切れ味を持つスイープトウショウも後方で脚を溜めている。さすがに早仕掛け、万事休すと思われたのも束の間、ダンスインザムードはここからさらにギアを上げた。フラワーカップと同様に馬なりで抜け出しを図り、坂下で鞍上から合図を出されると瞬く間に加速。

2着のアズマサンダースを2馬身、3着のヤマニンシュクルはそこからさらに2馬身半突き放す快勝劇で、桜の花道を穢れなきまま先頭で駆け抜けた。

彼女が記録した上り3ハロン34秒2の末脚はメンバー中最速。先行勢には厳しい流れかつ、早め進出ながらこの勝ち方なうえ、ラストで刻んだラップタイムは11秒8-11秒1-11秒7という、レース史上初となる11秒台のみのフィニッシュラップだった。

しかも勝ち時計1分33秒6は桜花賞レコードのおまけつきで、前年に牝馬三冠馬となったスティルインラブより0秒3も速いタイム。レース後は管理する藤沢和雄師が開業17年目にしてクラシック初制覇を挙げた偉業や、姉のダンスパートナーが桜花賞を勝てなかった無念を晴らしたということよりも、今年も牝馬三冠を狙えるポテンシャルの馬が現れた、ということにフォーカスが集まっていたという。

そんな走りをブラウン管の映像越しに見せつけられた私は、レースが終わって馬談義に花を咲かす父と祖父を尻目に、カメラが追いかけるダンスインザムードと武豊騎手に惹きつけられていた。その姿はただひたすらにカッコいいと感じたのを、よく覚えている。

■それからのダンスインザムードと、これからのダンス一族

その日から私は、父が印刷するオリジナルの出馬表にダンスインザムードの名を見かけるたび、彼女の馬番に丸をつけていたような気がする。オークスでの初の敗戦、秋華賞では4着、中1週の天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップでの2着。全てチェックして、勝ち切れなくて悔しい思いを抱いた。年末の香港カップは、当時中継していたグリーンチャンネルで父と一緒にリアルタイムで応援し、ブービーの13着という結末を見てともに落胆した記憶がある。あまり馬に感情移入しない父がここまでの応援をしたのだから、やはりダンシングキイの仔は少し特別な存在なのだろう(最も、恐らく父はそんなことを覚えていないと思うが)。

しかしダンスインザムードの競走生活では晩年である2006年、彼女がヴィクトリアマイルを勝って復活の凱歌をあげた時、私は他の馬に浮気していた。1つ下の後輩であるラインクラフトである。直線、中団から伸びあぐねるラインクラフトを尻目に、内から桜花賞の時のような走りで抜け出したダンスインザムード。古馬となって再度、強い姿を見せた彼女に嬉しくなると同時に、信じきれずに心底申し訳なくなった感情を、子供ながらに私は抱いていた。

ダンスインザムードはこの年いっぱいでターフに別れを告げ、繁殖入り。そして平成から令和になっても、ダンシングキイの牝系は繋がる。2025年にはオークスをカムニャックが勝った。彼女の曾祖母は、あのダンスパートナーだ。

だが、ダンスインザムードだって姉に負けてはいない。娘のカイザーバルや孫のヒップホップソウルが重賞で活躍し、繁殖入り。その血をたしかに次代へ繋げている。これから先も、ダンス一族の繫栄はしばらく続くだろう。

ダンスインザムードの引退から少し経って、私は彼女が自分の父や祖父の出資馬にとってライバルであった馬の妹ということに触れた。現役時代はその関係性を全く知らなかった。それなのに好きになったのは、やはりどこかで不思議な縁があったのだろうかと考えずにはいられない。

そして姉、兄に勝るとも劣らない可憐な牝馬は2026年1月19日、その馬生に幕を閉じた。25歳という年齢は、私とほぼ変わらない。どこか寂しくなった。

そんな彼女に魅せられた少年は、成長してからも競馬の世界にどっぷり浸かり、ついにはその道に飛び込むという決意を抱かせた。だからこそ、一生を駆け抜けた彼女の蹄跡、そしてこれからも続くであろう牝系の行く末を後世に文章で伝えるのは、同世代といっていい自分の役割なのかもしれない。ダンスインザムードからバトンを託されたと、勝手に思い込んでみる。

彼女に思慕を寄せ、この文の結びに変えたい。
ありがとう、どうか安らかに。

写真:かず、Horse Memorys、s1nihs、突撃砲、しんや、koh

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