
その馬の周りにはいつも、陽だまりができたような明るさがあった。
金色のたてがみに、混じりけのない栗毛。
パドックを一巡する姿に、自然と視線が吸い寄せられる。彼が本馬場に駆け出すと空気が少し温まる。首にぐっと力をこめるその仕草には、気の強さと闘志が滲む。
バビット。それは尾花栗毛の人気者。
俺はここにいると全身で表現し続けた、快活なヒーロー。

バビットは、行くと決めたらとことん行く馬だった。
ためらわずに大地を蹴り上げるその潔い逃げ脚に、私は何度も胸の奥を奮い立たせられた。
――よし、いけ。頑張れ。
言葉よりも先に拳に力が入る。それは彼自身が選んだ「生き方」への共感だったのかもしれない。
3歳の春、福島で勝ち上がり、新潟で連勝を飾った。
余勢を駆って迎えた真夏のハンデ重賞、ラジオNIKKEI賞。予定していた団野大成騎手が当日の負傷で乗り替わり、急遽手綱を託されたのは大ベテランの内田博幸騎手だった。
8番人気の低評価。彼がどれだけの力を持っているのか、多くの人はまだ半信半疑だった。
けれどバビットの走りに迷いはなかった。
先手を取り、勝負どころでさらに速度を上げ、後続をただ突き放す。自身の情動に突き動かされるように駆けて、5馬身差の圧勝。のちに世界を驚かせるパンサラッサの機先を制し、影さえ踏ませなかった。
力強く駆ける金色の姿に、胸の底で「ひょっとして」という予感が走った。
セントライト記念でサトノフラッグを振り切ったとき、その予感は「本物かもしれない」という確信に変わった。春の実績馬たちを蹴散らしたその気迫に、ステイゴールドから受け継がれた血の熱を感じた。

菊花賞。大本命は無敗の三冠を目指すコントレイル。裏街道から飛び出した彼にとって、あまりにも高く大きな壁。
「ステイの血なら、何かを起こすかもしれない」
分が悪いと承知の上で、それでも信じてみたくなった。コロナ禍の歓声も疎らな競馬場、テレビの向こうで揺れるたてがみだけが眩しかった。
道中は2番手追走。二週目の坂の下りで進出し、淀の西日を背中に浴びて4角先頭で回るその姿は、紛れもなく「強い馬の競馬」そのものだった。
最後は脚が止まり、三冠馬の軍門に降った。けれど、自分のスタイルを最後まで貫き通したまっすぐな走りだった。
それからの日々は、決して平坦ではなかった。
屈腱炎による1年半の空白。復帰後のオールカマーこそ執念で4着に入ったが、それ以降は掲示板さえ遠のく日々が続いた。かつては簡単に奪えた先手も取れなくなった。煌びやかな栗毛が光の当たらぬところで泥にまみれる姿に、胸が詰まった。
それでも、彼は戦場を降りなかった。傷ついた脚をケアし、忍び寄る衰えをねじ伏せ、季節が幾度もめぐる中で9歳まで走り続けた。それは生半可な気持ちではできない、勇敢な時間の積み重ねに思えた。

いろいろな条件に挑んだ中で、京都記念の舞台は不思議と彼にフィットした。
冬枯れの荒れた芝。非根幹の2200m。スマートさより泥にまみれた力強さがものを言うタフな舞台で、7歳で3着、8歳で4着。人気を覆し、あわやの場面を二度もつくった。
そして――ラストランに選ばれたのは9歳で迎える京都記念。
気づけば同期の三冠馬は種牡馬として産駒を送り出している。対して、バビットはまだ走っている。その事実に、ただただ感謝がこみ上げる。
ゲートが開く。バビットはいつものように、迷いなくその身を前へ前へと押し出す。 背には高杉吏麒騎手。バビットがデビューした頃、彼はまだこの世界にさえいなかった若武者。歴戦の古馬が、未来を担う若手を先導するように駆ける。時代が重なり合う不思議な光景に、少し頬が緩む。
ジューンテイクがプレッシャーをかけ続ける。それでもバビットは譲らない。あくまでも強気に、懸命に、自身のスタイルを貫く。
勝負どころの坂の下りでバビットは更に踏み込む。もう一歩前へ、少しでも長く先頭を、と歯を食いしばる。その姿に「がんばれ。もう少し!」と思わず声が漏れる。
直線入り口。バビットは飲み込まれる。まだまだ若さ溢れるライバルが、金色の影を次々と追い抜いていく。それでもバビットは諦めず一つでも上の着順を目指して踏ん張って踏ん張って、さらに踏ん張る。
そして――勝ち馬から2秒ほど遅れて、バビットは一番最後にゴール板を駆け抜けた。
ドラマのような奇跡は起きなかった。けれど、そこに残るのは誇らしさと安堵だった。
同期たちが次々と去っていく中で、彼は最後まで懸命に脚を伸ばした。金色のたてがみを揺らし、4角まで先頭を守った。最後まで「俺を見ろ」と誇らしく笑っているかのように。
振り返れば、セールでの落札価格はわずか540万円。決して評判を集めていたわけではない彼は、多くのファンから愛され、いつしか1億5千万円を稼ぎ出すまでに成長していた。
浦河の大北牧場が送り出した、奇跡のような存在。その負けん気の強さには、父ナカヤマフェスタ、祖父ステイゴールドから受け継がれた反骨の血が、確かに脈打っていた。
バビットは、この先、札幌競馬場で誘導馬への道を目指すという。
きっと、新しい空気の中でも、きっとまっすぐ前を向き、金色の毛並みを柔らかく光らせ、自信満々に歩いていくはずだ。
尾花栗毛をなびかせ、魂を燃やしたあの走りを、私は忘れない。
長い長い時間、ターフを明るい光で照らしてくれて、ありがとう。
バビット。どうか、この先もずっと元気で。

写真:@pfmpspsm、横山チリ子、mosan
