2018年12月28日。
例年以上の厳しい寒さを迎える中、私は中山競馬場にいた。その目的は競馬ファンなら言わずと知れたものだ。
2017年から2歳G1となった、ホープフルステークスである。
この時、単勝オッズで1.8倍という断トツ人気に推されたサートゥルナーリアが、4枠5番にゲートインを迎えようとしていた。
父は2013年度代表馬ロードカナロア。
母はアメリカンオークスを圧勝したシーザリオ。
そして、母と同じ勝負服での出走。母が成し得なかった2歳G1への栄光を掴むべくゲートが開いた。
シーザリオは2002年、ノーザンファーム早来に生まれた。
父はダービー馬、スペシャルウィーク。
母はサドラーズウェルズの血を持つキロフプリミエール。父スペシャルウィークの二年目産駒として期待されたシーザリオのデビューはクリスマスイブの日と遅く、生まれながら体質もあまり良くなかったと言われていた。そのため、能力はあるにもかかわらずデビュー戦はフサイチフォルツァに1番人気を譲る事になる。
しかし、ゲートが開いてからは横綱競馬の完勝劇を演じる。
早め先頭で押し切りを計ったダンツクインビーを捉えると、一緒に追い込んだアラタマサモンズの追撃も振り切り上がり最速でのデビュー勝ちだった。
新馬戦の快勝を受けて、シーザリオ陣営が次に選んだのは牡牝混合の寒竹賞。のちに日経新春杯などを制するアドマイヤフジや、スプリングS勝ち馬となるダンスインザモアなど、素質ある牡馬たちを相手に、人気では負ける格好で4番人気となる。
ゲートが開くと、行き脚がついたシーザリオは好位4番手の位置で競馬を進める。ペースはかなりのスローペースで折り合いに苦労する馬が続出していた。痺れを切らしてエイシンサリヴァンが3コーナー手前からまくるように仕掛けていた程である。
しかし、ここでシーザリオの良さが出た。
このスローペースの時間を楽しむかのように道中を進めていたのだ。勿論、これは主戦であった福永騎手の手綱捌きによるものでもある。
「牝馬の福永」とも言われた人馬一体を象徴するその姿は、とても折り合っていた。そして仕掛けどころに差し掛かっても、その落ち着きは変わらなかった。
最後の直線、シーザリオは早くも先頭に立つ。
大外からアドマイヤフジが勢いよく追い込んでくるが、時既に遅し。
シーザリオは並居る牡馬相手に、しっかり押し切るレースを演じたのだ。
無敗で迎えた初の重賞競走、フラワーカップ。
寒竹賞のレース振りが高く評価され、断然の1番人気に支持される。
レースでは同じ勝負服のスルーレートがハナを切り、シーザリオはその後ろでピッタリとマークする展開に。
途中外からタマヒカルやラドランファーマの突き合いもありながらも、終始得意のスローペースで脚をためたシーザリオが最後の急坂手前でスルーレートをアッサリ捉える。
上がり最速で2馬身半の差をつけ、重賞初制覇。
満を持して、仁川の舞台に立つ事になった。
しかし、ここで大きな問題が起きたのである。
当時、若手ながら牝馬への当たりの柔らかさに定評があった福永騎手は、シーザリオ以外にもう一頭同世代のライバルの主戦も務めていたのである。
その馬の名は、ラインクラフト。
福永騎手は先約のために、桜花賞はラインクラフトに騎乗する事が決まっていた。
ラインクラフトは桜花賞後にはNHKマイルCを制し、その後翌年、最期のレースとなるヴィクトリアマイルまで大崩れすることなく活躍を続けた快速馬だった。
ヴィクトリアマイル後に迎えた夏、現役ながら急性心不全で亡くなるという、非常に悔やまれた名牝でもあった。
そんな事情もあり、シーザリオの鞍上は乗り替わりとなったが、ここで陣営は大抜擢を行う。
代役として任されたのは、当時公営名古屋競馬所属の吉田稔騎手だった。この当時はまだ、外国人騎手でJRA短期免許を取得し来日する人数も少なかった時代であった。
同時に、コスモバルクやアジュディミツオーなどの活躍もあり地方競馬ブームも再燃していて、地方馬のJRA挑戦が当たり前となっていたのだ。
その中でも吉田稔騎手は、名古屋競馬所属ながら多くの競馬場にて勝ち星を重ねていて、中央競馬に対しても積極的に騎乗を重ねていた騎手だった。
その吉田騎手にとって、この桜花賞は一世一代のビッグチャンスだった事だろう。
さらにこのレースには、後にシーザリオのライバルと呼ばれるエアメサイアが参戦していた。
エアメサイアはその後秋華賞を制することになる素質馬で、フィリースレビューで負けた相手であるラインクラフトへのリベンジに燃えていた。
世間では三強ムードの中、一番人気に支持されたのはシーザリオ。G1の舞台で本命馬に乗る機会もそうそう無いため、吉田稔騎手にかかったその重圧は計り知れない。
レースではテイエムチュラサンがハナを切り、モンローブロンドがマークする展開に。
ラインクラフトは好位の外目を追走。
シーザリオとエアメサイアは内外離れた中団で競馬を進めていた。
ややハイペースでレースは進み、最後の直線へ。
シーザリオは内で馬群の中、中々抜け出せない。その時、前にいたラインクラフトが動いた。兼ねてからマークしていた馬が一気に先頭へ立とうと躍り出る。それにシーザリオが食らいつかんとばかりに追う。吉田騎手も懸命に手綱をしごいた。その外からは、粘るデアリングハートを捉えようとエアメサイアが追い込んでくる。あっという間に射程圏内へ捉えようとしたところが、ゴールだった。
最後は福永騎手鞍上のラインクラフトがクラシック一戦目を掴み取っていた。
シーザリオは初めての黒星を喫するが、メンバー中上がり最速と、負けて強しの内容だった。
馬群を突き抜けながらラインクラフトを追い詰めたその豪脚が、後に大きな伝説のレースを生む事になるとは、当時誰が想像していたのだろうか?
そしてそのままラインクラフトはNHKマイルに参戦し、牡馬を相手に見事勝利を収めた。同世代牝馬の快挙に興奮冷めやらぬ中、迎えたオークス。
桜花賞でのレース内容に、ファンはシーザリオを断然の1番人気に支持したのだ。
シーザリオと同じくオークスの距離で真価を発揮すると見込まれたエアメサイアとディアデラノビアが2、3番人気。
特にディアデラノビアはフローラステークスをただ一頭上がり3ハロン33秒台を叩き出した鬼脚の持ち主。その脚はシーザリオにも肉薄する程ではないかと考えるファンも少なくなかった。
ゲートが開いた後、シーザリオはなんと出負けしてしまい、後方から4頭目の位置に。
エイシンテンダーがハナを切り、ジェダイトがマークをする展開となった。中団の前にはエアメサイア、馬群の中にディアデラノビア、そして後方にシーザリオというポジションにそれぞれが収まる。
しかしレースの流れは、完全にシーザリオに傾いていた。先にも述べたように、シーザリオの良さはスローペースを楽しむかのように走る事。途中行きたがる素振りを見せるが、そこは再びコンビを組んだ福永騎手がなだめる。
ゆったりとした、シーザリオの流れの中で迎えた最後の直線。
後方にいたシーザリオの視界が、一瞬、完全に開いた。
シーザリオという馬名は、シェイクスピアの代表作「十二夜」でヒロインが男装した際に用いた仮名に由来する。
まさにオークスの直線は、シェイクスピアの美しき喜劇が幕を開けたような華やかさがあった。
逃げ粘るエイシンテンダー。レースの主導権を握ってきた彼女は、後続の追撃を凌ぎ切ろうと必死に粘っていた。
しかし外から、満を持してエアメサイア、ディアデラノビアが追い込んでくる。エアメサイアがエイシンテンダーを交わして先頭に立つ。ディアデラノビアも追い込む。トライアルで魅せたあの鬼脚が、再び炸裂するのか。
しかし更に外から追い込んで来たのは、シェイクスピアの喜劇の如き鮮烈な末脚を持つ、1頭の牝馬であって。かのディアデラノビアより更に凄い脚で駆け上がってくる。
シーザリオである。
鬼脚とも呼ばれたディアデラノビアを、ものの一瞬で抜き去る。先に抜け出していたエアメサイアも、あっという間に射程圏内。
残り50m。
勝負の決着はついたも同然だった。
最後にクビ差を差し切ったところが、栄光のゴール板だった。
上がり3ハロン、33秒3。
前半がスローペースであることから単純比較は難しいが、翌週に無敗の二冠達成を成し遂げたディープインパクトの上がりよりコンマ1秒速かった。
芝2400mという、3歳牝馬にとって過酷な舞台で、この上がり3ハロンである。
もはや、シーザリオに勝てる牝馬は世界中で何処にいるのだろう?
当時じゃじゃ馬娘ながら鋭い脚で前年の秋華賞を差し切り勝ちしたスイープトウショウと戦わせたらどうなるのか?
そう、期待を膨らませるばかりであった。
これでシーザリオは初のG1制覇。
桜花賞の雪辱を見事に晴らした、素晴らしい勝利だった。
レース後、陣営は驚きの計画を発表。
「シーザリオ、アメリカンオークス挑戦」
当時は創設間もないアメリカのG1レースだったが、アメリカに限らず、春のクラシック戦線を戦った世界中の牝馬達のオールスター決戦の地位を確立しつつあった。
ハリウッドパーク競馬場からの招待により参戦が決まったシーザリオは、これまでにないほど万全の状態で異国の地に降り立った。
そしてこのアメリカンオークスは、10年後の日本競馬に於いて母親として名を連ねる名牝達が出走していた。
2014年皐月賞馬、イスラボニータの母であるイスラコジーン。
2015年オークス馬──奇しくもキャロットファームの所有でシーザリオと同じく豪快に差し切った──シンハライトの、母であるシンハリーズ。
さらに2011年のマイルCS勝ち馬エイシンアポロンの母、シルクアンドスカーレットも出走していたのだから、競馬の奥深さ・運命的なものを感じさせる。
このレースにおけるシーザリオのライバルは、デビューから無敗のメリョールアインダ。シーザリオとどう戦うかが注目されていた。
ゲートが開き、シーザリオはこれまでにない好スタートを切る。
イスラコジーンがハナを切り、ザッツワッタイミーンが様子を窺うが、シーザリオはそのすぐ3番手で好位にポジショニングする。
後方にシンハリーズとシルクアンドスカーレット、最後方付近には無敗馬のメリョールアインダが構えていた。
ペースはシーザリオにとって得意のスローペースだ。自分のペースで仕掛けようと、人馬ともにゆったり脚をためていた。
しかしそんな中、展開が目まぐるしく変わる。
残り800mを切ってイスラコジーンはまだペースアップをしないでいた。そこに、自分のペースで好きなようにさせてもらおうと言わんばかりに、シーザリオが馬なりながら徐々に加速。ザッツワッタイミーンも共に進出を開始していた。
そしてその後ろにピッタリとついてきたのは、シンハリーズ。
腹を括って直線勝負に専念しようと構えるメリョールアインダ。
4コーナーを迎えた時の先頭は、まだ馬なりのままのシーザリオだった。
その後ろにはシンハリーズがザッツワッタイミーンを交わして虎視眈々と様子を伺うように追っている。
この状況にメリョールアインダは焦りを憶えたのか、慌てて追い出しを始める。
まだ手網も扱いてないまま迎えた最後の直線、鞍上の福永騎手がついにゴーサインを出す。
その後は、圧巻の末脚だった。
シンハリーズとの差は1馬身、2馬身、3馬身と広がっていく。
後に福永騎手は、シーザリオが直線の途中で気を抜く素振りを見せていた為に必死に追っていたと語る。それでも上がり最速でレコードタイム決着。4馬身差の圧勝という、日本馬の底力を見せつける鮮やかな海外G1初勝利だった。
一体何がシーザリオをここまで強くしたのだろうか?
その秘密に、生まれ持った天性の才能──父のDNAが影響しているのだろうと感じた。
シーザリオの父であるスペシャルウィークは、ダービー、天皇賞・春秋、ジャパンカップでどれも圧巻の勝ちっぷりを披露していた。その能力が娘シーザリオにもそっくりそのまま遺伝したのではと思えたのである。
親子揃って、鞍上とのドラマを生んでいる点も似ている。
武豊騎手に初のダービージョッキーをもたらしたのが父・スペシャルウィーク。
その武豊騎手に憧れていた福永騎手に初の海外G1制覇をもたらしたのはその娘、シーザリオ。
2頭の親子が世代を跨いでドラマを生むのだから、競馬は面白い。
世界的にも注目の的となったシーザリオ。しかしその先に待っていたのは「引退」の2文字だった。
繋靱帯炎を発症し、無念の引退。
母親としての活躍が期待された。
そして期待に応えるかのように、母親となったシーザリオは、さらなる活躍を続けた。
シンボリクリスエスとの交配で生まれた自身3番目の子供、エピファネイア。
キングカメハメハとの交配で生まれた6番目の子供、リオンディーズ。
そして、新種牡馬ロードカナロアとの交配で生まれたのが、冒頭にも触れた9番目の子供、サートゥルナーリアだ。
その後シーザリオは2017年にとある1頭の新たな名馬と交配した。2015年度代表馬のモーリス。血統だけで言えば、往年の競馬ファンには堪らない配合であり──夢の配合でもある。
何故、夢の配合なのか?
そう思う方も多いだろう。
シーザリオは前述の通り、父スペシャルウィーク。そしてモーリスの祖父は、そのスペシャルウィークの同期で因縁の相手であったグラスワンダーだ。
ライバル同士が時を経て、1頭の馬の血統表に名を連ねる。
これが競馬の奥深さであり、醍醐味である。
さらにモーリスにはいわゆる「メジロ血統」も含まれているため、日本競馬の時代を長らく引っ張ってきた名馬達の名や血統がこれ程多くぎっしりと詰まった馬もなかなか居ないという血統となった。「シーザリオの2018」にはぜひ注目して貰いたい。
20世紀末にエルコンドルパサーらと共に席巻した黄金世代のスペシャルウィークとグラスワンダー。
現代の日本競馬の礎を築き上げたサンデーサイレンスの奇跡の配合。
5代にも受け継がれたメジロ家の血。
そして現役としても母としても卓越した成績を残し続けるシーザリオ。
ここまで見てワクワクさせてくれる血統は、なかなか無いはずだ。
実際に走るのかどうか、こればかりはデビューしてみるまでは分からない。しかしそれでもしっかりと走ってくれるのではないか、という期待をかけられずには居られない。
シーザリオは上述の通り、素晴らしい繁殖実績がある名牝だ。
エピファネイアは2014年のジャパンカップで、当時日本馬として初の世界ランク1位となったジャスタウェイに4馬身差をつける圧勝劇を演じ、祖父スペシャルウィークとの3世代に跨ぐジャパンカップ制覇を成し遂げた。
その翌年の朝日杯FSでは、奇しくもオークスで因縁の相手となったエアメサイアの仔エアスピネルとの対決となったリオンディーズが、母を彷彿とさせるような末脚で2歳G1の栄光を勝ち取った。
そして、冒頭の2018年12月28日に時は戻る。
そこでは新たな伝説が幕を開けていた。
シーザリオの仔であるサートゥルナーリアの馬名の意味は「公現祭での行事の基礎ともなった古代ローマの祭り、母名からの連想」だ。
その名の通り、このG1という舞台すらも、祭りの序章なのかもしれない。
ホープフルS、最後の直線を向くまで馬群の中でゴチャついてたサートゥルナーリアは、視界が開けると一気に加速。鞍上のデムーロ騎手は持ったままで、余裕のG1初勝利だった。
この馬が中心となってクラシックは動いていくだろう──目の前で勝利を目撃していた私は、そう確信した。
そしてそのままぶっつけ本番で挑んだ皐月賞。ハイペースの中でレースを進めた中、最後の直線ではヴェロックスとの叩き合いを制し、見事ディープインパクト以来となる「無敗での皐月賞制覇」を成し遂げた。
もはや2冠達成確実かと思われた日本ダービー。
ここで母の悪さが露呈してしまい出遅れて後方からの競馬に。大外を回る形で最後追い上げるも、出遅れが響きロジャーバローズに届かず4着。
夏を超えて挑んだ神戸新聞杯。
ダービー敗北からの立て直しを図るレースと位置付けられていた舞台で、サートゥルナーリアは異次元の末脚を発揮する。
最終コーナーで早くも先頭に立ちながら、上がり3ハロン32秒3という驚異的な末脚を発揮し2着ヴェロックスを完封。
次の相手は、歴戦の古馬たち。サートゥルナーリアは並み居る強豪をねじ伏せるレースを演じてくれるのだろうか?
「特別な週末」から、「喜劇」へ。
そのシェイクスピアの喜劇から、「祭り」へ。
祭りは私たちに、これから何をもたらしてくれるのか。
2019年。
令和を迎えた新時代に、平成デビュー最終世代から登場した怪物が、立ち向かう。
写真:かぼす