
松永幹夫騎手(現調教師)が、現役最後の重賞騎乗を劇的な勝利で締めくくった2006年、阪急杯。大勢が歓喜を持って祝福する裏で、一頭の馬がターフに散った。栄光と悲哀を知る2歳王者、コスモサンビーム。
その生涯は回り道の連続だった。進む道が閉ざされそうな時もあった。それでもレースは続く。16戦5勝。そんなコスモサンビームが走り続けた物語を振り返る。
■ザグレブから吹く風
15番枠の不利などお構いなしに、メイショウボーラーが強引にハナを奪った。そのスピードは圧倒的で、あっという間に3、4馬身と差が開く。コスモサンビームは好スタートを決めて、内埒沿いに潜んで牙を研ぐ。
メイショウボーラーが外連味なく飛ばす。1,000メートル通過が57.5。2歳戦にしては締まったペース。後続の足を封じる逃げだ。
4コーナーに差し掛かったあたりで各馬が動き出し、馬群がギュッと凝縮する。一介の逃げ馬ならばここで飲み込まれてしまうだろう。が、捕まらない。それどころか、詰まったかに見えた差が再び開いた。勝負所の加速&二枚腰。これがメイショウボーラーの武器だった。
残り200m。スピードはまだ落ちない。似たような展開になった小倉2歳Sでは、結局5馬身の差を付けられた。やはり届かないのか……。思った瞬間、コスモサンビームに火が付いた。
バルジュー騎手の鞭に呼応し、グンっと加速する。2番手馬群からわずかに抜け出し、メイショウボーラー目掛けて襲い掛かった。一完歩、また一完歩とその差が埋まっていく。宿敵の尻尾は射程圏内。馬体が並び、首差コスモサンビームが交わしたところがゴールだった。
朝日杯FS優勝。デビューから7戦目。闘って、闘って強くなったコスモサンビームは、ついに2歳馬の頂点に立った。ザグレブ産駒として嬉しい初GI制覇。そしてこれは、血統に対する大いなる復讐でもあったように思う。
──ザグレブはすでに日本で見放された血統だった。
ザグレブは、ヒシアマゾンの父としても有名なシアトリカルの直仔で、1996年にアイルランドダービーを6馬身差で圧勝した。翌年には日本に輸入され、満を持して種牡馬生活をスタートさせる。だが、日本の馬場はザグレブを受け入れなかった。供用3年で中央競馬における勝利数は9。勝率は10%を切っていた。スピード化が加速度的に進み、切れを求められる日本競馬の中で、産駒はまるで走らなかったのである。わずか6世代を残したのみで、ザグレブは早々に故郷アイルランドへと返還されてしまった。
代表産駒もなく、いずれ記憶の片隅に残るだけの存在。ザグレブもまたその道を辿るはずだった。しかし、運命の悪戯か、あるいは競馬の神様の出来心か。日本に残した2001年度産駒の中に潮流を変える馬がいたのである。
過去にも、成績が芳しくない種牡馬が突然変異的に走る馬を出したことはあった。オグリキャップの父ダンシングキャップしかり。セイウンスカイを輩出したシェリフズスターしかり。2頭とも、それまでの種牡馬成績を鑑みれば出色の産駒だろう。
しかしザグレブが奇っ怪だったのは、同時に2頭も走る産駒を出したことだった。一頭が2歳王者となったコスモサンビーム。もう一頭が道営所属ながら中央競馬に殴り込み、ラジオたんぱ杯2歳Sを勝ったコスモバルク。
「サンデーサイレンス産駒であらずんばサラブレッドではあらず」
当時、そんなジョークが笑えないほど、毎年産駒はビッグレースを制し、セレクトセールでは億越えの産駒が当たり前に売れた。後継種牡馬も次々に誕生し、その版図は拡大の一途を辿っていた。世はまさに大サンデーサイレンス時代。その中にあって、中小牧場産まれの非サンデーサイレンス系、それも「走らない」と言われていたザグレブ産駒が大躍進するシーンなど、誰が想像できただろうか。
両馬ともに見出したのは、マイネル軍団総裁でお馴染みの岡田繁幸氏である。
コスモサンビームを生産したのは新冠の老舗、ヤマオカ牧場。岡田氏との付き合いは長く、過去に生産馬を何頭も取引をしてきた。
幼駒時代は別段目立ったところのない馬だったという。それでも競馬界随一の相馬眼を謳う総帥の目に留まったのだから、秘する何か持っていたのだろう。ちなみに、コスモバルクとの邂逅に関しては、河村清明氏の著書「相馬眼が見た夢」にて描写されている。全編を通じて、岡田繁幸という競馬人の哲学、息遣いまで聞こえてきそうな重厚な著。必読の一冊である。
──とにもかくにも2003年、12月。クラシックを占う意味で重要なレースをコスモサンビームとコスモバルクが勝った。この瞬間、確かに最大風速でザグレブ旋風は巻き起こっていた。「来年の主役はザグレブ産駒2頭」、そう評価する声も多かった。岡田総帥、悲願のダービー制覇なるか? そんな機運も高まっていた。しかし、吹き続ける風はない。
■コスモサンビームの受難
2歳王者として迎えた年明け初戦、スプリングS。1番人気に支持されたコスモサンビームだったが、直線伸びきれずまさかの5着に敗退。休み明けを加味しても、朝日杯で負かしたアポインテッドデイも交わせない結果には一抹の不安が残った。
続く皐月賞では、同門の士・コスモバルクと初対決が実現する。バルクは前哨戦の弥生賞を快勝しここでも1番人気、サンビームはひと叩きの効果を見込まれて3番人気に落ち着く。
2歳時に鎬を削ったメイショウボーラーが逃げ、それをダイワメジャーが追走。サンビームはバルクと似た位置、前2頭を見る位置でレースを進める。隊列に大きな動きがないまま最終直線。メイショウボーラーが粘る中、ダイワメジャーが余裕綽々に捉えて先頭に躍り出る。外からバルクが猛追するもこれを捕まえることができず2着。コスモサンビームは逃げたメイショウボーラーをも交わせずに4着に終わった。
歯車は静かに、だが確実に狂い始めていた。
立て直してダービーを目指すかに思われたが、コスモサンビームが次走に選んだのはNHKマイルCだった。これが実力ではない。GIを制した距離で、再び輝きを取り戻そうという意図だったのだろう。例年ならばこの選択も間違っていなかったかもしれない。しかし、この年は最悪の裏目を引く。そこにはキングカメハメハがいたのである。
コスモサンビームは4番人気の評価を覆し、2着と好走した。だが、キングカメハメハはその5馬身先を、レースレコードとなる1:32.5で突き抜けていた。完敗だった。
立て続けに春3戦。ダービーを捨ててのNHKマイルC出走のはずだった。
この年、岡田総帥率いるマイネル・コスモ軍団は過去類を見ないほどの成果を挙げていた。皐月賞で2着と気を吐いたコスモバルクを筆頭に、共同通信杯勝ちのマイネルデュプレ、きさらぎ賞馬マイネルブルック、逃げてしぶといマイネルマクロスと駒が揃っており、ダービー制覇が手の届く位置にあった。
想像するに、豪華すぎる布陣が故に引けなかった事情もあったのだろう。この幻想が判断を曇らせた。コスモサンビームもまた、夢を叶えるための一翼としてダービーに出走することになったのである。
結果は惨憺たるものだった。
キングカメハメハが圧倒的な力を誇示して優勝。NHKマイルCに続きレースレコードを樹立し、世代を完全掌握した。そして2~7着はすべてサンデーサイレンス産駒で占められ、改めてその血の底力を知らしめた。
対するマイネル・コスモ軍団はバルクの8着が最先着。コスモサンビームは最後方から進めるも、やはり距離が長かったのか12着に沈んだ。しかし、敗戦以上に失ったものの方が大きかった。
後世に「死のダービー」とも揶揄されることとなる2004年、東京優駿。マイネルデュプレが骨折。マイネルマクロスが屈腱炎を発症し引退。マイネルブルックに至っては左第一指関節脱臼を発症して競走中止、予後不良となってしまった。
そしてコスモサンビームは「左第一指節種子骨折」。叶わなかった夢の代償は、競走能力喪失の可能性がある大怪我だった。
走れるようになるかは分からない。コスモサンビームは長い休養に入ることとなった。

■陽の射す方へ
懸命な治療の末、427日ぶりにコスモサンビームはターフへ戻ってきた。競走能力喪失の可能性があったことを思えば、復帰できただけでも奇跡だった。だが、復帰と復活はイコールではない。
初戦の関屋記念こそ5着とその兆しはあったが、続く京成杯オータムハンデは見せ場もなく10着。仕切り直しで挑んだ富士Sでは思い切った先行策を取ったが、直線で失速して9着。そこに、在りし日の輝きはなかった。
「痛みを気にしている素振りがある」
富士Sの手綱を取った柴田善臣騎手は、佐々木調教師にそう伝えた。
怪我は完治していた。しかし、その時の痛みの記憶がサンビームを苦しめていた。このまま終わる馬ではない。終わらせたくない。馬の疲れ、足の状態、騎手の感触……諸々を飲み込んで陣営が選んだのはスワンS出走。まさかの「連闘」だった。
──さすがに使いすぎでは。
──ヤケクソ過ぎる。
──もう終わった馬だと思う。
一部では、そんな好き勝手に騒ぐ声も散見された。
そして、その全てをコスモサンビームは走りで黙らせた。
快速ギャラントアローが引っ張る中、中団の外目を気持ちよさそうに追走。騎手が合図すると、復帰後鳴りを潜めていた末脚が炸裂する。先に抜け出していた富士S覇者サイドワインダーを強襲し、これを半馬身退けて先頭でゴールを駆け抜けたのである。
栄光の朝日杯FSから実に685日ぶりの勝利。絶望を走り抜き、やっとコスモサンビームは復活した。その道先には、確かに一筋の陽が差し込でいた…。
さよならは突然やってくる。
高松宮記念に目標を定めたコスモサンビームは、休養を挟んで年明けの阪急杯で復帰。心身の不安がなくなったことでハードな調教もこなせるようになり、より逞しくなった姿がそこにはあった。
しかし、コスモサンビームがゴールすることはなかった。
3コーナー過ぎから不可解に失速。大きく馬群から離れていく。そして、競走中止。騎手が無事に下馬するのを見届けると、力なくその場に倒れた。レース後、馬運車が来た時にはすでに息を引き取っていた。急性心不全だった。
名は体を現わさない。
コスモサンビームの蹄跡は、常に陽光降り注ぐ華やかなものではなかった。廃れた血に抗い、激動の時代に翻弄され、怪我に狂わされた。しかし、境遇を嘆かない。
事故は悲しい。「もし無事だったならば」と、想像したことは一度や二度ではない。種牡馬コスモサンビームを観てみたかった。だが、競走馬が残すものはその血だけではない。青臭いことを言えば、意志や魂みたいなものもまた、継がれていくと思っている。
走ることでしか、陽の射す場所には辿り着けないこと。マイネル・コスモの後輩たちは、しっかりと受け取っている。負けが込み、時に過酷なローテーションになっても頭を下げず、走り、人気薄で爆発する。腐るな、絶望するな、立ち止まるな。血ではない何かで、背中を押す。
2025年、有馬記念。
惨敗続きだったコスモキュランダが激走した。そこに、フッとコスモサンビームの面影を観た気がした。
Photo by I.Natsume
