シンボリクリスエス〜21世紀に継ぐ伝統の『シンボリ』〜

緑・白襷・袖赤一本輪。

多くのオールドファンは、この勝負服を目にすると、ちょっとだけ背筋が伸びる思いを抱く。

登録者はシンボリ牧場。

野平祐二騎手とともに日本馬としてはじめて凱旋門賞に出走したスピードシンボリ、その野平調教師が手がけた気高き皇帝シンボリルドルフは岡部幸雄騎手を背に、日本競馬史上はじめて無敗でクラシック三冠を制した。

そして、ルドルフがいた時代に野平調教師の元で調教助手をしていたのが、のちの藤沢和雄調教師である。

『シンボリ』の伝統を受け継ぐ者たちのもとに現れた馬、それがシンボリクリスエスだ。

藤沢和雄厩舎から岡部幸雄騎手を背にデビューしたシンボリクリスエス。新馬戦の馬体重は540キロと、ひと際目を引く雄大な黒鹿毛は、ほかの出走馬を見下ろしているようにさえ感じられた。それはまるで、ルドルフの皇帝然とした気高さに重なるようだった。

ところが、シンボリクリスエスは10月秋に新馬を勝ったあと、間隔を開けた年明けの500万下(当時)からスランプに見舞われてしまう。

ルドルフ戦法とも呼ばれた、好位追走から直線で抜け出す安定感ある皇帝のレースぶりとは対照的に、前につけることができず、モタつきながら不器用そうに後方を走り、最後に伸びては届かないという歯がゆいレースが続いた。

藤沢師も岡部騎手も、まだシンボリクリスエスの体に緩さがあることを感じていた。それをレースを使いながら解消していった結果、4月の中山、山吹賞で好位に取りつく安定感のある内容で1着となり、ようやく2勝目をあげた。

自身の悲願でもある日本ダービーを目標に、藤沢師はそのトライアルレース・青葉賞にシンボリクリスエスを出走させた。

日本ダービー出走権をかけた一発勝負のために、陣営は鞍上に武豊騎手を指名。本番はライバルになるタニノギムレットに乗るであろう武豊騎手に、シンボリクリスエスを任せる。

その賛否を呼んだ乗り替わり劇は、吉と出た。

さすがは武豊騎手、一発できっちり青葉賞を勝利しただけでなく、徐々に位置を下げながら直線で一気に差し切るというシンボリクリスエスに秘められた真価の一端まで披露してみせた。

──だが、シンボリクリスエスは日本ダービーを勝てず、藤沢師の悲願達成はのちの宿題となってしまった。

結果はわずか0秒2及ばずの2着。その前には、武豊騎手が操るタニノギムレットがいた。

青葉賞の直後、武豊騎手は藤沢師に「秋になったら強くなりますよ」と伝えたそうだ。藤沢師は「秋かよ」と内心思ったと回顧しているが、この天才の予言は、見事に的中する。

3歳秋を迎えたシンボリクリスエスは神戸新聞杯快勝後、目標を古馬相手の天皇賞(秋)に定めた。当時は3歳ならクラシック最終戦の菊花賞へ進むのが当たり前とされており、この挑戦はひと際注目を集めた。

この年の天皇賞(秋)は東京競馬場改修のため中山芝2000mで施行。騎乗したのは日本ダービーから手が戻った岡部幸雄騎手だった。

レースが始まると、同じ年のはじめに中山競馬場でモタついていたとは思えないような力強い走りで古馬を圧倒。あっさりと、中距離チャンピオンの座についた。

「秋になれば強くなる」という武豊騎手のジャッジの通り、シンボリクリスエスは短期間で大きな進化を遂げた。

続くジャパンカップ(3着)から短期免許で来日中のオリビエ・ペリエ騎手をパートナーに迎えたシンボリクリスエスは、年末の風物詩である有馬記念で底知れぬ強さを日本全国に知らしめる。

単勝80倍超の伏兵タップダンスシチーが逃げ込み態勢のレース。大波乱は確定的とだれもが思った刹那、ただ一頭、上がり3ハロン34秒6という当時の中山芝2500m戦としては異次元の脚を繰り出したシンボリクリスエスが、タップダンスシチーを一気に捕えてゴールした。

「シンボリ、並んで、捕えてゴールイン!」

冷静な白川次郎アナウンサー(ラジオたんぱ、当時)の声が珍しく上気した場面が印象深い。

年度代表馬となって迎えた4歳シーズン。

シンボリクリスエスはぶっつけで臨んだ宝塚記念5着を挟み、天皇賞(秋)にペリエ騎手を背に出走。

東京競馬場芝2000m戦では絶対不利といわれた18番枠をもろともせず、好位につけて抜け出して、日本競馬史上唯一の天皇賞(秋)連覇を達成。この記録は、時代が令和に移り変わってもなお、未だ破られていない。

秋は古馬中距離GⅠ3戦と発表されていたシンボリクリスエスは、予定どおりジャパンカップに出走するも大雨による道悪に泣かされ、タップダンスシチーの3着に敗退。

このレースの敗因を「馬を緩めてしまった」と自らに求めた藤沢師は、引退レースの有馬記念までの期間でシンボリクリスエスに厳しい調教メニューを課したという。

有馬記念当日は、競馬場で引退式を行うことも決まっていた。過度に追い込むことを避けたくなるような状況下での調教で、細心の注意と繊細なさじ加減が要求された。しかし、シンボリルドルフから続く名馬を扱ってきた藤沢師のそれは、完璧だった。

当日の馬体重538キロはデビュー当時とほぼ変わらなかったが、その雄大さにはもはや甘さは感じられず、寸分もスキがなかった。

漆黒の馬体はまさに威風堂々たる王者のオーラをまとっていた。

かつてルドルフが見せた気高さが、自然と重なる。

緑・白襷・袖赤一本輪。

連綿と20世紀に紡がれたシンボリの伝統と、誇りを21世紀に継ぐものたちが育てあげたシンボリクリスエスは、2003年有馬記念で完全無欠な走りを披露した。

ジャパンカップで取り逃がしたザッツザプレンティの暴走気味の逃げにも動じず、タップダンスシチーを目標に4角でにじり寄り、直線であっさり捕まえると、あとはひたすら独走劇。

2着リンカーンに9馬身いう大差をつけた。

有馬記念の直線での走りは、シンボリルドルフの2度目の有馬記念と重なった。あのとき、野平師は岡部騎手を「ルドルフの強さを見せつけてこい」と送り出したそうだ。

藤沢師もまた、2度目の有馬記念でクリスエスの強さを日本全国に知らしめた。

ルドルフと、クリスエス。

有馬記念連覇は、時代を駆け抜けたシンボリ牧場、その伝統の証である。

写真:Horse Memorys

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