生涯連対率100%のダイワスカーレットが魅せたベストレース/2007年エリザベス女王杯
■生涯連対率100%の「重み」

競馬という舞台に置いて、生涯連対率100%、つまり3着以下が無いという完璧な蹄跡は、勝利の記録以上に「重み」を持つ。昭和の高度成長期真っ只中の時期に登場したシンザンは、19戦19連対という生涯成績で五冠馬となり、競馬史にその名を残している。そして、シンザン引退から41年後、生涯連対率100%となる牝馬がデビューする。

ダイワスカーレット──その名は、勝利の記録以上に、連対率100%という完璧な蹄跡によって、再び、多くのファンの記憶に残る名馬となった。シンザン以降、中央競馬史上2位となる12戦12連対を記録した牝馬。彼女は一度も凡走しなかった。どんな舞台でも、どんな相手でも、必ず勝つか、惜敗するか。そこに「凡庸」という言葉は存在しなかった。

ダイワスカーレットの凄さはそれだけで終わらない。3歳時の二冠馬であり、結果的には引退レースとなった2008年有馬記念で、1971年のトウメイ以来37年ぶり4例目となる牝馬の有馬記念(GI)制覇(当時)を達成している。

■ダイワスカーレットの生い立ち~デビュー

ダイワスカーレットは、父アグネスタキオン、母スカーレットブーケの10番仔として2004年5月13日に社台ファームで誕生した。母スカーレットブーケは重賞4勝しながらも、GⅠタイトルには届かず現役を退き、繁殖牝馬となる。最初は活躍馬が出なかったものの、5番仔のダイワルージュが2000年に新潟2歳ステークスを制覇し、そしてダイワスカーレットが生まれた2004年に7番仔のダイワメジャーが皐月賞を制覇、GⅠ馬の母となった。

兄が皐月賞馬になったことで、ダイワスカーレットは生まれた時から、注目の一頭となった。デビューは2006年11月の京都。メインレースで、兄ダイワメジャーがマイルチャンピオンシップを制覇する数時間前の新馬戦で好位から先頭に立ち、初勝利を挙げる。2戦目は、暮れの中京2歳ステークスに出走。ビワハイジの仔、アドマイヤオーラとの一騎打ちを制し2連勝を果たす。牡馬のクラッシック候補に勝ったことで、注目率が急上昇するダイワスカーレット。しかし、前週の阪神ジュベナイルフィリーズで、強い勝ち方をしたウオッカの存在が、ダイワスカーレット陣営にとって気になる存在だった。

ダイワスカーレットとウオッカ。この時は、翌年の牝馬クラッシック戦線で期待される馬たちのくくりでしかなかった。しかし、彼女たちが数年にわたり名勝負を繰り広げ、「強い牝馬の時代」を形成することになる。

■ダイワスカーレットとウオッカ、宿命の交差点

競馬史において、ライバルの存在は名馬を更なる名馬に仕立てていく。ダイワスカーレットにとって、それはウオッカだった。牝馬二頭が同世代に生まれ、互いに異なる美学を持ちながら、同じ頂を目指した。その対峙が、牝馬最強時代を作り上げ、競馬ファンの記憶に「ライバルストーリー」として刻まれた。

初めての直接対決はチューリップ賞。ウオッカが1着、ダイワスカーレットは2着。だが桜花賞では立場が逆転する。スカーレットが逃げ切り、ウオッカは2着に敗れた。3度目は、オークスでの再戦と思われた2頭だったが、ウオッカは日本ダービーを選択、ダイワスカーレットはオークスに駒を進め、別路線を歩む。しかし、結果は対照的なものとなり、ウオッカは牡馬を相手に64年ぶりに牝馬として日本ダービーを制覇する。ウオッカ不出走で、一強での二冠制覇を目指したダイワスカーレットは、オークス直前で感冒のため出走を断念した。

3度目の対戦が実現したのは、10月の秋華賞。秋初戦のローズステークスを快勝して臨んだダイワスカーレットに対し、ウオッカは宝塚記念(8着)を経て休養を挟み、秋華賞に出走してきた。結果はダイワスカーレットが勝ち、ウオッカは3着。2頭の3歳クラッシック路線での戦いは、ダイワスカーレットに軍配が上がる。

しかし、ダイワスカーレットとウオッカの真の激突は、翌年の天皇賞(秋)だろう。

2008年11月2日、府中競馬場。牡馬も含めた最強メンバーが揃う中、ウオッカとダイワスカーレットは並び立った。レースは息を呑む展開。残り200m、二頭が完全に並び、馬体を重ねてゴールへ。長い長い写真判定の末、ウオッカがハナ差で勝利。だが、敗れたダイワスカーレットもまた、勝者に匹敵する走りを見せた。

この一戦は、単なる勝敗では語れない。タイプは違えど、互いに「最強牝馬」の定義を塗り替えた。彼女たちは互いに「勝ちたい相手」ではなく、「勝たねばならぬ相手」だった。だからこそ、天皇賞(秋)のハナ差は、競馬史上最も美しい「敗北」と「勝利」の分岐点である。

■ダイワスカーレットのベストレース、エリザベス女王杯

ダイワスカーレットの生涯出走数12戦。うち、8勝を挙げているが、最も際立ち、ダイワスカーレットらしさを見せた勝利といえば、3歳時に初めて古馬牝馬に挑んだエリザベス女王杯ではないだろうか。

2007年11月11日、京都競馬場。牝馬たちの頂点を決するエリザベス女王杯のゲートが開いた。三歳牝馬ながら、すでに桜花賞と秋華賞を制し、世代の頂点に立っていたダイワスカーレットが、初めて古馬との戦いに挑んだ。4度目の対戦となるはずだったウオッカが当日に出走取消。しかし、前年の覇者フサイチパンドラ、一昨年の覇者スイープトウショウなど、古馬の実力馬たちが揃う中、ダイワスカーレットは逃げを選んだ。

スタートからスムーズに先頭へ。安藤勝己騎手の手綱に導かれ、彼女は自らのリズムでレースを刻む。1000m通過は60.6秒──決して速すぎず、遅すぎず。絶妙なペース配分で、後続に脚を使わせる。三コーナーから四コーナーにかけて、フサイチパンドラが外から進出。だが、ダイワスカーレットは微動だにしない。直線に入ると、彼女はさらに加速した。

最後の200m、フサイチパンドラとスイープトウショウが迫るも、「交わされるとは思わなかった」という安藤勝己騎手の言葉通り、最後まで先頭を譲らなかった。3/4馬身差──完勝だった。

この勝利の意味は深い。歴代のエリザベス女王杯覇者を従えての逃げ切りは、まさに世代交代宣言だった。三歳牝馬が古馬を完封する──それは「強さ」の定義を塗り替える瞬間であり、ダイワスカーレットが世代の女王ではなく、「時代の支配者」であることを証明した瞬間でもある。

■ダイワスカーレット、「完璧」の美学

彼女の走りには、常に「意志」があった。勝ちたい、ではなく、勝つべき──そんな使命感すら感じさせる。それが古馬になってからの3戦も彼女らしさのあるレースをしてみせた。

4歳初戦は、ドバイワールドカップを目標にフェブラリーステークスからの始動が、右目の負傷で見送り。負傷が癒えて選んだレースは産経大阪杯(当時GⅡ)だった。メイショウサムソン、ヴィクトリー、アサクサキングスなどのGⅠ馬を相手に堂々の逃げ切り。1998年エアグルーヴ以来となる牝馬による産経大阪杯優勝を成し遂げた。

そして、脚部不安による休養を挟んで、天皇賞(秋)の激走、更に有馬記念での牡馬撃破による圧勝へと続いて行った。有馬記念後、再びドバイワールドカップに向けて調整されていたが、浅屈腱炎が判明してドバイ遠征も断念し、引退が決定した。

ダイワスカーレットは常に「主役」として舞台に立ち続けた。そして引退まで、一度も連対を外すことなく、競馬史に「完璧」という言葉を刻みつけた。ダイワスカーレットは、ただ速かったのではない。彼女は美しかった。その走りは、風を纏った矢のように、観る者の心を射抜いた。勝利の記録以上に、彼女が残していったのは「華麗に逃げる記憶」だった。完璧な走りと、揺るぎない意志──それこそが、ダイワスカーレットという名の意味である。

Photo by I.Natsume

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