ドリームパスポート〜師弟の夢を乗せて〜

きさらぎ賞は、1月のシンザン記念とならぶ、クラシックに続く関西の登竜門。
ただ、2歳GⅠで好走した馬は共同通信杯へ向かうことが多く、こちらはやや小粒なメンバーとなることも。

しかしながら、過去にはスペシャルウィーク、ナリタトップロード、ネオユニヴァース、そして、近年ではサトノダイヤモンドのように、きさらぎ賞で好走した馬のクラシックでの活躍ぶりは、共同通信杯組に負けず劣らず素晴らしい。

これから振り返る2006年のきさらぎ賞も、そういった図式のもと行われたレースだった。


2005年、朝日杯フューチュリティステークスを勝利し、最優秀2歳牡馬に選出されたのはフサイチリシャール。それにより、同馬は翌年のクラシック候補として注目を集めた。陣営は、年明けを共同通信杯で始動することを明言。

一方、ラジオたんぱ杯2歳Sで2着に敗れたものの、札幌2歳ステークスを勝ったアドマイヤムーンもまたクラシック候補の1頭だったが、同様に、年明けは共同通信杯から始動してきた。

その対決の結果は、アドマイヤムーンがフサイチリシャールを差し切って優勝。ただ、共に3歳シーズンの始動戦という意味では、上々の結果といえる内容だった。

その1週間後──京都競馬場にて、きさらぎ賞が行われた。

このレースで1番人気に推されたのは、メイショウサムソン。
7月にデビューし、今回が年明けの初戦ながら、ここまで早くも7戦を消化している叩き上げタイプの馬だった。実績面では、重賞勝ちこそないもののオープンを2勝していて、東京スポーツ杯2歳ステークスでは、フサイチリシャールの2着惜敗という実績があった。

一方、僅差の2番人気となったのは、アドマイヤムーンと同じ、松田博資厩舎所属のドリームパスポートだった。こちらは、母の兄にステイゴールド、祖母の兄にサッカーボーイがいるという良血馬。ここまでの勝利は、2走前の未勝利戦のみで、通算成績は5戦1勝2着3回3着1回という、まさにステイゴールドのような、勝ちきれずとも堅実な戦績だった。しかし、敗れた相手が、対戦後に2歳GⅠを勝ったテイエムプリキュアやフサイチリシャール、さらには重賞ウイナーだったマルカシェンクだったため、この馬もまた注目を集めていた。

この年のきさらぎ賞には、他にも、ファイングレインや、アドマイヤメイン、マイネルスケルツィなどが出走していた。レース当時には出走馬12頭の中に重賞勝ち馬はおらず、共同通信杯と比べればやや小粒なメンバーではあったが、この年の出走馬達の後々の活躍を考えれば、かなり豪華なメンバーが揃っていたといえる。


冬晴れの下ゲートが開くと、最内枠のドリームパスポートとクラフトミラージュはダッシュがつかず、後方からの競馬となった。

スタートしてすぐ、大半の馬は荒れた内側を避け、馬場の中央から外目に持ち出された。その中で、まず逃げたのはアスタートリッピーで、人気のメイショウサムソンが2番手を確保。続く3番手には、マイネルスケルツィ、フュノンガルウ、グロリアスウィークの3頭が横並びとなった。

一方、アドマイヤメイン、ディープエアー、ファイングレインといった上位人気馬は、ちょうど中団に待機し、ドリームパスポートは、安藤勝己騎手が少し手綱を抑えながら、後ろから2番手を追走していた。

この時期の3歳戦らしく、1000m通過は60秒0のゆったりとしたペース。先頭から最後方まではおよそ10馬身の差で、全馬はほぼ一団となって進んでいた。続く、坂の下りから4コーナーに掛けて馬群はさらに凝縮し、レースは最後の直線勝負へと入った。

迎えた直線。メイショウサムソンが、絶好の手応えから馬場の外目を伸びて先頭に立ち、押し切りを図る。追ってきたのは、マイネルスケルツィと、大外へ進路を取ったグロリアスウィークの2頭。ただ、メイショウサムソンも、切れないながらしぶとく脚を使い、なかなか先頭を譲らない。

しかし、コーナーでは内を回っていたドリームパスポートが、馬場の中央に持ち出され、安藤騎手が右鞭を連打すると末脚一閃。
残り100m地点で、メイショウサムソンを交わして一気に先頭に立つと、半馬身差をつけて1着でゴールイン。見事、重賞初制覇を飾ると共に、賞金加算に成功。クラシックへの出走を、ほぼ確実なものとした。

また、ドリームパスポートにとって、メイショウサムソンとの対戦成績はこれで2戦2勝となったが、この時の2頭の対決は、まだほんの序章に過ぎなかったのである──。


ドリームパスポートは、皐月賞の前に、トライアルのスプリングステークスに出走。

出走馬の中には、メイショウサムソンの他に2歳王者フサイチリシャールも名を連ね人気を集めたが、この3頭の対決は、前哨戦とは思えないほど、本番さながらの好勝負となった。

ゲートが開くと、メイショウサムソンとフサイチリシャールは、いつもどおり先団に付けてレースを進める一方で、ミルコ・デムーロ騎手に乗り替わったドリームパスポートは、今回も後方でじっくりと脚を溜めていた。

迎えた直線。またも、メイショウサムソンが4コーナー先頭から押し切りを図り、フサイチリシャールはその外から差し切りを狙ってきた。ドリームパスポートはといえば、こちらも前走と同様に4コーナーで内を回って差を詰め、坂を上ったところで前2頭に並びかけると、そこからは完全に3頭の叩き合いとなった。

しかし最終的には、持ち前のしぶとさと勝負根性で、2頭が自らの前に出ることを許させなかったメイショウサムソンに軍配が上がり、重賞初制覇。クビ差の2着にフサイチリシャールが入り、ドリームパスポートはハナ差の3着に終わった。

そこから中3週で迎えた、本番の皐月賞。
デムーロ騎手が騎乗停止となり、代わりにドリームパスポートの背に跨がったのは、当時8年目の高田潤騎手だった。平地と障害の二刀流騎手として、既に障害の重賞は5勝していたものの、平地の重賞勝ちはなく、平地の通算勝利数も39。さらに、1年半もの間、平地では勝ち鞍がない騎手だった。

しかし、高田騎手には「ドリームパスポートのことを一番分かっているのは、自分だ」という自負があったに違いない。というのも、高田騎手は松田厩舎所属で、アドマイヤドンをはじめとして、厩舎を代表する名馬の調教をつけた経験を持ち、デビュー前からドリームパスポートの調教をつけ、デビュー戦に騎乗していたのは、他でもない高田騎手だったのだ。

しかしそうした経緯とは裏腹に、弥生賞から臨んできた同厩のアドマイヤムーンや、4戦全勝のフサイチジャンク、フサイチリシャールが上位人気に推され、ドリームパスポートはオッズ34.3倍の10番人気に甘んじていた。

雨が上がり、曇天の下スタートが切られると、真ん中からステキシンスケクンが勢いよく飛び出す。その直後にフサイチリシャールが付け、メイショウサムソンも好位5番手につけた。対してドリームパスポートは、いつもより前目の中団9番手、内ラチ沿いをロスなく追走し、アドマイヤムーンとフサイチジャンクは、さらに後方に構えていた。

遅い流れでレースは推移し、4コーナーで、早くもフサイチリシャールが先頭に立った。メイショウサムソンも、絶好の手応えで3番手まで押し上げ、上位人気馬も一挙に先団へと襲いかかる。

一方のドリームパスポートは、末脚を十分に温存できていたものの、GⅠらしく、勝負所でなかなか前が開かなかった。先行馬を捌くのに少し手間取り、4コーナーでは、一旦、中団より後ろにポジションが下がって、最後の直線へと向いた。

逃げるフサイチリシャールのリードはおよそ1馬身だったが、坂に差し掛かると勢いがやや鈍り、変わって馬場の中央からメイショウサムソンが先頭に立った。そこへ、ようやく前をこじ開けたドリームパスポートが、高田騎手の鞭に応えて溜めていた末脚を一気に爆発させる。2頭の間を割ってメイショウサムソンに襲いかかり、残り100mからは、2頭による壮絶なデッドヒートとなった。

粘るメイショウサムソンか、追うドリームパスポートか──。

しかし、またしてもメイショウサムソンが最後に一伸びして前に出ることを許さず、1着でゴールイン。デビュー22年目の石橋守騎手と共に、見事、初めてのビッグタイトルを獲得したのだった。

ドリームパスポートは、惜しくも半馬身及ばず2着。そこから2馬身離れた3着に、後方から追い込んだフサイチジャンクが入った。

さらにそこから6週間後、今度は鞍上に四位騎手を迎えて日本ダービーに臨んだドリームパスポート。しかし、再び後方からの競馬に徹し、直線は追込みにかけたが、ここではメイショウサムソンに並びかけることもできず完敗。さらには、逃げたアドマイヤメインも捕らえきれず、3着に終わってしまった。

しかも運がないことに、レース中に左第1指骨を骨折していたことが判明し、休養を余儀なくされた。


きさらぎ賞でメイショウサムソンに勝利して以降、逆にそこからライバルに三度の惜敗。3歳春のクラシックは、ドリームパスポートや陣営にとって決して悲観する内容ではなかったが、大変悔しさの残る結果となってしまった。

その後、夏を過ぎ、菊の大輪を目指して迎えた秋。幸いにも、骨折の程度が軽症だったドリームパスポートは、この年、中京競馬場の芝2000mで行われた、神戸新聞杯に出走する。

他の出走メンバーを見渡せば、菊花賞で三冠達成がかかるメイショウサムソンはもちろんのこと、ダービー2着のアドマイヤメインや、フサイチリシャールといったお馴染みのメンバーが名を連ねていた。その中でも、最終的には3番人気に推されたドリームパスポートだったが、その背には、再び高田騎手の姿があった。

馬のために、自身のために、そして何より、再びチャンスをくれた師匠のために──。

メイショウサムソンが好スタートを切って始まったこのレース。速いタイムが計時されていた当日の馬場を意識して、高田騎手とドリームパスポートは、皐月賞の時と同じく中団より少し前、メイショウサムソンをマークするような位置にポジションをとった。

そして、勝負所の3~4コーナーでは、目の前のメイショウサムソンを上回るほどの手応えで先行集団へと取り付き、レースは最後の直線へと向いた。

直線に入ると、逃げ込みを図るソングオブウインドの外から、フサイチリシャールとメイショウサムソンが襲いかかり、まずこの2頭が先頭に立つ。

一方のドリームパスポートは、メイショウサムソンから5頭分ほど間隔を空け、一頭だけ、馬場の状態が良い大外に進路をとった。しかし、残り200mを切っても、自身も伸びてはいるものの、前3頭の末脚はなかなか鈍らず、依然としてその差は詰まらないままだった。

さらに、この日のメイショウサムソンは、またしても実にしぶとかった。残り100mを切ったところでいつものようにぐいっと一伸びし、フサイチリシャールの前に出て1馬身ほどのリードを取り、そこで勝利は確定したかに思われた。

──が、この日のドリームパスポートと高田騎手は、ここからがひと味違った。
馬体を離して大外から追い込んだことが、メイショウサムソン最大の武器である、勝負根性を発揮させなかったのか。メイショウサムソンが先頭に立つのとほぼ同じタイミングで、ようやくトップスピードに入ると、見えない死角から一気にメイショウサムソンを差し切ったかどうか、というところにゴール板があった。

そのスピード感からも、判別が難しいかなり際どい差だった。しかし、ゴール板を通過後、高田騎手はすぐに右手でガッツポーズを作り、好勝負に魅せられ、大いに盛り上がったファンの大歓声に応えた。

結果はその通り、ドリームパスポートがクビ差先着しており、高田騎手にとっては、これが嬉しい平地重賞初制覇。2着にメイショウサムソン、3着にはフサイチリシャールを差し返したソングオブウインドが入った。

高田騎手は、レース後の勝利騎手インタビューで「松田先生がチャンスをくれて、どうしても厩舎の皆さんのためにも絶対に勝ちたかったので、今回こういう結果になれて、ほんとに厩舎の皆さんと先生にはすごく感謝しています」と、涙ながらにこたえたのだった。


前哨戦の激闘を経て迎えた、クラシック最終戦の菊花賞。

ここは、京都の長距離戦に強く、菊花賞を制した実績のある横山典弘騎手を鞍上に据え、陣営は必勝を期していた。

ライバルの三冠を阻止して、自らが菊の大輪を手にするために――

アドマイヤメインの大逃げで始まったこのレースで、ドリームパスポートは、前走同様メイショウサムソンの直後に付け、マークするような位置でレースを進めた。

迎えた直線。伸びあぐねるメイショウサムソンを早々に交わしさり、さらには逃げるアドマイヤメインを残り50mで捕らえて先頭に立ち、歓喜のゴールはもう目の前にあった。

しかし、併せ馬となって共に追込み、外から一気に自らを交わしさる馬がいた。神戸新聞杯で、3着に負かしていたはずのソングオブウインドだった。それは、まさに一世一代の神懸かった末脚。

手の届くところにあった菊の大輪は、あとわずかのところでするりと逃げてしまい、あまりにも惜しい、レコード決着と同タイムのクビ差2着。ドリームパスポートは、またしてもビッグタイトルを手にすることができなかった。

さらに、その1ヶ月後。

この年、実に7度目の対戦となるメイショウサムソンと共に、3歳牡馬を代表して国内外の強豪に挑んだジャパンカップ。直線では、馬群の最内から抜け出し、残り100mまでは先頭を走って、あわやの場面を作り出した。

結果、史上初となる「2度目の欧州年度代表馬」に輝くウィジャボードには先着を果たしたものの、最強馬ディープインパクトには実力の差を見せつけられ、GⅠでは3度目の2着となってしまった。

続く有馬記念でも、初めて3着以内を外す結果に終わったものの、同世代では最先着の4着と善戦。
その後、休養に入り、4歳シーズンは、阪神大賞典から天皇賞春へというローテーションが組まれた。

その前哨戦となった阪神大賞典では、ゴール前でアイポッパーに交わされて2着となり、断然の1番人気に応えられなかったものの、まずまずといえる内容だった。

しかし──。

その3週間後。ドリームパスポートは、右第3中手骨を骨折していることが判明し、天皇賞春を回避。今度は、大舞台に立つ機会さえ奪われてしまったのである。

そして、そこからのドリームパスポートは、それまでの堅実な走りが嘘だったかのように、すっかり精彩を欠いてしまった。

復帰戦のジャパンカップは14着と大敗し、続く有馬記念では、1年3ヶ月ぶりに高田騎手とコンビを組むも6着に終わった。

その後、美浦の稲葉隆一厩舎に転厩したものの、3着以内に入ることすらできず掲示板を確保するのが精一杯という内容。そして、迎えた秋。左前浅屈腱炎を発症して引退、乗馬となることが発表された。

伯父のステイゴールドと同じく惜敗続きの戦績だったが、最後の最後でGⅠを勝利した伯父とは対照的に、ドリームパスポートがGⅠで勝ち名乗りを上げることは、ついに叶うことはなかった。


後日談にはなるが、ドリームパスポートと神戸新聞杯を制した高田騎手は、2009年、フリーとなる道を選んだ。その際、「だめだったら、いつでも戻ってきていいからな」と、師匠の松田調教師は優しく声をかけたという。

有馬記念に騎乗した2007年は、平地・障害ともに未勝利に終わり、2008年には中山大障害を制したものの、翌2009年には障害の1勝のみと苦しい時期を過ごしていた高田騎手。

しかし、その後の活躍ぶりは周知の通りで、2013年に最多勝利障害騎手に輝くと、これまでに重賞通算20勝をあげてトップジョッキーとなり、持ち前の明るいキャラクターもあって、日本の騎手界を代表する人気ジョッキーとなった。

一方、師匠の松田調教師は、2016年の2月末で定年、引退を迎えることとなった。それまでに数々の名馬を育て上げ、JRAのGⅠは通算19勝、重賞73勝を挙げた、まさに名伯楽。そんな、数々の勲章を手にした名伯楽が、嬉しかったレースの一つとして挙げたのが、ドリームパスポートで、弟子と共に勝利した神戸新聞杯だった。

また、松田調教師は、騎手時代、障害の名手として知られており、調教師となって勝ちたいレースの一つに中山大障害を挙げていた。結局、勝利することは叶わなかったが、ラストチャンスとなった2015年の中山大障害は、特に印象に残るレースとなった。

管理するエイコーンパスの背には、高田騎手の姿。

4000m近くを走って、迎えた最後の直線。前を猛追したエイコーンパスだったが、勝ち馬のアップトゥデイトにわずか半馬身届かず2着に惜敗。レース後、検量室前で高田騎手が悔しさのあまり号泣したシーンは、多くの人の記憶に残る場面となった。

きさらぎ賞が行われる2月は、定年を迎える調教師が引退する、競馬界にとっては別れの季節。
GⅠのタイトルを獲得することはできなかったが、毎レースのように堅実に走り続けたドリームパスポートの姿と、それを取り囲んだ、師弟の夢や固い絆を、この時期に思い出すファンは、きっと少なくない。

あなたにおすすめの記事