フジキセキ~永遠にベールに包まれた「本気」の強さ~

サンデーサイレンス旋風の中心となるべき1頭。

日本の競馬を根底から変えた、大種牡馬サンデーサイレンス。
まもなく、死後20年の歳月が流れようとしているが、その血が現代競馬に及ぼす影響は、今なおあまりに大きい。

2021年3月現在、サイアーランキングの上位20頭中、実に15頭の種牡馬の血統表にはその名が刻まれ、それ以外の5頭も、サンデーサイレンスの血を持つ繁殖牝馬に交配されることが多い。そのため、日本で生産される馬の大半はサンデーサイレンスの血を持ち、逆に、その血を持たない種牡馬や繁殖牝馬を海外から導入することが、近年ますます盛んになってきた。

そんな、サンデーサイレンスの初年度産駒がターフに姿を現したのは1994年のこと。

この頃、絶対王者だったノーザンテーストの威光にやや陰りが見えはじめ、1993年にリアルシャダイが、1994年にはトニービンが相次いでサイアーランキングのトップに輝いた。

しかし、翌1995年。
サンデーサイレンスが、たった2世代の産駒だけでトップに輝くという前代未聞の偉業を成し遂げ、以後、2007年までの12年間、その座を明け渡すことはなかった。

よって、この1995年が、日本の競馬界にとって大きな転換期になったといって間違いないが、種牡馬サンデーサイレンス躍進の原動力となったのは、この年クラシック戦線を駆け抜けた3歳世代だった。

春のクラシックは、4レース中3レースでサンデーサイレンス産駒が勝利。
唯一、桜花賞はフォティテン産駒のワンダーパヒュームが勝利して取りこぼしたものの、産駒のダンスパートナーが2着、プライムステージも3着に健闘していた。

ところがこの時、躍動するサンデーサイレンス産駒の中で、間違いなく主役になっていたであろう馬の姿は、競馬場はおろか、トレセン内にもなかったのである──。

当初は期待されていなかった、種牡馬サンデーサイレンス。

サンデーサイレンスは、現役生活を米国で送り、ケンタッキーダービーとプリークネスステークスのクラシック2冠や、ブリーダーズクラシックを制するなどGⅠを6勝し、1989年の年度代表馬に輝いたほどの名馬だった。

翌年、引退して種牡馬入りを果たしたものの、評価は低かった。
幼少時にせりで買い手がつかなかったことや、血統背景な評価が、種牡馬サンデーサイレンスの評価の低さにもつながっていたのだろう。
また、当時の所有者が牧場拡大のために負債を抱えていたこともあり、既に持ち分の4分の1を所有していた吉田善哉氏が交渉して購入が決定。日本へと輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで供用が始まったのだった。

ところが、日本に輸入されてからもその評価はさほど高くなく、また種付け料が1,100万円と高額だったため、交配された牝馬の多くは、社台ファーム千歳(現・社台ファーム)に繋養されている繁殖牝馬だった。

1992年4月15日。
そんなサンデーサイレンスを父に持つ1頭の牡馬が、社台ファームに生を受けた。

生まれてすぐに馬主の齊藤四方司氏に購入されたこの牡駒は、栗東の渡辺栄厩舎に入厩することが決定。オーナーが静岡県の富士市出身ということもあり、富士山の輝く石という意味で、後にフジキセキと名付けられた。

順調なデビューまでの過程と、唯一の弱点。

その後フジキセキは、栗東トレーニングセンターで実際に調教を開始されると、目立ったトラブルもなく順調にメニューをこなしていった。若駒が発症することが多いソエも出ず、同世代の馬と併せ馬をしてもまるで相手にしない。トラブルがないどころが、むしろ順調すぎると言っても過言ではなかった。

しかし、そんなフジキセキにも唯一の弱点があった。

それが、ゲート難だった。ゲート試験を何度受験しても受からず、ようやく合格したのは実に5回目のこと。それでも、秋に予定されていたデビュー戦は前倒しされ、8月20日、新潟芝1200mの新馬戦がその舞台となった。鞍上は、蛯名正義騎手だった。

8頭立ての少頭数。当時は、同開催であれば再び新馬戦に出走することが可能だったため、既にデビュー戦を経験した馬が2頭いる中、フジキセキは2番人気に推されていた。

出遅れが懸念されていたため、前日にも蛯名騎手を乗せてゲート練習を行っていたが、それでもレースでは2馬身ほど出遅れてしまった。1200mでの出遅れは、いうまでもなく非常に痛い。

しかし、促されながら徐々に徐々に前との差を詰めると、残り600mの地点で4番手までポジションを上げ、直線の入口では、早くも逃げるティーエムビガーと1番人気のシェルクイーンの外から馬体を併せ、先頭に並びかけていた。

直線に向くと、フジキセキはすぐに単独先頭に立った。そして、そこからは出遅れを挽回してきた馬とは思えないほど、末脚をよく伸ばして独壇場となり、後続との差は離れる一方。結局、2着のシェルクイーンに8馬身差をつける圧勝となり、見事に初陣を飾ったのだった。

ちなみに、この時の勝ち時計は1分9秒8。
このあと、午後に行われた古馬混合1勝クラスの勝ち時計は1分11秒0で、2週間前に行われていた2勝クラスの五頭連峰特別が1分9秒3で決着していたため、時計面でも十分に優秀といえる内容だった。

出世レースも快勝、勢いは止まらない。

その1ヶ月半後。フジキセキは、芝1600mのもみじステークスに出走した。それ以前には、ビワハヤヒデやサッカーボーイが勝利し、古くはテンポイントも勝利した、関西の出世レースである。

ここから、鞍上は渡辺栄厩舎所属の角田晃一騎手に乗り替わっていた。この時、デビュー6年目。シスタートウショウで、1991年の桜花賞を制してGⅠ初勝利を達成すると、この年も春に安田記念をノースフライトで勝利した、関西若手のホープだった。

一方、フジキセキの馬体重は、前走から14kgも増えていた。しかし、見た目に太め感はなく、新馬戦の内容からも1.2倍の圧倒的な1番人気に支持されていた。

ゲートが開くと、出遅れることなくまずまずのスタートを切ったフジキセキは、出走馬9頭がすぐに真っ二つに分かれた第2集団の先頭、前から数えて6番手にポジションを取る。

そこから、スピードの違いで1つポジションを上げると、3コーナーからは角田騎手が全く促していないにもかかわらず前との差が徐々に詰まり、残り600mの地点で、4頭横並びとなった先頭集団の一番外へつけ、そのまま4コーナーを回った。

前走と同じように、直線に入ってすぐに先頭に立ったフジキセキは、持ったままの手応えで後続との差をジリジリと広げ始めたが、残り200m地点で、外から同じサンデーサイレンス産駒のタヤスツヨシが半馬身差まで迫ってきた。

しかし、右鞭を連打して猛追してくるライバルを、角田騎手は左手にチラリと見やる余裕を見せながら、ようやくといった感じでそこから追い始めた。すると、すぐにリードが1馬身ちょっと広がり、ゴール前では再び手綱を緩められて1着でゴールイン。

それでも、勝ちタイムは1分35秒5の2歳コースレコード。ちなみに、これまでのレコードは、前年のGⅠ・阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)での1分35秒9で、既にこの時、歴史的名牝への階段を上り始めていたヒシアマゾンがマークしたものだった。

完勝でGⅠ制覇。1強体制を築く。

新馬戦を勝ったときからこのローテーションは予定されていたようだが、フジキセキの3戦目は、年末のGⅠ・朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)となった。

出走頭数は10頭と少なかったが、さすがにメンバーは大幅に強化された。中でも最大のライバルと目されたのは、武豊騎手が騎乗する2戦2勝の外国産馬スキーキャプテンだった。この年、フランスのGⅠ・ムーランドロンシャン賞を、同騎手が騎乗して勝利したスキーパラダイスを半姉に持ち、前走の京都3歳ステークスを、見た目以上の完勝で制していた。

その他にも、新潟3歳ステークスを制したトウショウフェノマや、赤松賞を勝ったコクトジュリアンなど、フジキセキを含めた上位人気5頭はすべて2戦2勝と負け知らず。

それでもフジキセキは、単勝1.5倍の圧倒的な1番人気に推されていた。

靄に煙る中ゲートが開くと、この日も出遅れることなくスタートを切ったフジキセキは、1番枠ということもあってか、前半からやや積極的なレース運びを展開。前目の4番手にポジションをとる。

一方、2番人気のスキーキャプテンは後ろから2番手での競馬となり、3コーナーでフジキセキが1つポジションを上げたのに対し、スキーキャプテンは一度最後方までポジションを下げる形となる。続く4コーナー。ここで、コクトジュリアンとマイネルガーベがまくるように上がっていって、前5頭と後5頭で集団がきれいに分かれ、レースは最後の直線へと向いた。

直線に入ると、フジキセキは逃げるニッシンソブリンの内側に開いた1頭分のスペースに入り込み、坂下でそれを交わして敢然と先頭に立った。そこから徐々にリードを広げ、残り100mで後続との差は1馬身半となり、セーフティーリードを取ったように思われた。しかし、照明によって明るく照らされた馬場の大外を、白い馬体の持ち主が一頭猛然と追い込み、みるみるフジキセキに迫ってきた。スキーキャプテンだった。

2番手集団から抜け出したところで、武騎手が右鞭を連打するとさらに差は縮まったが、ゴール前で肩ムチを軽く一発入れられたフジキセキはそこから少し伸び、最後はクビ差だけ残して先頭でゴール板を駆け抜けた。着差以上の完勝だった。

確定後、勝利騎手インタビューで、外からスキーキャプテンが迫ってきたときのことと、今後の将来性を問われた角田騎手は、以下のようにコメントした。

「僕の場合、肩ムチだけしか入れてないですからね。まだそこから力があったので楽に勝てると思いました。まだまだ底を見せてないので、これからどんどん競馬で教えていきながらやっていきたいですね」

これがサンデーサイレンス産駒にとって、記念すべき初のGⅠ制覇となったが、当のフジキセキは、この大舞台でもまだまだ本気は見せていなかったのだ。

こうして、牡馬クラシック候補の筆頭に躍り出たフジキセキは、JRA賞最優秀3歳牡馬(現・JRA賞最優秀2歳牡馬)に満票で輝いた。そして、年明けから順調に調整され、春は、前哨戦の弥生賞から本番の皐月賞へと向かうローテーションが組まれた。

年明け初戦は弥生賞。成長はとまらない。

迎えた3月。4ヶ月ぶりに中山競馬場のパドックに姿を現したフジキセキの馬体重は、前走からさらに16kg増えて508kgとなっていた。デビューからおよそ半年で、36kgも増えた計算になる。

当時、それを太いと感じる者もいたようだが、調整過程でトラブルがあったことや、緩められたというような情報はなかった。最終的には単勝1.3倍の圧倒的な1番人気に支持され、レースはスタートの時を迎えた。

馬場状態が重馬場に悪化していた、この日の中山競馬場。フジキセキにとって、初めて経験する道悪でのレースだったが、ゲートが開くと、それを気にする素振りなどまるでなく、そのまま先団へと取り付いた。むしろ、久々のせいか、やや引っかかり気味に口を割りながら1コーナーに進入。逃げるテルノシンゲキの2番手につける格好となり、道中のポジションとしては、デビュー以来、最も前の位置でレースを進めていた。

前半1000mは1分2秒5のスローで進み、先頭から最後方まではおよそ10馬身の圏内。
さらに、3~4コーナーの中間で馬群は凝縮し、残り600mの標識を過ぎたところで、早くもフジキセキは、抑えきれない手応えで先頭に立った。

直線に入ると、いつものようにフジキセキは徐々に後続との差を広げ始めたが、もみじステークスでタヤスツヨシが並びかけてきたのと同じように、この日は坂下でホッカイルソーが外から馬体を併せてきた。

フジキセキのことだから、いつものようにここからスッと引き離して勝つだろう。そう誰もが確信しながらレースを見ていたが、そんな期待とは裏腹に、フジキセキは完全にホッカイルソーに馬体を並べられて差し切られそうになり、一転窮地に陥ったように見えた。

──やはり太かったのか、それとも道悪が原因か。

ところが、騎乗する角田騎手に目をやると、この時点でもまだムチは使っていなかった。
そして、馬体を並べたまま坂を駆け上がると、信じられないことに、本当に一瞬のうちにホッカイルソーを引き離し、リードを2馬身半取って、何事もなかったかのようにそのままゴール板を駆け抜けた。

これまで目にしたことがないような驚くべき光景。またしても100%の力を出さず、それでいてとてつもない瞬発力を発揮し、あっさりと前哨戦をクリアしたのだ。

それは、この年の牡馬クラシック戦線が、完全にフジキセキの1強体制になることを証明するような光景でもあった。

皐月賞は、同じ中山の2000m。
負けるはずがない。

4月16日の本番に向け、フジキセキは、再び栗東トレーニングセンターで調整されることとなった。

最後まで披露されることがなかった本当の実力。無限の可能性。

その日は突然訪れた。

弥生賞から3週間が経とうとしていた3月24日。

軽めの調教を終え、厩舎へと戻ってきたフジキセキの左前脚は腫れ、熱を持っていた。すぐに検査が行われたが、その診断の結果は、左前脚屈腱炎で全治1年以上。

直後に関係者で協議がなされたが、引退と種牡馬入りが発表された。全国の競馬ファンが、どうしようもない失望と落胆を抱いた瞬間だった。

その後、社台スタリオンステーションへと居を移したフジキセキは、既に種付けシーズンが始まっていたにもかかわらず、最終的には、その年118頭に種付けを行った。当然のように、シーズン当初、左前脚はまだ腫れていたが、それでもフジキセキは懸命に頑張り、翌年には91頭もの産駒が誕生した。

以後、ほぼ毎年のように種付け頭数は100頭を超え、自身の最高では252頭に種付けを行った年もあった。また、4年目には日本馬として初のシャトル種牡馬となって南半球に渡り、種牡馬生活での総種付け頭数は、なんと3300頭を超えた。

産駒の成績に関しては、種牡馬生活前半は、父サンデーサイレンスの全盛期と同じ時を過ごしたため、デビュー3戦目でGⅠを勝利した自身とは対照的に、なかなかGⅠ馬が誕生しなかった。しかし、2年目の産駒からGⅠで2着2回のダイタクリーヴァが登場すると、その後も重賞勝ち馬を続々と輩出。

それだけでも大健闘といえる内容だったが、7年目に生まれたカネヒキリが、念願の産駒GⅠ初勝利を達成した。その初制覇の舞台は、意外にも自身が一度も走ったことがないダートのレース。その後、カネヒキリは最終的に7つのダートGⅠ級勝ち星を手にするまでになった。

そこから、堰を切ったように、1200mと1600mを中心にGⅠ馬が続々と誕生したが、中には、シャトル種牡馬時代にオーストラリアで生産された南アフリカ調教馬のサンクラシークが、芝2400mのドバイシーマクラシックを制するなど、その活躍は多岐にわたった。

そして、結果的には最終世代となった2011年産のイスラボニータが、父が果たせなかった夢、すなわち、クラシック制覇を皐月賞で達成し、産駒では国内10頭目のGⅠ級勝ち馬となった。

また、クラシック制覇の夢は、別の場面でも達成された。

フジキセキの引退から6年が経過した2001年。齊藤オーナーが所有し、渡辺調教師が管理するジャングルポケットが、角田騎手を背に、見事に日本ダービーを制覇。あの日、無念の決断を下さざるを得ず、一度は完全に途切れてしまったチームの夢が、6年の歳月を経てついに成就した瞬間だった。

しかしながら、こうして予期せぬアクシデントで、競走馬生活を早期に諦めざるを得なかった馬には、もし無事だったなら……という、その後の幻の未来を、だれしもが語りたくなるものである。

2戦目のもみじステークスで、後のダービー馬となるタヤスツヨシを子供扱いしたフジキセキには、もちろん、幻のダービー馬や幻の三冠馬といった称号がよく似合っていると思うが、筆者には「こうなっていたのかもしれない」と思うことが二つある。

一つ目は、1996年の天皇賞秋で、実際に勝利したバブルガムフェローや、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーとの5頭による叩き合いが見られたかもしれないということ。

もう一つは、産駒から1200m~2000mのGⅠ勝ち馬が誕生しているため、もしかすると、1200m、1600m、2000mの3階級GⅠ制覇が見られたかもしれないということだ。

フジキセキには、そういったタラレバがいくらでも当てはまるよと言われてしまえばそれまでだが、あの日、弥生賞の直線で万人が目にした末脚は、決して幻ではなく現実の出来事だった。

むしろ、最後まで誰も見ることができなかった幻は、フジキセキが100%の力を発揮したときの真の姿、真の実力、真の走り。

フジキセキは、2015年12月28日この世を去った。
その真の強さは、永遠にベールに包まれたままである。

写真:かず

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