キーチャンスを手に入れるチャンスを失ったことで燃え尽きたというか、もうしばらくはサラオクで馬を買おうとは思わないだろうなと感じていましたが、ある日から突然、サラオクで今どんな馬が取り引きされているのか気になり始めました。競り負けしたものの、あの時の高揚感が忘れられないのか、暇を持て余しているのか、それとも寂しさを紛らわすためなのか、おそらくそのいずれもか。まるでAmazonで書籍を購入しようとするぐらいの感覚で、サラオクを日常的にのぞいてしまっている自分がいました。
上場される馬たちの一覧が火曜日の夜に発表されると、パッと目につく馬たちを何頭かピックアップし、戦績やレース振り、馬体、血統などを隅から隅まで調べます。新馬戦から直近のレースまでを、グリーンチャンネルの「栄光の名馬たち」を見るように振り返る、この作業が非常に面白く、その馬がデビューしてからサラオクに上場されるまでの波乱万丈や関係者の悲喜こもごもを追体験できるのです。
新馬戦でこのような走りをして馬主さんはがっかりしただろうなとか、芝で全く走らなかったのでこの時点で見切りをつけてダートに転向したのだろうなとか、重賞レースで好走したときはどれほど将来を期待しただろう、などなど、現時点では結末が分かっているからこそ、俯瞰した視点で過去から未来までを振り返ることができる。それは全く違った競馬の世界の見かたです。
もし未来が分かっているとすれば、僕たちはどのような人生を歩むのでしょうか。
未来が分かると言えば、映画「メッセージ」の原作となった「あなたの人生の物語」(テッド・チャン著)は、未来が見えることによる少し違った世界の見え方を提示してくれる、僕の大好きなSF小説です。突然、人間の目の前に現れたヘプタポッドという異星人の使う不思議な言語を、言語学者である主人公が習得するにつれ、未来に起こることが見えるようになるというストーリー。たとえ(娘を亡くしてしまう)未来が見えたとしても、今その選択をする(夫と結婚する)かどうかを主人公は問われるのですが、僕は世界の見かたの変化そのものに興味を抱きました。
ヘプタポッドと人間における世界の見かたの違いの分かりやすい例として、光線が空気中から水中に入るときの経路が挙げられています(α)。光線は水面に達するまで真っすぐに進んできます。水は空気中とは異なった屈折率を有するため、光線は水面で方向が少し変わります。ここまでは、小学校の理科の実験で習った人もいるかもしれません。興味深いのは、光線の辿ったこの経路はAからBまでの最速のルートになるということです。
試しに、AからBまでを直進する経路を仮定してみると(β)、この経路は距離的には光が実際に取るそれよりも短い。ところが、光は水中では空気中よりもゆっくり進むため、この直進ルートでは経路の半分以上が水中にあることでより時間を要してしまうのです。
次にもうひとつの経路を仮定してみましょう(γ)。この経路は水中を進む部分のルートが短いのですが、全長の距離が長くなってしまうため、光が実際に辿る経路よりも長い時間を要してしまいます。つまり、光はつねに最速(最小時間)となる経路を進むのです。これを「フェルマーの最小時間の原理」といいます。
ここから見えてくるのは、光が最速となる経路を進むためには、あらかじめ目的地が特定されている必要があるということです。最速の経路を計算するためには、最終目的地はもちろん、その途中に何があるのか、たとえば水面がどこにあるのかという情報も知っていなくてはいけません。光は動き始める方向を選べるようになる前に、それらの情報をあらかじめ知っていなくては最速のルートを辿れないのです。
たとえば、東京から大阪まで最速となる経路を進むためには、目的地が大阪であることをあらかじめ知っておかなければいけません。目的地が大阪であると知っているから、スマホでルートを検索してみたり、誰かに聞いてみたりして、最速のルートを調べることができます。出発する前に目的地を知らなければ、当たり前の話ですが、最速のルートを辿ることなど不可能なのです。つまり、光がつねに最速のルートを辿ることができるのは、動き始める方向を選べるようになる前に最終的に到達する点を知っていることを意味しますね。お分かりいただけますでしょうか。
A地点から発せられた光線が、たまたま水面で屈折して水中を進み、たまたまB地点に最速でたどり着くというのは、人間にとっての世界の見え方です。ある瞬間から生じる、次の瞬間。時系列的というべきか、因果的というべきか、原因と結果があり、過去から生じる未来というつながりにすぎません。対して、目的論的というべき見え方もあるのではないでしょうか。目的を満たすためには、最初と最終の状態を知っておかなくてはならず、原因が発生する前に、結果に関する知識が必要となるということです。
僕が言いたかったのは、Aという馬を1歳時にセリで購入し、育成をして、デビュー戦を迎え、一喜一憂しながらレースを重ね、最後にあきらめてサラブレッドオークションに出すことになるまでの馬主さんと、サラオクでAという馬を購入しようと考えてその馬のこれまでのレースを振り返る僕とでは、同じAという馬のキャリア(馬生)に対して、全く異なる見え方や解釈があるということです。どこに到達するか分からないから希望や夢が抱けるとも言えますし、到着地点(結果)が分かっているからこそ、全体の世界がはっきりと見えるとも言えます。サラブレッドオークションに出てくる馬の馬主さんたちは、未来が見えていたならその馬を買って走らせることはしなかったでしょうし、一寸先さえ見えなかったからこそ、ここまで一喜一憂しながら走らせてみたのだと思います。たぶん僕たちの人生も同じなのでしょうね。未来が分からないから、現在を楽しんだり悲しんだりすることができるのです。
そもそも、数千万円から数億もする馬を落札する人間がいることが、僕にとっては驚きです。表現が適切かどうか分かりませんが、どこの馬の骨とも分からない当歳馬や1歳馬に、それだけの大金を払えるのは未来が見えないからでしょう。そういう人たちがいるからこそ、生産者を中心とする業界は食べていけるのだし、競馬ファンは目の前で走る馬たちを見ることができるのです。彼らが冷静になって、いわゆるコスパなどを気にし始めたら、競馬産業自体が滅びてしまうかもしれません。日本の競馬がここまで成長したのは、馬券をたくさん買ってくれる競馬ファンのおかげでもあり、またこうして向こう見ずに夢やロマンを追求してやまない馬主たちのおかげでもあるのです。
(次回に続く→)