ダービーウィークに僕は北海道へと飛び立ちました。追分ファームと社台ファームを訪れ、G1レーシングと社台レースホースの今年度の募集馬を取材するのが目的です。毎年恒例となっている一口馬主DBのこの企画も、ここ2年間はzoom取材となっていましたので、久しぶりに実馬を見せてもらうことができます。正直に言うと、実馬を見たからと言って走る馬を引き当てられるわけではないのですが、少なくとも思い入れは違ってきます。だからここ2年間で出資した一口の馬たちは、どこか記号が走っているようで、いまいち愛着が湧かないのです。直接会うことが大事なんて言うと、もう古いよと諭されてしまいそうですが、僕は人も馬も会うことがひとつの体験となり、記憶に深く刻まれていくと思っています。今年もどんな1歳馬と出会えるか楽しみです。
前日入りしたのは、ダートムーアに会いに碧雲牧場に行くためです。昨年のノーザンファーム繁殖牝馬セールで落札して以来、流産してしまったときも僕は側にいてやれず、およそ半年ぶりの再会になります。もう僕のことなど忘れてしまっていると思いますが、また思い出してもらえるように顔を出しておきたいと思いました。幸いなことに、この週の北海道は東京よりも暖かいほどの晴天続きでした。新千歳空港まで迎えに来てくれた長谷川慈明さんいわく、「今年は雨が降らなくて、牧草が伸びないので困っています」。雨や雪が降りすぎても大変だし、降らなければ降らないで大変。最近は輸入の飼料の値段が高騰したりもしているそう。生産は天候や世の中の状況に大きく左右される、農作物と同じような大変さがあるのです。
大変と言えば、碧雲牧場は今年すでに4頭の仔馬を取り上げていますが、まだ1頭だけ生まれてきていない馬がいます。フォーミーの22が予定日よりも約1か月過ぎているにもかかわらず、まだこの世に誕生していないのです。繁殖牝馬の出産の兆候である乳首のところにヤニのようなものが出始めているので、今日か明日ぐらいがヤマなのではないかと気が抜けない日々を過ごしているそうです。ノルマンデイーで募集されているフォーミーの20(父ディスクリートキャット)に出資している僕にとっても、フォーミーの遅産は気が気ではありません。夜を徹しての見守りをしながら、眠いでしょうに、こうして空港まで迎えに来て明るく話してくれる慈さんに感謝です。
3、4年ぶりに碧雲牧場にやってくると、周りの風景も変わっていました。テソーロの冠名で有名な了徳寺氏が生産を手掛ける牧場が周りにできていたり、碧雲牧場の前の50丁もある広大な土地はノースヒルズが購入したそうです。コントレイルなどの成功により、離乳後の当歳馬を放牧する第2のノースヒルズ清畠のような中間施設をつくろうと計画されているのではないでしょうか。もしかすると、ノースヒルズのGMである福田さんとも碧雲牧場の近くでひょっこり会えるなんてことも起こるかもしれません。ノーザンファームも土地を買っているそうで、今、日高の土地は陣取り合戦になっているようですね。
碧雲牧場に到着すると、慈さんの妻である理恵さんが出迎えてくれました。彼女はいつもかしこまらずに気さくで、オープンマインドな女性です。数年ぶりにもかかわらず、昨日も一緒にいたような感覚を覚えます。彼女に案内してもらってダートムーアが放牧されている場所に歩いていきました。今年は子どもが生まれなかったダートムーアは、親子が一緒に過ごす場所ではなく、隣の放牧地にラヴィンという付き添い馬と共に離されていました。広大な土地をふたりで贅沢に使って、好きなときに食べて寝る、馬にとっては幸せな暮らしです。お腹には再びニューイヤーズデイの仔を受胎しています。
ニューイヤーズデイの仔を流産したのち、その後遺症もなかったダートムーアは、フリーリターン制度を使って、再び3月4日にニューイヤーズデイの種付けを行いました。無事に1回で受胎し、今のところ順調に来ているとのこと。種付けには下村優樹獣医師も帯同してくれて、無事を報告してくれて安心しました。ダートムーアがいろいろな人たちから期待をされて、見守ってもらっていることが伝わってきます。そんな僕たちの期待に応えるように、流産後には胎内が炎症を起こしてしまったりして受胎しづらくなる馬もいる中、1回できっちりと受胎してくれて、ダートムーアは孝行な馬です。このまま行くと、11か月後、来年の2月4日が出産予定日になります。厳寒期の北海道ですが、出産に立ち会えたら最高ですね。
近くまで寄ってきてくれたダートムーアの鼻づらを撫でると、クリっとした目で僕を見つめてくれました。流星もなく、毛が白い部分の全くない鹿毛100%で特徴がない、地味なルックスのダートムーアですが、僕には彼女の優しさと素朴さが分かります。「大変だったね」と苦労をねぎらうと、そのことにはもう触れないでとばかりに、逃げて行ってしまいました。帯同馬のラヴィンに最初のうちは意地悪をされたりしたそうですが、今はふたり仲良く行動しているそうです。しばらく二人の様子を観ていると、高齢なのに落ち着きのないラヴィンに対し、常に落ち着いているダートムーアが譲って、合わせているのが伝わってきました。ダートムーアが高齢になって繁殖牝馬としての役割を終えたときには、今度は若い繫殖牝馬や仔馬たちを見守る立派な帯同馬になるといいなと思いました。
理恵さんに話を聞くと、普段はおっとりしているダートムーアにもパニックになるときがあって、一度、後ろからラヴィンにイタズラでお尻を噛まれたことに驚き、放馬してしまったことがあったそう。いつもなら慈さんが捕まえにいくと逃げないのに、そのときは近くに寄ると逃げて走り回るの繰り返しで、ようやく捕まえたことがあったそうです。そういえば、ダートムーアの過去のレースを観ていて、最後の直線で隣の馬を噛もうとした仕草を見せた瞬間があり、ダートムーアにもそんな一面があることを思い出しました。中央で4勝を挙げた牝馬には思えない穏やかなダートムーアの内面には、競走馬として大切な負けず嫌いな気の強さが祖母ダイナカールらから流れているのでしょうか。
最後にひとつ、驚きの事実が発覚しました。空港からの迎えの車中で慈さんの口から告白されたのですが、昨年、流産してしまったニューイヤーズデイの仔は牡馬だったそうです。「診断書にも記載されていましたけど、気づきませんでした?気づくかなと思って、あえてお伝えはしませんでしたけど」といたずらな表情を浮かべながら慈さんが教えてくれました。僕は頭を抱えながら、今さらどうこうできるわけではないのですが、「嗚呼!」と嗚咽のような声を思わず漏らしてしまいました。
いつの間にか、生産者が牡馬か牝馬にこだわる気持ちが分かるようになり、まるで生産者のようなリアクションが出たことに自分でも驚きました。どう安く見積もっても、牡馬であれば1000万円の値はつくはずです。それが生まれてこなかったことの衝撃は生産者にしか味わえない感覚であり、感情なのでしょう。もしかすると僕は恐ろしい世界に足を踏み入れてしまったのかもしれません。
(次回に続く→)