札幌の夏は、短い。
皆がそれを知っているからだろうか?
ハマナスの花が咲き始めるとどこか焦るように、それでいて何かを振り切るように、皆が思い思いのものを短い夏にぎゅっと詰め込む。
大きな道路沿いにラベンダーやひまわりの顔が揃い始め、朝顔がその美しい花を日に向け、マルヴァの花が背比べを始めると、大通公園の噴水の周りはにぎわいを見せる。
夕陽が美しいグラデーションを彩るころ、日本一の規模を誇るビアガーデンに、涼を求める人たちが集まり始める。
週末になれば、どこかでお祭り、花火大会。
一番大きな豊平川の花火大会の日は、たくさんの浴衣に覆われて、札幌の街そのものが浮かれているようだ。
それなのに、そんな日に限ってなぜか雨が降ったりもする──。
そうこうしていると、気付けば桑園駅からぞろぞろと人が吐き出される週末がやってくる。
駐車場待ちで不自然に混んでいる片側車線。
今年も札幌競馬が始まったことを知る。
毎年、お盆が過ぎれば残酷なほど暦に忠実に涼しくなっていき、夏と秋の境界線がしっかりと引かれるのを、みんな知っている。だからこそ、札幌の夏はどうしたって濃密になる。
それでいて、札幌の夏は、どこか女性的だ。
美しく、情熱的で、儚く、そしてどこか切ない。
そんな夏の札幌開催の終わりを告げる、札幌記念。
一頭の牝馬が時代を変えた、平成9年の札幌記念の思い出に寄せて、少し綴ってみたい。
平成7年。
ダイイチルビー、マックスビューティー、シャダイカグラといった、数々の名牝を手掛けてきた伊藤雄二調教師は、社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)産の一頭の牝馬に並みならぬ期待をかけていた。
平成5年に産まれたその牝馬は、透き通った瞳と美しい鹿毛に、額に刻まれた派手な流星を持っていた。
父はイタリアからの輸入種牡馬・トニービン。
母は、オークスを制したダイナカール。
そのダイナカールの父は、社台ファームが昭和50年から導入した大種牡馬・ノーザンテースト、母はシャダイフェザー。
さらにシャダイフェザーの父は、社台ファームの祖・吉田善哉氏が昭和36年に欧州から導入した種牡馬である、ガーザント。
サラブレッド生産界のガリバー・社台ファームの歴史を紐解くような、華麗な血統を持つこの牝馬は、伊藤雄二調教師の強い勧めにより、彼と親交の深かった馬主の吉原毎文氏が購入することになった。
その牝馬は、吉原氏の所有馬の冠名である「エア」と、「わくわくする」という意味の語を合わせ
エアグルーヴ
と名付けられた。
平成7年7月8日、エアグルーヴは札幌の地で武豊騎手を背にデビューを果たす。
芝1,200mの初戦は2番人気で2着と敗れたが、中2週で臨んだ2戦目を5馬身差で圧勝した。
白眉は、3戦目となったオープン特別のいちょうステークス。
3ヶ月の休養明けとなったこのレースで、エアグルーヴは4コーナーで武豊騎手が体勢を崩し立ち上がるほどの不利を受けながら、残り100mだけの競馬で他馬をごぼう抜きし、逆に1馬身差をつけて先頭を駆け抜ける。
圧倒的な競争能力と、逆境の中においても怯まない精神力。
このレースから、エアグルーヴを翌年のクラシック戦線の有力候補として挙げる声が聞こえるようになる。
しかし続く3歳牝馬チャンピオンを決める阪神3歳牝馬ステークスでは、スローペースに泣き、逃げるビワハイジを捕まえきれず2着に惜敗した。
年が明けて平成8年。
この年、伊藤雄二厩舎にはフェアリーステークスを勝ったマックスロゼや、中京3歳ステークス勝ちであり後に4歳牝馬特別を制するセンターライジング、そしてデビュー3連勝でフラワーカップ2着のメイショウヤエガキと、稀に見るほどの牝馬の逸材が揃っていた。
その中にあっても、ひときわエアグルーヴの才能に輝きを認めていた伊藤調教師は、桜花賞トライアルとして重要なチューリップ賞に、彼女を出走させた。
前回敗れたビワハイジとの再戦となったこのレースで、エアグルーヴはオリビエ・ペリエ騎手の手綱に導かれ、決定的ともいえる5馬身もの差をつけて圧勝する。
「同条件で行われる本番の桜花賞も、エアグルーヴで仕方ない」そう思わせる走りだった。
ところが、本番直前になってエアグルーヴは熱発を発症してしまい、桜花賞を回避することになる。
続くクラシック2冠目・オークスに矛先を変えたエアグルーヴ。
熱発明け、チューリップ賞以来の85日ぶりのレースだったにもかかわらず、彼女は桜花賞馬・ファイトガリバーを抑えての1番人気に支持された。
エアグルーヴと武豊騎手は、その期待に応えてオークスを快勝し、母・ダイナカールからの母娘オークス制覇の偉業を成し遂げる。
ようやくその才能にふさわしい栄冠を勝ち取ったエアグルーヴだったが、それからは秋のシーズンに向けて体調が整わず苦しむことになる。
ステップレースを使わずに挑んだ秋華賞では、単勝1.7倍の支持を受けながら、パドックでカメラのフラッシュを浴びて激しくイレ込むという不運も重なり、勝ち馬・ファビラスラフィンの10着と大敗してしまう。
おまけにレース中に右前脚を骨折していたことも判明して、エアグルーヴは長期休養を余儀なくされることになった。
あり余る才能の片鱗と蹉跌が同居したのが、エアグルーヴの4歳シーズンだった。
翌、平成9年。
5歳になったエアグルーヴは、焦らずに暖かくなってから帰厩し、復帰を目指した調整が進められた。
6月22日、牝馬限定の重賞・マーメイドステークスで復帰戦を迎えた武豊騎手とエアグルーヴは、粘るシングライクトークを競り落として久々の凱歌をあげる。
やはり、同じ牝馬の中ではその能力は疑いようもない。
──秋のシーズンの大目標を、どこに置くか。
その選択に、注目が集まっていた。
一つには、前年の平成8年から古馬へ解放された牝馬限定のG1・エリザベス女王杯を目標とすることが考えられた。しかし、伊藤雄二調教師はエアグルーヴの類まれな能力は、もはや牡馬に入っても遜色ないと考えていたのだろう。
その試金石として、次走は夏の札幌を彩る札幌記念が選ばれた。
芝2,000mの牡馬牝馬混合の別定戦。
果たして、エアグルーヴは一線級の牡馬にどこまで通用するのか。
平成9年の夏も、終わりを告げようかという8月17日。
折しもこの年からG2に格上げされた第33回・札幌記念に13頭が出走した。
エアグルーヴはその中で、堂々の1番人気に支持された。
これまでと同様に、鞍上には武豊騎手。
わずかな差の2番人気に、あのサンデーサイレンスの初年度産駒で、2年前の皐月賞、そして前年のマイルチャンピオンシップとG1を2勝していたジェニュインと岡部幸雄騎手が推されていた。
奇しくも東西のリーディングジョッキーが、牡馬と牝馬の大将格に分かれて相対することとなったこのレース。
「中距離路線での一流馬であるジェニュインに対して、3歳時を除いて牝馬限定線を走ってきたエアグルーヴはどこまで迫れるのか?」を問うレースとなった。
人気の中心はその2頭だったが、続く3番人気には函館記念で重賞2勝目を飾っていたアロハドリームと加藤和宏騎手が続き、そこにエアグルーヴが大敗した前年の秋華賞で2着に入っていたエリモシックと的場均騎手が4番人気で続いた。
ファンファーレが北の大地に鳴り響き、試金石のゲートが開いた。
ほぼ揃ったスタート。
正面スタンド前の先行争い。
田面木博騎手のメジロスズマルがじわっと先手をうかがうが、外から佐藤哲三騎手のウインドフィールズが押してハナを奪う。
その後にレインボークイーンが続き、早くも先頭は1コーナーをカーブしていく。
エアグルーヴはちょうど中団6,7番手あたり、内から2頭目あたりのポジションに収まっていた。
そのすぐ横にアロハドリーム。
岡部幸雄騎手とジェニュインは、シンガリから数えて3頭目あたりを進んでいる。
向こう正面に入り、ウインドフィールズがペースを落ち着かせる。
変わらず中団で泰然と構える、武豊騎手とエアグルーヴ。
気付けばそのすぐ後ろにジェニュインと岡部騎手が、エアグルーヴをマークしていた。
続いてその後ろにエリモシック。
残り600mの標識を通過すると、じわじわと黄色い帽子のエアグルーヴが外を回って先団に取り付いていく。
ジェニュインの岡部騎手の手も動いている。
4コーナーを回って直線を向く。
先頭は、逃げたウインドフィールズとレインボークイーン、そしてアロハドリームの3頭が並んでいる。
その外からエアグルーヴ。
内の3頭とは全く違う脚色。
残り100m。
武豊騎手の肩ムチに応えて、悠然と外から3頭を交わして先頭に立つ。
──格が、違う。
弾けるように後続との差を広げるエアグルーヴ。
ジェニュインとエリモシックが追いこんできたが、もう届かないのは明白だった。
フィニッシュの瞬間、武豊騎手はほとんど追ってすらいなかった。
エアグルーヴ1着。
勝ち時計は2分0秒2。
2着に追い込んだエリモシックが入って、牝馬のワンツー。
粘ったアロハドリームが3着、ジェニュインは差し届かず4着となった。
底が、見えない。
古馬を相手に見せた、美しき2馬身半差の勝利。
この勝利は、「G2」札幌記念の価値を高める勝利になるのではないか……
そんな予感すら漂う、美しき走り。
この走りの先に、秋のどのレースが待っているのだろう?
夏の終わりの北都にエアグルーヴがもたらした、秋G1の香り。
それは、時代が動く気配とも言えた。
札幌記念を勝ったエアグルーヴは、そのまま天皇賞・秋に直行する。
それまで天皇賞・秋のステップレースとしては、毎日王冠、オールカマー、京都大賞典といったレースを走るのが通例であり、伊藤雄二調教師がエアグルーヴに課したローテーションは当時、異例といえた。
しかしエアグルーヴは、前年3歳で同レースを制していた1番人気のバブルガムフェローを、直線の追い比べでクビ差ねじ伏せて勝利する。先に抜け出したバブルガムフェローを、外から馬体を併せに行っての真っ向勝負を仕掛けての勝利に、観ている誰もが痺れたことだろう。
プリティキャスト以来、17年ぶりの『牝馬による天皇賞制覇』という偉業が達成された瞬間だった。
それは同時に、「牝馬が根幹距離の大レースを勝つことは難しい」という固定概念が崩された瞬間でもあった。
エアグルーヴは続くジャパンカップでもピルサドスキーからクビ差の2着、有馬記念ではシルクジャスティス、マーベラスサンデーに続く3着と、牝馬という枠を超えた活躍を見せる。
これにより、牝馬としてはトウメイ以来26年ぶりの年度代表馬の栄誉を浴することとなった。
その後、翌年の札幌記念で連覇を達成するなど、エアグルーヴは6歳のシーズンいっぱいで引退。
通算戦績は19戦9勝、うち重賞7勝。
掲示板を外したのは、レース中に骨折していた4歳時の秋華賞だけと、抜群の安定感を誇った。
引退したエアグルーヴは、故郷で繁殖牝馬となり、初年度からエリザベス女王杯を連覇したアドマイヤグルーヴ、長距離重賞2勝のフォゲッタブル、香港のG1・クイーンエリザベス2世ステークスを勝ったルーラーシップなどの活躍馬を次々と輩出し、母としても超一流の実績を残した。
残念ながら、平成25年に繋養先で鬼籍に入ったが、その産駒・アドマイヤグルーヴからはドゥラメンテが産まれ、平成27年の皐月賞・日本ダービーを制して2冠馬に輝いている。
ダイナカール→エアグルーヴ→アドマイヤグルーヴ→ドゥラメンテという母子4代G1制覇という偉業であり、ガーサントから連なるこの血統の優秀さを証明したといえる。
──牝馬の、時代。
2000年代において、歴史的名馬と称されるような牝馬が、世界各地で同時発生的に現れた。
アメリカにおいては、レイチェルアレクサンドラとゼニヤッタという2頭の牝馬が2009年・2010年と2年続けてエクリプス賞年度代表馬に輝き、全米に旋風を巻き起こした。
欧州では無敗で2008年の凱旋門賞を制したザルカヴァや、そして2013年・2014年の凱旋門賞を連覇したトレヴ、そして2017年から同じく凱旋門賞を連覇中のエネイブルといった名牝が大レースを席巻した。
一方、豪州で2006年に産まれたブラックキャビアが、イギリス遠征を含む25戦無敗という途方もない大記録を打ち立てた。
日本においても、平成という時代を振り返ると、牝馬の活躍には枚挙に暇がない。
平成19年の日本ダービーを含むG1・7勝を挙げたウオッカ。
そのウオッカと同世代で、有馬記念を含むG1を4勝したダイワスカーレット。
天皇賞・秋、ジャパンカップなどG1を6勝するなどタフに走り抜き、当時の獲得賞金で歴代2位になったブエナビスタ。
平成24年の牝馬三冠やジャパンカップ連覇を含むG1・7勝を挙げたジェンティルドンナ。
平成30年の牝馬三冠に加えて3歳でジャパンカップを驚異のレコードで勝ったアーモンドアイ。
平成という時代において、牝馬という枠を超えた名馬たちが数多く生まれた。
されど、その時代の扉を開いたのは、エアグルーヴの存在が大きかったように思う。
歴史に「もし」はないが、平成9年のエアグルーヴの札幌記念から天皇賞・秋への挑戦がなければ、その後の名牝たちの活躍はどうなっていただろうか?
やはり、エアグルーヴは「天皇賞やジャパンカップといった一線級の混合競争において、牝馬が勝つのは難しい」という常識や固定概念を打ち破った一端だった。
常識や固定概念というものは、それが変わってしまった後に振り返ると馬鹿げたことのように聞こえるが、渦中にいるときには「それが当たり前だ」と思ってしまうものである。
そして、それが崩れる瞬間、というものが確実にある。
それは、きっと先駆者たちの勇気によって、もたらされる。
平成という、牝馬の時代。
エアグルーヴの札幌記念が持つ意味は、その後の牝馬の活躍を考えると、あまりにも大きい。
平成という時代は、女性が強くなったのか、それとも男性が弱くなったのか。
そんな問いに首を傾げたくなるほど、平成とは牝馬の時代だった。
けれど、あの夏のエアグルーヴの走りを見ていると、そのどちらもが正しくないように思える。
ただ、エアグルーヴの走りは、美しかった。
札幌の直線入り口から突き放す脚は、ダンスのステップを踏んでいるようにも見えた。
天皇賞・秋でバブルガムフェローと死力を尽くした叩き合いも、どこかワルツを戯れているようにも見えた。
あの走りは、美しかった。
女性が強くなったわけでもなく、男性が弱くなったわけでもなく。
女性が、華開き、美しくなった、という時代なのだろう。
女性の時代。
女性が、美しくなった時代。
平成という牝馬の時代の転換点となったのが、どこか女性的な札幌の夏だったということが、感慨深い。
短く濃密で、儚くも美しい、札幌の夏。
その夏を彩る札幌記念が、今年もやってくる。
写真:かず、Horse Memorys