![[きさらぎ賞]ハクタイセイ、シンホリスキー、ネオユニヴァース。道悪をものともせずきさらぎ賞を制した馬たち](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2022/04/img_4788.jpg)
スペシャルウィークやナリタトップロード、サトノダイヤモンドなど、後のクラシックホースが初めてタイトルを獲得した舞台、きさらぎ賞。例年、出走頭数は少ないながらも将来有望な素質馬たちが出走し、レベルの高い戦いが繰り広げられている。
一方、この時期、気にかけたいのが天候で、きさらぎ賞当日の予想最高気温はなんと4度。今季最強クラスの寒波が再びやってくるとの情報もあり、馬場が悪化する可能性も十分に考えられる。
そこで、グレード制が導入された1984年以降のきさらぎ賞を調べると、重もしくは不良で開催されたのは計5回だった。陣営からすれば、この先に控える大舞台へ向けなんとか賞金を加算したいという思惑がある一方、悪化した馬場でダメージが残るようなレースはしたくないという思いもあるだろう。それでも、過去に道悪のきさらぎ賞を制した馬は、その後の大舞台でもきっちりと結果を残してきた。
今回は、道悪をものともせずきさらぎ賞を制した馬たちを振り返っていきたい。
1990年 ハクタイセイ
国民的アイドルホースとして、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ名馬ハイセイコー。地方大井で6戦6勝の実績をひっさげて中央に移籍し、皐月賞と宝塚記念を制した現役時はもちろん、種牡馬としても多数の重賞ウイナーを送り出すなど成功を収め、三冠レース勝ち馬を3頭も輩出した。そのうちの一頭がハクタイセイである。
ハクタイセイがデビューしたのは2歳(当時の表記で3歳)夏、小倉芝1000mの新馬戦で結果は2着。その後も4、6、2着と勝ち切れないレースが続き、ようやく初勝利をあげたのはダート転向2戦目、キャリア通算5戦目で、お世辞にもこの時点で注目される存在とはいえなかった。
しかし、未勝利脱出に苦労していたのがまるで嘘のようにハクタイセイの快進撃はここから始まり、続く400万下(現2歳1勝クラス)を快勝すると、久々に芝のレースに臨んだシクラメンSも連勝。さらに、年明けの若駒Sも制するなどわずか3ヶ月で4連勝を達成し、満を持して重賞初挑戦の舞台となったのがきさらぎ賞だった。
グレード制導入以降、現時点では唯一の不良馬場、かつ唯一阪神でおこなわれたこの年のきさらぎ賞は、レース史上屈指の好メンバーが集結。前年のGⅠ阪神3歳S(現・阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は牡牝混合戦)を制したコガネタイフウを筆頭に、同2着で後にマイルCSを連覇するダイタクヘリオス、さらにナリタハヤブサや札幌3歳S(現、札幌2歳S)を勝ったインターボイジャーなどが顔を揃えたが、ファンは快進撃を続けるハクタイセイを1番人気に支持した。
ところが、スタート直前。左前肢の蹄鉄を落鉄していることが判明。一転、波乱の予感が漂うも、蹄鉄を打ち替えたハクタイセイは、まるで何事もなかったようにゲートを飛び出すと上手く流れに乗り、5番手を確保した。
ただ、1000m通過は1分0秒8と、不良馬場にしてはハイペース。さらに、中間点付近から2番手のダイタクヘリオスが仕掛けたことで、レースは終始落ち着かない展開となった。それでも、ハクタイセイはこの動きを前に見ながらコガネタイフウとともに徐々に進出開始。ダイタクヘリオスに次ぐ2番手で直線へと向いた。
直線に入ると、すぐにダイタクヘリオスを交わしたハクタイセイは、鞍上の須貝尚介騎手(現調教師)に導かれ、まだ状態がましな馬場の七分どころへ移動。そこから後続を引き離しにかかる。
追ってきたのはただ一頭コガネタイフウで、外から並びかけようと懸命に末脚を伸ばすも、ハクタイセイは最後まで馬体を併せることを許さず1馬身4分の1差をつけ先頭ゴールイン。厳しい展開をものともせず、さらにGⅠ馬の追撃を凌ぎ切るという価値ある内容で勝利したハクタイセイはついに連勝を5まで伸ばし、一躍クラシック候補に名を連ねたのである。
その後、当時としては異例ともいえるローテーションで皐月賞に直行したハクタイセイは、アイネスフウジンやメジロライアンらを抑えて優勝。怒涛の6連勝と父仔制覇を達成し、ハイセイコーが成し遂げられなかったダービー制覇(ハイセイコー産駒としては79年にカツラノハイセイコが勝利)と二冠達成を目指すも、今度はアイネスフウジンに雪辱を許し5着に敗れた。
そして、秋の大舞台を目指す過程で骨折と屈腱炎を相次いで発症すると、復帰戦になるはずだった翌年の安田記念の枠順確定後に繋靱帯炎が判明。やむなく出走取消となり、残念ながら引退となってしまった。
ただ、平成以降、2歳秋から皐月賞にかけて6連勝を達成した馬はほとんどおらず、また芦毛のハイセイコー産駒ということもあり、この世を去ってから10年以上が経過した今でも思い出深い一頭にあげられるハクタイセイ。彼の怒涛の快進撃が忘れ去られることはこの先もないだろう。
1991年 シンホリスキー
サンデーサイレンスの後継種牡馬の産駒が活躍するようになり、2008年以降なくなったのが父内国産馬、通称マル父(マルチチ)の表記。ハイセイコー産駒のハクタイセイもマル父だった。ただ、同馬が活躍した平成初期はまだ、ノーザンテーストやモガミなど輸入種牡馬の産駒が強い時代。そんな時代において、前年のハクタイセイに続きマル父として道悪のきさらぎ賞を制したのがシンホリスキーである。
馬名のとおり、82年の菊花賞をレコードで制したホリスキー産駒のシンホリスキーは、5戦目の未勝利戦(ダート1200m)で初勝利をあげたことや、須貝騎手と南井克巳騎手が手綱をとったことなど、奇しくもハクタイセイと似た経歴を辿る。
そして、そこから一気に600mの距離延長となった七草賞も5馬身差で圧勝し、芝に戻した若駒Sでトウカイテイオーの4着に敗れたあと臨んだのが、この年から1800mに短縮されたきさらぎ賞だった。
重馬場での開催となったこの年、1番人気に推されたのはGⅠ阪神3歳Sで2着に惜敗したニホンピロアンデス。これに、シクラメンSと若駒Sでトウカイテイオーの連続2着と惜敗したイイデサターンがほぼ同じオッズで続き、シンホリスキーは3番人気でスタートの時を迎えた。
レースは、メイショウララワンが出遅れる中、内から様子をうかがうニホンピロアンデスを制してシンホリスキーが先頭。2馬身ほどのリードをとった。一方、ニホンピロアンデスはチアズシンプウと並んで好位2番手に位置。対照的に、イイデサターンは後ろから2番手に控えていた。
その後、坂の下りでペースが上がり、ニホンピロアンデスに半馬身差まで迫られて迎えた直線。内回りとの合流点で一気に加速したシンホリスキーは、馬場状態が良い内ラチ沿いギリギリのところへ進路をとった。
すると、ニホンピロアンデスはこれについていくことができず、あっという間に独走態勢を構築。最後は後続にやや迫られたものの、大接戦の2着争いを尻目に悠々と先頭でゴール板を駆け抜け、見事、重賞初制覇を成し遂げたのだった。
南井騎手の類い希なる手腕に導かれ、父と同じ京都芝外回りコースで重賞制覇を成し遂げたシンホリスキーは、続くスプリングSも連勝。一躍、クラシック候補に名を連ねたものの、皐月賞とダービーはトウカイテイオーに及ばず15、19着と大敗。年末の六甲Sで5勝目をあげるもこれが平地競走における最後の勝利となり、2年以上勝ち星から遠ざかってしまう。
それでも6歳時に障害へ転向すると、初戦の未勝利戦を大差で圧勝し、続く中京障害S(春)も9馬身差でレコード勝ち。平地、障害両方の重賞を制した二刀流の名馬となり、引退後は乗馬として中京競馬場で活躍した。
2003年 ネオユニヴァース
きさらぎ賞をステップにビッグタイトルを獲得した馬は複数いるが、それらすべてがきさらぎ賞を勝利したわけではない。後に二冠を達成するメイショウサムソンや、史上7頭目のクラシック三冠馬オルフェーヴルは、このレースでそれぞれ2、3着と惜敗を喫していた。
一方、グレード制導入以降のきさらぎ賞勝ち馬で後にクラシックを複数制したのは、03年の覇者ネオユニヴァースだけである。
日本競馬に革命を起こした大種牡馬サンデーサイレンス産駒のネオユニヴァースは、栗東・瀬戸口勉厩舎からデビュー。福永祐一騎手(現調教師)を背に、11月京都の新馬戦で初陣を飾った。
続く2戦目は1ヶ月後の中京2歳S(当時は芝1800mのオープン)で、池添謙一騎手に乗り替わったここはタイム差なしの3着に惜敗するも、福永騎手に手が戻った年明けの白梅賞を快勝。そこから中3週で臨んだのがきさらぎ賞だった。
シンホリスキーが制したレース以来、12年ぶりの重馬場開催となったこのきさらぎ賞で人気を集めたのは2頭。新馬戦圧勝後のシンザン記念で2着に好走したマッキーマックスと、同レースを快勝したサイレントディールで、重賞初挑戦のネオユニヴァースはこれら2頭からやや離れた3番人気に甘んじていた。
レースは7枠の2頭、クワイエットデイとワンモアチャッターがスタートで立ち遅れる中、チキリテイオーが先手をとり、ブイロッキーとダイワブレスイングが続く展開。ネオユニヴァースはさらに2頭を挟んだ6番手に位置し、マッキーマックスがその直後、サイレントディールは後ろから3頭目に控えていた。1000m通過は1分1秒7と重馬場を考慮しても遅い流れの中、ネオユニヴァースは坂の下りを利して徐々にポジションを上げ、先団へ取り付いた。
ところが、4番手で迎えた直線入口。すぐ内にいた馬が外へと膨れ、その影響で自身も大きく外へ弾かれてしまう。
それでも福永騎手は落ち着いて体勢を立て直し、馬場の真ん中へ相棒を誘導すると、ネオユニヴァースもこれに反応。素晴らしい末脚を発揮してあっという間に前を捕らえると、最後は内から伸びるサイレントディール、外から追うマッキーマックスを引き連れるように1着でゴールイン。勝負所の不利を全く感じさせない圧巻の走りを披露し、初めてのタイトルを手中に収めてみせた。
その後、福永騎手が同厩の2歳GⅠ馬エイシンチャンプとクラシック路線を歩むことになったため、当時、短期免許で来日中のM・デムーロ騎手に乗り替わったネオユニヴァースは、スプリングS、皐月賞、ダービーと怒涛の5連勝。二冠を達成して世代の頂点に立つと、続けて宝塚記念にも出走し、古馬相手に4着と敗れるもたっぷりと見せ場を作った。
そして、神戸新聞杯、菊花賞、ジャパンCと勝ちきれないレースが続いたあと、4ヶ月ぶりに出走した4歳初戦の大阪杯を快勝。10ヶ月ぶりの勝利をあげ、ダービー以来のビッグタイトル奪取が期待された。

ところが、4歳4強対決で大いに注目された春の天皇賞で10着と敗れ、キャリア唯一の大敗を喫すると、宝塚記念に向けた調整過程で浅屈腱炎と骨折が判明。9月に引退と種牡馬入りが発表された。
予期せぬ怪我で引退を余儀なくされたため、二冠達成後はやや物足りない実績となってしまったネオユニヴァース。ただ、種牡馬になってからはいきなりエンジン全開で、毎年のように200頭以上に種付けをおこない、初年度産駒のアンライバルドとロジユニヴァースが、それぞれ皐月賞とダービーを制した。
さらに、2世代目のヴィクトワールピサが3歳で皐月賞と有馬記念を勝利すると、父と同じくM・デムーロ騎手を背に臨んだ翌年のドバイワールドCも、日本調教馬として初めて優勝。東日本大震災直後の日本列島に勇気と希望をもたらすなど活躍し、それ以外にも数多くの重賞ウイナーを世に送り出した。
写真:Horse Memorys
