天へと駆けていった戦友 - トウショウナイト

彼が走っていたのはもう15年以上も前だから、ずいぶんな昔話になってしまう。
トウショウナイト。
気が強くて、不器用で、難しくて、闘志に溢れた武士沢友治騎手の最愛の相棒である。

彼が天に召されたのは2008年。7歳の春。

大目標である天皇賞・春を4日後に控えた最終追い切り。武士沢騎手を背にした彼は、残り200m地点で右前脚に致命的な傷を負い、斃れた。予期せぬ突然の悲報を聞いた時、心臓がドクンと跳ね上がり、背筋に冷たいものが走り、大きな喪失感に襲われたことを覚えている。

彼が手にしたタイトルはたった一つ、2006年アルゼンチン共和国杯。それはトウショウナイトにとっても武士沢騎手にとっても、初めての、かけがえのない勝利だった。

このレースに辿り着くまで26戦。「武士沢騎手じゃ勝てない」なんて口さがない声が届いたことも一度や二度ではなかっただろう。それでも保田調教師は我慢強く、武士沢騎手を信じ、人馬が紡いだ絆を信じ、ナイトの強さを信じ、武士沢騎手にトウショウナイトの手綱を託し続けた。

悲願達成の日、東京競馬場は暖かい祝福の拍手に包まれた。

時が経ち、トウショウ牧場は解散し、今はもう殆ど見られなくなってしまったトウショウの馬たち。主流だった「海老,黄ダイヤモンド,紫袖」の勝負服とちょっと異なる「紫,白ダイヤモンド,海老袖」の勝負服は、彩りが乏しかったけれど、それが武骨なトウショウナイトにはぴったりだった。


2003年。夏。北海道。

デビュー6年目を迎えて漸く通算100勝を達成した武士沢騎手だったが、騎手としては決して目立つ立場ではなかった。

栗東所属の同期・武幸四郎騎手や秋山真一郎騎手は若くして次々と重賞タイトルを射止め、同じ美浦所属の勝浦正樹騎手はテレグノシスと巡り合って欧州へ飛び立っていた。

翻って自身は未だ重賞勝利はゼロ。後輩騎手が次々と台頭する中で、分かりやすい実績の無い中堅騎手に与えられるチャンスは多くない。自らの居場所を守るだけでも、きっと容易なものではなかったことだろう。

そんな武士沢騎手の目の前に、ティンバーカントリーを父に持つ2歳の栗毛馬。トウショウナイトが現れた。

晩年には500キロ近くまで成長するトウショウナイトも、この頃はまだ440キロと牡馬としては若干小柄な部類。骨格に見合った筋肉が付ききっていないひ弱な体つきで、決して目立つ存在ではなかったことは、7番人気に留まったデビュー戦の単勝オッズにも表れている。

それでも才能の片鱗は垣間見えるもの。武士沢騎手は初めて跨ったときから彼の素質と将来性に大きな期待を寄せたという。低評価を覆して芝1800mのデビュー戦を3着にまとめると、2週間後の未勝利戦では先行押し切りで初勝利を挙げた。

武士沢騎手とトウショウナイトの長い長い冒険物語が始まった。


早々に初勝利を挙げたトウショウナイトは、いちょうステークスと芙蓉ステークスの2つのオープン特別で掲示板に載り、重賞にも挑戦した。翌3歳シーズンは北海道にも転戦し、勝利は遠かったけれど、少しずつ馬体を増やしながら、一戦一戦を戦っていった。

血統も、厩舎も、鞍上も、決して華美ではない数多居る1勝馬。表街道でスポットライトを浴びる同期のヒーローと比べると無名の存在だったかもしれないけれど、ゆっくりと、彼らのペースで地道にコツコツと、キャリアを重ねていった。

3歳秋。デビュー11戦目にして初めて芝2000mを超えるレースに臨んだトウショウナイトは、これまでのもどかしさが嘘のような快走で2勝目を挙げた。

次戦に選んだ有馬記念デーのテンポイントメモリアル・芝2500mを3馬身半差で圧勝すると、年明けの迎春ステークス・芝2500mも制して3連勝。2か月に満たない期間であっという間にオープンクラスまで駆け上がる。

勢いそのままに挑んだ京都記念と日経賞を連続2着にまとめ、その牙が重賞にも届きうることを示した。

G1初挑戦となった2004年の天皇賞・春。

アンカツの魔法の魔法のような手綱捌きに導かれたスズカマンボから遅れること1馬身半。トウショウナイトはビッグゴールド、そしてアイポッパーと鼻面を並べてゴールテープを切った。4着という着順は、傍目には大健闘の、当人たちにとっては悔しい悔しい結果だったかもしれない。けれど、武士沢騎手にとってもトウショウナイトにとっても、半年までは夢のまた夢だったG1が決して遠い存在ではないことを証明して見せた。

ステイヤーが正当に評価されづらい時代ではあったが、トウショウナイトは長距離路線のトップホースの一角にまでたどり着いた。「未完の大器、遂に素質開花!」なんて派手な見出しでフォーカスされることは無かったけれど、芝の長丁場での彼の実力は疑いなし。彼自身の実力で輝ける場所を掴み取った。


1年半後、秋の府中。アルゼンチン共和国杯。

天皇賞・春のあと、トウショウナイトは10戦を走り抜いて未だ無冠だった。

この間、骨折による離脱もあった。決して得意とはいえない2000m戦にも挑んだ。一度は藤田伸二騎手に手綱を渡した。しかし重賞タイトルには手が届かなかった。

決して力が衰えているわけではない。札幌日経オープンではシンガポールで悲願のG1制覇を成し遂げたばかりのコスモバルクを下し、タイトルに相応しい力量を備えていることを改めて示していた。

競走馬の旬は長くはない。トウショウナイトを取り巻く様々な声もきっとあっただろう。それでも保田調教師は一戦毎に馬を整え、武士沢騎手は考えを巡らせてレースに挑み続けた。

トウショウナイトの前に立ちはだかる最大のライバルはアイポッパーだった。

アイポッパーは前年秋に日本調教馬として初めての海外遠征を敢行。直前の散水に泣かされたメルボルンカップでは思うような結果を得られなかったが、コーフィールドカップではG1ホースのマミファイを競り落とし勝ち馬レイリングスからハナ差2着と奮闘していた。翌年以降、連綿と続いていくこととなる豪州遠征の先駆者とした蹄跡を刻んだ。

帰国後は英雄・ディープインパクトの前に苦杯を舐め続け、目黒記念では軽ハンデのポップロックをあと一歩まで追い詰めるも2着。彼自身もまた、G1級の実力を持ちながらも未だ無冠だった。

トウショウナイトはアイポッパーと3度刃を交えてきた。

初対戦となった前年の天皇賞・春、2度目の対戦となった同年の目黒記念では後れを取ったが、前走の京都大賞典ではアイポッパーのホームグラウンドとも言うべき淀に乗り込んで先着。対戦成績は1勝2敗。同じ路線を歩く仲間であり好敵手だった。

両馬に課されたハンデはアイポッパーが58キロ、トウショウナイトが57.5キロ。

重賞未勝利ながら、重賞馬ウインジェネラーレの57キロを上回るハンデを課されていたのも実力を誰もが認めていた証。重賞タイトルがどうしても欲しい2頭の争いが、西日差す秋の府中で幕を開けた。

ゲートが開くと武士沢騎手はトウショウナイトを促し、他馬の影響を受けない先行集団の外に導く。脚を余すような悔いは残したくない、相棒が一番走りやすい形を作りたい、そんな武士沢騎手の声が聞こえてくる立ち回りだった。

対するアイポッパーはゲートをゆっくり出して後方のインに控える。大きなハンデを背負う中で、横山典弘騎手は高い操縦性を持つアイポッパーの特性を活かし、ロスを減らしたレース運びで勝機を伺う。

50キロの軽ハンデを活かしたアドバンテージが少し後続を引き離す逃げを打ち、メジロコルセアやブリットレーンらこの路線の常連たちが実質的に馬群を引っ張る。トウショウナイトのすぐ横には隻眼のルーベンスメモリー。長丁場を得意とする馬たちの争いらしく、淡々と、道中は過ぎていく。

勝負処の4角。スタミナ自慢のトウショウナイトはギアを上げ、ブリットレーンとメジロコルセアを呑み込み、逃げるアドバンテージとの差を縮める。中団後方に控えるアイポッパーの前には未だ馬群が広がっており動けない。トウショウナイトとアイポッパーの差が広がる。

直線残り400メートルの地点でアドバンテージを捕まえ、トウショウナイトは夕日で真っ赤に染まる府中の直線で単独先頭に立つ。もう交わすべき他馬はいない。あとはただただ無心でゴールを目指すだけ。単騎、ヴィクトリーロードを駆け抜ける。

外から追いすがるのはウインジェネラーレ、グラスポジション、メジロトンキニーズ、ドラゴンキャプテン……だがいずれもトウショウナイトを脅かす脚は無い。武士沢騎手はゴールに向けて右鞭を振るい、手綱を押し込み、相棒を叱咤する。長い長い府中の直線も残り300mが過ぎ、残り200mが過ぎ、実況アナは「重賞制覇にあと一歩!」と勝勢を伝える。

後続を振り切ったかに見えた残り150m。僅かな進路を見つけて加速したアイポッパーが、進路を切り拓き、矢のように末脚を伸ばす。

急追するアイポッパー、踏ん張るトウショウナイト。その差が1馬身、半馬身とどんどん詰まる。脚勢は完全にアイポッパー。

ゴール寸前の最後の一瞬。最後の数完歩。トウショウナイトが死力を振り絞る。土俵際でもうひと伸び、アイポッパーに先んじようと食いしばる。アイポッパーはもうひと伸び、馬体を前に前にと伸ばす。ライバルとして切磋琢磨し、何度も競い合ってきた2頭の一騎打ち。両者にとって譲れない、初めての、遅すぎるくらいの重賞タイトルを巡る攻防。

秋が深まり、西日に照らされて影が一層長く伸びたかと錯覚するほど、そこからの数秒は長く、苛烈で、美しかった。


入線後、トウショウナイトを労うように、武士沢騎手は相棒の首筋を優しく愛撫した。勝利の栄冠を噛みしめるその表情は人馬共に誇らしげだった。

「馬に勝たせてもらった」武士沢騎手は相棒を称えた。この日、この栄光に辿り着くまでには、時には拙い運びもあったかもしれない、不運もあったかもしれない。武士沢騎手にしかわからない葛藤がきっとあったことだろう。

それでもトウショウナイトが踏ん張れたのは武士沢騎手がいたからこそ。トウショウナイトと武士沢騎手が積み重ねた時間の重さがあったからこそのようにも思える。

トントン拍子で成功を掴むのは一握りのトップホースのみ。殆どの馬は、あるいは殆どの人と同じように、回り道をして、迷い、悩みながら、それでも一歩ずつ前に進んでいく。

山あり谷あり、効率的に歩くことが全てじゃない。その道がいつも光射すわけじゃない。それでも寄り道したって最後は目的地に辿り着ける。

トウショウナイトと武士沢騎手の名コンビは、ファンに勇気を与えてくれた。

敗れたアイポッパーも唇を噛み続けた長い長い日々を力に変えて、次走ステイヤーズステークスでトウカイトリックを下して待望の重賞制覇を成し遂げた。翌春には阪神大賞典を連勝し、天皇賞・春の主役を務め、ステイヤーとしての高い資質を発揮し続けた。

無駄な経験なんて何一つない。敗れた日の思いも、苦しんだ思いもきっと糧になる。長丁場の中で、どこかで咲けばいい。そんなことを教えてくれた気がした。


翌年も、翌々年もトウショウナイトと武士沢騎手は走り続けた。

京都記念3着、日経賞2着、天皇賞・春5着、年が明けてアメリカジョッキーズクラブカップ2着、京都記念5着、日経賞2着。

勝利こそ得られなかったが、この路線に欠かせない存在として度々上位を賑わせた。豊富な経験に裏打ちされた地力と底力は健在。混戦模様も伝えられる3度目の天皇賞・春に向けた最終調整が始まった………


………あれから長い時が経った。

アルゼンチン共和国杯はあの当時以上に価値を高め、数多くの馬たちがこのレースをステップにジャパンカップをはじめとした大舞台を制した。レースの重要度はこの15年で飛躍的に高まっている。

綺羅星の如き勝ち馬の中で、トウショウナイトは決して突出した存在ではないだろう。

それでも私にとっては今も、アルゼンチン共和国杯のベストバウトはアイポッパーが競り合ったあの年だ。少し時代遅れの、愛さずにはいられないステイヤー2頭の競演は今も私の胸を熱くする。彼らのような存在が活躍できる舞台の重要性、2度の坂を上る東京芝2500mの魅力は、時が移ろうとも変わらない。


トウショウナイトとの冒険物語は突然、それも悲劇的な形で終幕を迎えてしまった。一番近い所で最愛の相棒を見送ることとなった武士沢騎手の胸中を軽々に推し測ることは、私には憚られる。

相棒を喪った後も、武士沢騎手は踏ん張り続けた。

悲劇の直後、プリンシパルステークスをベンチャーナインで制し、初めてのダービー騎乗を果たした。同年8月にはアルコセニョーラを駆り、単勝16番人気の低評価を覆して2度目の重賞制覇を果たした。

マルターズアポジー、サンマルデューク、キタサンミカヅキ……

武士沢騎手があの日以降に巡り合った相棒たちは、ひと癖、ふた癖ある難しい馬ばかりだ。どんな馬でも断らず、誠実に向き合い、矯正し、レースに向かう。「武士沢騎手に断られたら、もう乗ってくれる騎手はいない」とまで言われるほどの癖馬請負人。決して楽ではない道だが、成績には決して現れない技量と信頼と、そして人柄がにじみ出ている。

「負けるな。立ち上がれ。前を向け。あきらめるな」

武士沢騎手のかつての相棒は、今もきっと、雲の上からエールを送っている。

彼が居なくなっても、彼と積み重ねた時間は無くなるものではない。武士沢騎手を通じてトウショウナイトは今も生きていると、私は信じている。

写真:norauma

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