ジャックドール 桜舞台を駆け抜けた金色の春風

桜舞う仁川のコーナーを優駿が駆け抜ける、春一番の中距離G1、大阪杯。このレースで思い出に残る馬はと聞かれると、私はジャックドールを挙げる。

正直に告白すると、G1馬を贔屓しがちな私にとって、ジャックドールは贔屓馬というよりも強力なライバル枠の馬であった。G1馬の横から、彼はいつも一着をハイジャックしてゆく……言うなればレースジャッカーだった。

そんな彼の鮮やかな逃げに心を奪われていたファンの方が、たくさんいらっしゃったことも印象深い。今回は、目を奪われるような逃げで観客を虜にしたジャックドールについて綴ろうと思う。

怪物の血統

ジャックドールの父は、G1レースを六勝した名馬モーリス。グラスワンダー、スクリーンヒーローから繋がる稀代の名血統だ。多くの血統研究家が、この系統は晩成型であると言う。その言葉通り、ジャックドールも晩成型であった。未勝利戦の勝ち上がりは三歳の四月。クラシック戦線には間に合わなかった彼であるが、2021年の秋からの五連勝は目を見張る活躍ぶりだった。

尾花栗毛四白流星の馬体は、見惚れするほど素晴らしい。そんな彼の選んだ戦法は、グラスワンダー系としては意外な『逃げ』であった。時にジャックドールは『令和のサイレンススズカ』とも呼ばれたが、彼の逃げはひたすらに最速を狙う大逃げではない。キックバックが嫌だとか他馬が怖いといった気質ゆえの逃げでもない。正確なラップで逃げて相手の脚を消耗させ、二の足で差すという戦略的な逃げだった。

その逃げと力強いストライド走法を武器に、彼は様々な名馬たちの戴冠を阻んできた。そんな刺客のような活躍ぶりも、栗毛の怪物と呼ばれた曾祖父を思い出させる。

私がジャックドールの名をはじめて意識したのは、2022年金鯱賞であった。アカイイトの活躍を願っていたのだが、一着は見慣れない勝負服を着た藤岡佑介騎手。それが、ジャックドールだった。「やられた!」と臍を噛むしかなかった。

次は名牝ソダシの連覇がかかっていた2022年札幌記念。こちらも『令和のサイレンススズカ』と呼ばれることのあったパンサラッサに引っ張られる形で、伏兵ユニコーンライオン、好位にいたウインマリリンと共に、ジャックドールは先行する。そして、抜群のレースぶりで後続のペースを乱した末に、ジャックドールが一着をもぎ取った。

ソダシの晴れ舞台を夢見ていたのに、ゲートが開くと逃げ馬同士が火花を散らす展開に。「思ってたんと、違う」と、私はつぶやいた…。

──無情にも、競馬とはいつもそうだ。

なかなか見たい光景が見られない。けれどそれは、ジャックドール自身とファンにとっても同じだった。彼のG1挑戦も、険しい道のりであったのだ。

なにせ、彼の同期にはエフフォーリア、シャフリヤール、タイトルホルダーという錚々たるクラシック戴冠馬がいる。一つ下には至高の双璧ドウデュースとイクイノックス。牡馬に絞っても、彼はこれだけの優駿たちを相手に立ち回らなければならなかった。私はジャックドールの実力を知りつつも、このメンバーを相手にしてはG1戴冠の可能性は薄いと考えていた。

それでも、ジャックドールは熱心なファンから強く愛された。戦法は容赦ない彼であったが、日頃の暮らしぶりはどこか愛嬌があってかわいらしかった。SNSには、彼を題材にした美しいファンアートや写真がよくアップロードされて多くの『いいね』がつき、彼への応援の書き込みが日頃からあふれていた。そこに確かな愛を感じ、私の胸も熱くなったものだ。

世界を虜にした気高き貴公子

毎年、何かが起きそうな大阪杯。私は神様へのリクエストカード代わりに、馬券を買っているフシがある。この時もそうだった。二冠牝馬スターズオンアースの古馬G1戴冠を祈りつつ、ヒシイグアス、ジェラルディーナ、モズベッロという贔屓馬を相手に選び、ワイドの勝負に出た。それらに加えて、スターズオンアースとジャックドールのボックス馬単も添えた。なんだかんだ言っても、彼のG1勝利も一つの夢であったからである。

ゲートが開くと、やはり真っ先にジャックドールが飛び出してゆく。好スタートそのままに、彼が隊列のハナを切った。1000mの通過は58.9秒。観客から大きなざわめきが起こる。武豊騎手が宣言した通りのタイム、約59秒での通過を成功させたからだ。

四コーナーに入る時点で、後続の各馬はジャックドールのペースに呑まれてしまっていた。レースジャッカーの真骨頂だ。各々の騎手がすでに手綱を動かし鞭を入れる。いつも通りに正確な速度を刻み、勢いを保ったままの彼は武豊騎手のエスコート通り、仁川の坂を駆け上ってゆく。

けれどそうはさせんとばかりに、外から伏兵ダノンザキッド、そして一番人気の女傑スターズオンアースが追撃してきた。セイフティーリードとは呼べない近い距離へ、ライバルが迫る。捉えられた。そう思った。

──なのに、距離がそれ以上、縮まらない。

本当に不思議な直線だった。明らかにスターズオンアースは上がり最速を叩きだしているというのに、ジャックドールとの差が少しずつしか縮まらない。まるで『アキレスと亀のパラドクス』を現実に見ているような奇妙な感覚に襲われる。なぜなら、逃げ続けているジャックドールは心挫けることなく、未だ正確なラップで走っているからだ。

私は思わず心の中で問うた。

どうして、逃げ続けることができる。

君の一着を願う多くの夢に、背中を押されたとでもいうのか? 脈々と受け継がれた血が、そうさせるのか?

愛に溢れるファンの熱意と、血統ゆかりの『驚異の爆発力』が掛け合わさり、君へ逃げ切る力を与えたような気がした。練達の名騎手と呼吸を合わせ、ジャックドールは全力を振り絞ってゴールを目指す。その行く先を遮る者など、誰も居ない。

ジャックドールはその瞬間だけ、世界全てを我が物にした気がした。

ゴール板を駆け抜けた時、轟いた歓声で私は我に返った。あまりに美しい逃げ切り勝ちに、心を奪われていた。

芝の上で叶う夢はいつだって素晴らしい。

ジャックドールは仁川の桜舞台で逃走劇を演じ切り、G1という夢を獲ってヒーローへなってみせた。貴公子は誇り高き血統を、人々の夢に値する自身の価値を、その走りで証明してみせたのだ。

競馬から目を離せない理由はここにある。筋書きのないドラマの最中で、願いが現実に変わる時を自らの眼で見届けたいからだ。

ジャックドールへ託されたその願いを完璧な騎乗で現実に変えた武豊騎手の巧さに、ただ舌を巻くしかない。この勝利で、武豊騎手は当時のJRA最年長G1勝利という偉業を達成した。この名騎乗を、かつての宿敵グラスワンダーの子孫で成し遂げた事に、どこか宿命を感じる。

赤黒の勝負服に身を包んだ歴戦の勇士と、その輝かしい金色の馬体の組み合わせは、目に焼き付くほど、ただひたすらに美しかった。

カーテンコールは何度でも

けれども、華やかな主役が演じる劇にもいつか終幕の時はやってくる。二度目の天皇賞に挑戦した際、屈腱炎を発症したジャックドールは長い休養へと入った。そして、彼はそのまま現役を引退することとなる。

正直に言えば、彼の活躍をもっとたくさん観たかった。それこそ曾祖父グラスワンダーが怪我から復帰して『不死鳥』と呼ばれたように、彼もターフへ戻ってきてほしかった。けれども、G1馬となったジャックドールが無事、種牡馬という次のキャリアへと進むことが出来た事は喜ばしい。アメリカの血統が強くSS系のクロスも組める彼であれば、良縁にきっと恵まれるだろう。

ジャックドールの子たちが、逃走劇の続編を演じてくれることを私は願っている。その時には、彼らを精一杯応援したい。ジャックドールを模したぬいぐるみ『アイドルホース』を競馬場まで持参して。

さぁ、次なる大阪杯では、どんな波乱が待っているだろう。大阪杯を楽しみに待ちながら、心の中にはあの輝かしい馬体が思い浮かぶ。

仁川の桜舞台に舞い降りた、赤黒の勝負服を纏う騎手と四白流星の馬体という華やかな出で立ち。多くの人々を魅了した、気高きこがね色の貴公子。

その優駿の名は、ジャックドール。

いつか、金色の春風は次の世代となって、愛する人々が待つターフへときっと舞い戻ってくる。

写真:水面

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