夢のマッチレース - 1992年・京王杯オータムハンデ/トシグリーン

ダービー馬の仔がダービーを制する時代

歴代のリーディングサイアーを暇なときに眺めるのが好きだ。

その年その年の思い出と活躍馬をダブらせていくと、自分だけのyear albumが完成する。パソコンに向かって酒を飲みながらサイアーランキングを見ていると、懐かしい馬たちが昨日の事のように蘇る。

リーディングサイアーというものはいつの時代もトップの種牡馬の獲得賞金が2位にダブルスコアに近い差をつけ圧倒し、2位以下はその差が団子状態で続く傾向にあるように思う。それは今も昔も大きくは変わらないことだろう。ただ、昔と大きく異なっているのは、その上位を「日本の競馬場で走っていた種牡馬(内国産馬+外国産馬)」が独占しているということだ。

2021年の中央競馬のリーディングサイアーランキングを見ると、上位10頭のうち輸入種牡馬はヘニーヒューズの10位が最高で唯一のベスト10入り。遡って見てみても、2008年にサンデーサイレンスが首位の座を明け渡してから、2012年にディープインパクト時代を迎え現在に至るまで、内国産種牡馬全盛時代が続いている。

日本ダービーの出走馬を見ても、2022年出走の18頭中輸入種牡馬の仔は3頭(ドレフォン2頭、アメリカンペイトオット)、昨年2021年に至っては18頭中1頭(バゴ)という現状。まさに、ダービー馬の仔がダービー制覇、ダービーで涙をのんだ馬の仔がダービーを制するという、感動シーンを毎年生み出し、新しい競馬ファンの拡大につながる要因になっていると思う。

かつて自分が競馬場で見ていた馬の仔が故郷へ帰っていき、その子供と競馬場で再会するのは「競馬の醍醐味」のひとつ。自分が好きだった馬の仔を競馬場で見て競馬から離れられなくなってしまった……という連中を、何人も知っている。

今や日本のG1レースだけに留まらず、海外での活躍も感動シーンに拍車をかける。日本のG1馬の子供たちが海外のG1を制する時代となり、夢はどんどん広がっていく。

今から20年以上遡った1990年代の頃は、内国産種牡馬のリーディングサイアーなんて夢のまた夢だったように思う。

1980年代の種牡馬といえばノーザンテーストの一強時代。1982年にノーザンテーストがテスコボーイからリーディングサイアーの座を奪って以降、1992年まで通算10期(1989年はミルジョージ)チャンピオンサイアーとして君臨した。1990年代には1995年にサンデーサイレンスが頂点に。2007年までの13年間、漆黒の種牡馬がライバルたちを圧倒した。"点"で活躍馬を出す内国産種牡馬が居ても、なかなか"面"に広がらないのが実情。ましてや、内国産種牡馬の仔がG1級の重賞を制覇すると、ちょっとしたニュースにもなった。

今は死語の「マル父限定」という言葉。父内国産馬限定レースが設定されていて、重賞レースも愛知杯(2003年まで)や中日新聞杯(2007年まで)、カブトヤマ記念(2003年まで)と3レース施行されていた。今ならそれは年度代表馬と同じになってしまうが、当時はJRA賞に「最優秀父内国産馬」という部門があるくらい、父内国産馬を優遇しなければならない時代だった。

1992年第37回京王杯オータムハンデ

 秋競馬開幕週の第37回京王杯オータムハンデ(現・京成杯オータムハンデ)が施行された1992年。

重賞といえば輸入種牡馬の産駒が中心というこの時代にして、このレースは13頭中過半数の7頭が国内で出走した種牡馬の産駒というメンバー構成になっていた。リーディング上位のトウショウボーイ、アンバーシャダイ、サクラユタカオー産駒に混じって、個人的に思い入れの強い種牡馬の仔が2頭がいた。トシグリーンの父グリーングラスと、ハギノスイセイの父ハギノカムイオー。

グリーングラス

トウショウボーイ、テンポイントとTTG時代を築いた「第三の男」。菊花賞で骨折明けのテンポイントが直線先頭に立った内側から抜け出して、その名を知らしめた。この時代のヒール役的なポジションとも言える。翌年、3頭が揃った宝塚記念、有馬記念は2頭の後に続く3着に甘んじる。トウショウボーイが引退し、テンポイントが亡くなった翌年6歳(現5歳)時には春の天皇賞、7歳(現6歳)時には有馬記念を制覇し、G1レース3勝のキャリアで引退した。

種牡馬になってからはトウショウボーイの活躍を横目で見ながら低空飛行。3年目の1985年にはリワードウイングがエリザベス女王杯を制覇し中央競馬のサイアーランキングで33位となったが、以降は低迷し、前年の1991年には67位まで落ち込んでいた。

現役時代の「推し馬」で、引退したグリーングラスを追いかけ、大学時代に何回も門別種馬場へ通った。いつも馬房の前で見せていただき、何時間も彼と向き合っていたことが思い出される。

ハギノカムイオー

1979年の静内でのセリ市で、当時の史上最高価格となる1億8500万で落札された「黄金の馬」。母はイットー、父は当時リーディングサイアーのテスコボーイという血統を持つ。姉が桜花賞馬ハギノトップレディという、デビュー前から注目された超良血馬。落札後のマスコミ報道もスポーツニュースとして扱われ、新馬戦を勝った翌日のスポーツ新聞の1面に「カムイオー」の文字が躍っていたのを今でも鮮明に覚えている。

ハギノカムイオーはハイセイコーやテンポイントとは異なる話題性で、世間一般に知られることとなった。

デビューからスプリングステークスまで3連勝、秋は神戸新聞杯・京都新聞杯のトライアルを連勝するものの、皐月賞・菊花賞ともハイペースの逃げで失速。翌年5歳時(現4歳)はスワンステークス逃げ切りから宝塚記念を日本レコードで優勝し、当時2000mで7月に施行されていた高松宮杯(現高松宮記念)も逃げ切り重賞3連勝を果たす。秋のジャパンカップ、有馬記念は暴走ともいえる逃げを打って馬群に沈み、その年の暮れに引退した。

鳴り物入りで種牡馬となったものの、産駒の戦績は著しくなく、目立った活躍馬も出ないままサイアーランキングを年々後退させていった。

2000年に種牡馬を引退し、三石の本桐牧場に功労馬として繋養されてからは何回か見学させていただいている。その姿の隅々に老いを忍ばせながらも、「黄金の馬」としての気品とオーラは失せることなく静かに佇んでいる。いつも放牧地の端まで近づいて来てくれて、至福の時間を過ごさせてくれた。

前走・関屋記念2着から転戦してきたアンバーシャダイ産駒ビーバップ、スプリント・マイル路線に照準を絞り秋初戦にここを選んだサクラユタカオー産駒サクラバクシンオーを抑えて、1番人気になったのは何とハギノカムイオーの仔ハギノスイセイ。彼の産駒はここまで重賞制覇は無い。ハギノスイセイは前走新潟の加治川ステークス(1400m)で逃げて9馬身差、1分20秒8のレコード勝ち。1200~1400mの距離で頭角をあらわし始め、今回ハギノカムイオー産駒の初重賞制覇チャンスが訪れた。

一方のグリーングラス産駒トシグリーンは下位人気。菊花賞・春の天皇賞を制覇しているグリーングラスに、マイルのイメージは無い。ましてやこれまでの3勝はすべて関西圏でマークしているだけに関東での評価が低くなるのは必然とも言えた。

秋シーズン初めの中山の重賞レースで、グリーングラスやハギノカムイオーの名前が同じ出走表内に刻まれるのは夢のような構成に見える。しかも2頭とも現役時代の「推し馬」、土曜日の東スポは最高の酒の肴となった。

夢のマッチレース

 秋の中山開幕週の日曜日、開門前の地下通路全体にワクワク感がにじみ出ている。新聞を見る人、仲間と談笑する人、季節が夏から秋に移る中山開催を待ちわびた人たちが一斉にスタンドへ向かう。

そろそろお尻に火が付き始める4歳未勝利戦が第1レース。

「今日はマル父馬の単勝を買い続ける!」と宣言して買った4番人気のハイセイコーの牝馬ドウカンユーが14.4倍の的中。2レース以降も4,8,9レースで内国産種牡馬の産駒が勝利し、美味しい単勝的中と馬連も堅めに推移したため、9レースまでに的中馬券の貯金ができた。

10レースをパスして、パドックで待機。9月とはいえ、夏の名残の陽射しをを受けながらメインレースの出走馬たちの周回を待つ。

最初に出てきたのは1枠1番のトシグリーン。前走よりマイナス6キロ、馬体も絞れ毛艶が良く黒光りして見える。1頭置いて登場したのがハギノスイセイ。逃げ馬らしくチャカチャカしながら周回しているもしっかりとした足取りだった。サクラバクシンオーはトシグリーンと馬体重が変わらないのに大きく見せ、春先と体重が変わっていないのに夏を越して逞しく感じられる

スプライトパッサー、ビーバップ、レオプラザ……。どの馬も、なかなか良く見える。

「止まれ~」

騎乗合図がかかり、騎手たちが騎乗馬に散っていく。トシグリーンとハギノスイセイ、視界にはこの2頭以外入ってこない。上村騎手が騎乗すると体全体が締まったようにトシグリーン自身で気合を付けたようになった。逆にハギノスイセイは須貝騎手を背に落ち着いたように見える。

馬道へ消えていく各馬を見送ってから、同行の仲間たちと馬券検討。よく見えたトシグリーンは10番人気。他の誰も目に入ってないように見えた。ハギノスイセイは人気でも1600mに対する疑念がチラホラ……。仲間たちは岡部騎乗のビーバップ、成長が見られるサクラバクシンオーを馬券の軸にしている。

自分はといえば、ここまでプラスで推移していることもあり、迷いながらも初心貫徹。「今日のマル父馬単勝馬券」はトシグリーンとハギノスイセイに各1000円、馬連は2頭のワンツーの夢馬券1本勝負、1-3を3000円ほど購入した。

「馬連で30倍。まあ難しいだろうけど、決まれば凄いだろうな~」

的中させたいというよりも、グリーングラスとハギノカムイオーの好きな馬たちによる「夢のメインレース」への観戦料みたいな気分で5000円を投入した。

中山のマイルスタートはスタンドからは見えない。ターフビジョンにスタート前の各馬が映し出され、スターターの歩き出す姿がズームアップされる。

スムーズなゲートインから各馬一斉に奇麗なスタート。まずキングオブトラックとハギノスイセイが飛び出し、サクラバクシンオーがそこに絡もうとする。第2コーナーから向正面に入ったところで、赤い帽子のハギノスイセイがあっという間に先頭に立ち、差を広げ始める。

追うサクラバクシンオーの後ろでレオプラザが引っ掛かり、白い帽子のトシグリーンは内で脚を貯めているように見える。人気のビーバップはスプライトパッサーと共に後方から追走。

ハギノスイセイは父を彷彿させる逃げっぷりで5馬身、6馬身と差を広げる。前半800mを45秒台で通過。2番手のキングオブトラック、3番手のサクラバクシンオーは一塊の馬群からは抜け出しているものの、ハギノスイセイのスピードに付いていけない様子だった。

4コーナー手前での差は8馬身、まだまだ貯金のある走りでハギノスイセイが直線に入る。キングオブトラックが後退し、サクラバクシンオーが伸びてきた直線の坂。やや脚色が鈍りだしたハギノスイセイにガス欠になった父ハギノカムイオーの姿が重なる。

残り200m、「そのまま!」と叫びながらもう一頭のトシグリーンを探すが追走馬群の一塊の中。坂を上り切って外から伸びてきたのがスプライトパッサー、その内をサクラバクシンオー。何とかハギノスイセイが粘ったと思ったその時、バクシンオーの内を通って白い帽子が伸びてくる。

それは、一瞬の出来事。ハギノスイセイ1着、サクラバクシンオー2着で決まったと思った瞬間、バクシンオーから脱皮したかのように黒っぽい馬体が飛び出し、そのまま先頭のハギノスイセイを飲み込んだ。

「トシグリーンだ! トシグリーンだ~」

実況の声と共にゴール前でハギノスイセイを捕らえたトシグリーン。スローモーションを見るような夢心地でトシグリーンが先頭ゴールするのを確認した。

単勝2450円(10番人気)馬連3160円(14番人気)。10万円を超える払い戻しを受け、最終レースが終わってもレースの興奮が覚めぬまま、スタンド内モニターのレースリプレイを見ていた。

グリーングラスとハギノカムイオーの二世たちによるワン・ツー。決してスポットが当たっている恵まれた種牡馬ではない2頭、そして現役時代大好きだった2頭の子たちが主役になった第37回京王杯オータムハンデ。

今後、酒の席で何回このレースの事を語るかな……と思いながら船橋法典駅へ向かう地下道を歩いた。

夢のあとさき

トシグリーンはその後谷川岳ステークス、CBC賞の2勝を挙げ7歳(現6歳)で引退。ハギノスイセイは京王杯オータムハンデの後、13戦消化したものの馬券圏内に入ることなくその名を抹消された。

──2頭にとって、あのレースはなんだったのだろうか?

2頭が見せてくれた最後の直線は、それまでの競馬愛が凝縮された人生最高の「夢のマッチレース」だったのかも知れない。

直線脚が上がりバタつきながらも粘ろうとするハギノスイセイの姿は、父ハギノカムイオーの二枚腰そのもの。忍者のようにスルスルと内から忍び寄る菊花賞を、グリーングラスは息子トシグリーンで再現してくれた。

1992年初秋の中山競馬場。馬券で競馬を見ず、純粋に馬を応援していた頃の気持ちに帰してくれた「夢のマッチレース」。

一生忘れることのない大切な思い出として、今でもしっかりと残っている。

写真:I.natsume

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