過去に中央競馬で記録された芝2400mのレコードタイムで、見る者に大きな衝撃を与えたタイムがいくつかある。1989年、ホーリックスが記録した2.22.2。その16年後、永遠に破られないと思われたそのタイムをアルカセットが0秒1更新した2.22.1。そして、まだ記憶にも新しい2018年、その年の三冠牝馬アーモンドアイがアルカセットのタイムをなんと1秒5も更新した2.20.6。これら3つのタイムは、いずれもジャパンカップで記録されたものである。
しかし、これらのタイムにも決して劣らないほどの衝撃を与えた、もう一つのレコードタイムがあった。
2.22.7。1993年の京都大賞典でマークされたタイムである。
一見すると先に記した3つと比べると最も遅いタイムではあるが、それらはいずれも東京競馬場のGⅠで記録されたものである。対して、この京都大賞典でマークされたタイムは秋のGⅠの前哨戦、しかも10頭立てという少頭数でマークされたものである。
あれから、幾年もの月日が流れた。しかし、その記憶と衝撃は未だ決して色あせることはない。むしろ、いくつかの後日談やエピソードを含めてそのタイムの価値を再考すれば、その記憶と衝撃は色あせるどころかますます鮮やかになり、いっそう輝きを増すのである。
この1993年の京都大賞典は10頭立てではあったが、少数精鋭というに十分なメンバーだった。断然の1番人気に推されたのは、当時の現役最強馬の一頭に挙げられていた6歳馬(当時の表記で7歳)メジロマックイーン。3歳春のクラシックとは無縁だったものの、夏の上がり馬として挑んだ菊花賞では、同じオーナーのメジロライアンをはじめとするライバルを破り、兄メジロデュレンとの兄弟制覇を達成した。さらに、その翌年から天皇賞春を二連覇し最強ステイヤーの地位を確固たるものにした。
その天皇賞春から1年近くの休養を経て迎えたこの年の春シーズンは、まず前哨戦の大阪杯を5馬身差のレコードで制し順調に始動するが、史上初の三連覇を目指した天皇賞春ではライスシャワーに敗れ惜しくも偉業達成ならず。しかし、続く宝塚記念を快勝して4つ目のGⅠを制覇しここに臨んできていた。
対して、2番人気に推されたのはレガシーワールド。せん馬という境遇ゆえ、同厩のミホノブルボンとは対照的にクラシックとは無縁だったものの、前年のセントライト記念を逃げ切って重賞初制覇を達成すると、年末の有馬記念と続くアメリカジョッキークラブカップを連続して2着。その後、骨折が判明して休養し、ここが復帰初戦となっていた。
そして3番人気に続いたのがもう一頭の“メジロ”、メジロパーマーである。メジロマックイーン・メジロライアンと同期のこの馬が本格化したのは、前年の5歳シーズンだった。新潟大賞典を逃げ切り2度目の重賞制覇を達成すると、続く宝塚記念も逃げ切って一気に春のグランプリ王者に駆け上がる。その後、秋2戦惨敗から挑んだ有馬記念では16頭中15番人気とすっかり人気を落としてしまうが、ダイタクヘリオスとの玉砕覚悟の大逃げからあれよあれよと粘り込み、最後はレガシーワールドの猛烈な追込みをハナ差しのぎきって優勝。春秋グランプリ制覇という快挙を達成したのである。4歳時には障害戦に出走して勝利したこともある、まさにたたき上げの野武士のような馬だった。
それ以外にも、前年の京都大賞典をレコードで制し宝塚記念でメジロマックイーンの3着に入ったオースミロッチや、この年の高松宮杯(当時は2000mのGⅡ)で皐月賞馬ナリタタイシンを完封して逃げ切ったロンシャンボーイに、前年のアルゼンチン共和国杯を制したミナミノアカリ。さらには、重賞未勝利ながら2年前の皐月賞で2着となったシャコーグレイドなど、10頭中7頭が重賞勝ち馬というメンバーだったが、それでもファンはメジロマックイーンに絶大なる信頼を置き、最終的に単勝オッズは1.2倍となっていた。
さすが歴戦の古馬達といった具合であっという間にゲートインが完了し、目立った出遅れもなく10頭がスタートを切った。メジロパーマーが先手を切り、ロンシャンボーイ、レガシーワールドの順で続く隊列は大方の展開予想の通りだったが、メジロパーマーの逃げは長距離戦とは思えないほどのスピードで、テレビの画面越しでもその速さが伝わってくるほどだった。実際、最初の3ハロン通過が34秒3、そして前半1000mの通過はなんと58秒2という猛ラップだったのである。
通常、長距離戦をこのペースで飛ばせば、メジロパーマーの大逃げとなるはずだが、オースミロッチとメジロマックイーンまでの他の4頭が積極的にこれを追いかける展開となったため、向正面では前5頭がおよそ5馬身の差で隊列をなし、レース後半は差し・追込有利の展開、GⅠの前哨戦とは思えないようなバテ比べのサバイバルレースになることはほぼ間違いないように思われた。
しかし、前半そのような展開となっていたのにも関わらず、レースの中間点を過ぎても先行集団は落ち着くことなく、レースはますます目まぐるしく動いていく。まず、坂の上りで早くもロンシャンボーイとオースミロッチが仕掛けて先頭に立ち、その姿が映し出されると場内から歓声がドッとわく。メジロパーマーは、そのプレッシャーの前に戦意を喪失してしまったのか後退しはじめ、代わってメジロマックイーンとレガシーワールドの人気馬2頭が前を追う展開となった。
残り600m地点。今度はロンシャンボーイが脱落し、オースミロッチが先頭に立つがそれもつかの間。外からレガシーワールドとメジロマックイーンが一気に前に出てマッチレースの様相となり、後続を追走していた馬たちもようやくこの辺りで前との差を詰め始めた。
迎えた直線入口。このハイペースを先行集団で追走していたとは思えないほどの絶好の手応えでメジロマックイーンがレガシーワールドを交わして早くも先頭に立つ姿が映し出されると、さらなる大歓声が京都競馬場に響き渡った。そこから、後続との差をジリジリとではあるが確実に引き離し始めるメジロマックイーン。レガシーワールドも、9ヶ月の休み明けとは思えないほどの走りで、引き離されないよう必死で食らいつこうとする。3番手のオースミロッチがそれを追い、4番手以降は直線半ばで大きく引き離されてしまった。
ゴールまで残り200m地点を過ぎ、武騎手が一発、二発と左鞭を入れ、相棒もそれに応えるように最後の力を振り絞る。レガシーワールドも必死に抵抗するが、差は3馬身ほどに広がり、さすがに差すまでの脚はもう残っていそうにない。逆に、オースミロッチが2着争いに加わらんとその差をどんどん詰めてきた。結局、3馬身の差は最後までほぼ変わることなく、メジロマックイーンが1着でゴールイン。2着争いは、アタマ差だけレガシーワールドがオースミロッチを抑え、さらにそこから5馬身離された4着にはシャコーグレイドが入り、後続はばらばらの入線となった。
6歳秋を迎えたメジロマックイーンのただひたすら強すぎる姿は、見る者全てに衝撃と興奮と驚きを与えたが、電光掲示板に表示された勝ちタイムがさらにその衝撃を倍増させた。
レコード、2.22.7。
それは、前年の同じレースでオースミロッチがマークした2.24.6を1秒9も更新するコースレコードだった。4年前のジャパンカップで、ホーリックスがマークした世界レコードには0秒5及ばなかったものの、10頭立てのGⅠの前哨戦でこのとてつもないタイムである。これは、一見よくある開幕週の高速馬場による産物だったのではと勘繰りたくもなるが、当該週の他の芝のレースタイムを調べた結果、確かにこの週は水準よりも少し早めのタイムで決着しているレースが多かったものの、レコードが出たレースは記録されていなかった。
また、この京都大賞典の中身をさらに調べてみると、内容も実に濃いものだった。このレースの道中の1ハロンごとのラップタイムは、ほとんどの区間で11秒7~12秒2という長距離戦とは思えないような厳しいペースで推移している。最も遅かったラップに12秒8という区間があったものの、それはちょうど京都競馬場名物の坂の上りにあたる区間だった。そのような淀みない流れを終始先行し、直線入口で先頭に立って最後もほぼペースを落とさず押し切ったメジロマックイーンは、このレースで怪物級の強さをみせつけていたのだ。この前年、二度目の天皇賞春を制覇した時点で全盛期を迎えたと思われていたこの馬は、実はその後もさらなる進化を続け、この6歳秋に見せた姿こそがサラブレッドとしての真の完成形だったのではないだろうか。
しかし、運命とはなんと残酷なものだろう。最強馬として完成されたと思われたこの馬の姿をレースで見るのは、結果的にこれが最後となってしまったのだ。3週間後の本番、天皇賞秋を見据え調整されていたメジロマックイーンは、レース4日前に繋靱帯炎を発症。そのまま引退と種牡馬入りが発表されたのである。そして、その1ヶ月後のジャパンカップを京都大賞典で2着に下したレガシーワールドが優勝したことは、メジロマックイーンへの惜別をさらに増幅させる出来事だった。
初の10億円ホース、初の天皇賞親子三代制覇など数々の偉業を手土産に種牡馬入りしたメジロマックイーンは、その直仔からGⅠ馬を輩出することはできなかったものの、ステイゴールドとの間に母の父としてドリームジャーニー・オルフェーヴル兄弟やゴールドシップを輩出した。その組み合わせは黄金配合と呼ばれ、乗馬となっていたメジロマックイーン産駒の牝馬が繁殖入りするようなことも起きた。
また、18着に降着となってしまったものの、4歳の天皇賞秋で見せた重い馬場への適性や、オルフェーヴルの2年連続凱旋門賞2着という実績を見れば、現役時にメジロマックイーン自身が凱旋門賞へ挑戦していればと思いたくなるのも当然のことだろう。かつて、あるテレビ番組で主戦の武騎手も「本当に、一度この馬と凱旋門賞に行きたかった」と熱く語っていたのを見た記憶がある。
2011年の天皇賞春のCM。「絶対の強さは時に人を退屈させる」というフレーズと共に、1991年の天皇賞春を制したメジロマックイーンが紹介された。京都大賞典の後も現役を続けていたら。いや、その1週間前に行われた凱旋門賞に挑戦し、そのとき勝ったアーバンシーの前をメジロマックイーンが走っていたら──。
あれから何年もの時が流れた今でもあの強さを思い出し、そんなことばかり想像し続けているが、決して退屈することなどないのである。
写真:かずぅん