「東京優駿出走」の重さ
生涯ただ一度だけ出走することができる東京優駿の出走枠は「18」。
前年6月にスタートしたクラッシックロードを戦い抜き、ようやくスタートラインに立つことが出来るのが、18頭である。そこまでの過程には、『能力』だけでなく『運』も伴わないと辿り着くことができない。
「ダービーでビリの18着といっても、世代の中で18位なんだから、何も恥ずかしくないよね」
私は、友人が言ったこの言葉が大好きだ。
2016年のマカヒキが優勝した東京優駿で、17着から9秒離され、大差しんがりで入線したブレイブスマッシュ。レース後ターフビジョンに全着順が映し出されたとき、ブレイブスマッシュの『大差18着』に、場内の一部のファンから失笑が漏れた。その時に友人が言った言葉が、東京優駿18着の馬たちへの見方を変えた。今でも、18番目に完走した馬を見届けて、その年の東京優駿を完結させている。
そして、18着でゴール板を通過した彼の後ろには、出走できなかった何百頭、何千頭の同世代が続いてゴールしていると思いたい。
毎年、皐月賞が終了した翌週から『東京優駿出走の残り枠』を巡って、熾烈な戦いが始まる。18番目と19番目の紙一重の『天国と地獄』『歓喜と落胆』。様々なルートから、ボーダーライン上の馬たちが鎬を削るのが4月。
その頂点が、ダービートライアルのテレビ東京杯青葉賞だろう。東京優駿と同じコース、同じ距離で、出走権が得られる上位2枠を争う熾烈な戦い。
しかし一方で『青葉賞の優勝馬はダービー馬になれない』という不思議なジンクスがある。ここで繰り広げられる出走権争いで、精魂尽き果てるのだろうか。青葉賞で出走権を得た2着馬も含めて、1994年の第1回青葉賞以降2023年まで、東京優駿を制覇した馬は出ていない。それでも2着までに入れば東京優駿出走という生涯一度の夢が叶うことになる。
出走権を得るためのラストチャンスとして青葉賞に出走する馬たちにとって、最も辛いのが『青葉賞3着馬』であろう。ここで夢を閉ざされるため、2着と3着の差は、あまりにも大きく非情な着差となる。
東京優駿を前に繰り広げられる18席中2席を争う青葉賞。その2席を寸前で逃してしまった青葉賞3着馬で、忘れられない1頭の牡馬がいた。
是非とも東京優駿に出走させてあげたかったその馬を、この時期になると思い出す。
2013年クラッシック戦線の勢力図
2012年6月にスタートした『クラッシックロード2013』は、豪華メンバーが揃った豊作の年だったと思う。
6月の函館で後の皐月賞馬ロゴタイプが新馬勝ちすれば、8月札幌の新馬戦ではコディーノが『メチャメチャ強い…』と感嘆するような勝ち方を見せた。コディーノは、勢いそのままに札幌2歳ステークスも制覇する。更に秋初戦の東スポ杯2歳ステークスも楽勝し、コディーノがこの世代を牽引していくと多くのファンが思った。
暮れのG1朝日杯フューチュリティステークスに登場したコディーノ。単勝1.3倍の支持を受け、コディーノの”絶対”ムードが漂っていた。ところがコディーノは気持ちよく先行したロゴタイプを捕まえきれず、クビ差2着に敗れてしまう。
コディーノの”絶対”ムードに翳りが見えた翌々週、新しいクラッシックの星が登場する。10月の京都の新馬戦を快勝し京都2歳ステークス(当時オープン特別)も危なげなく連勝したエピファネイアである。彼は3戦目のラジオNIKKEI杯(G3)で、新馬→黄菊賞を連勝してきたキズナを3着に退けて3連勝を飾った。
朝日杯FS組のロゴタイプとコディーノ、ラジオNIKKEI杯組のエピファネイアとキズナ。
この4頭が中心となって翌年春のクラッシック戦線を回していくだろうと思われた。
ラストインパクトという馬
エピファネイアが京都2歳ステークスで2勝目を挙げた翌日。
ジャパンカップデーの裏開催、京都の新馬戦で一頭のディープインパクト産駒がデビューした。
母スペリオール、名はラストインパクト。ディープインパクトの牡馬としては、何となくレトロ感のある名前である。「トゥ」や「ヴェ」といった舌を噛みそうな発音や、スマホで意味を調べないと理解できないような名前でもない。『末脚の鋭い馬だろうか?』というような印象を持って、府中のモニターでレースを見ていた。そして川田騎手を背に、良血トゥザレジェンドと人気を分け合って臨んだ2000mの新馬戦は、楽に直線抜け出しての快勝。
派手な勝ち方でもなく、鋭いキレを見せたわけでもない。
それでも力で押し切った直線の走りに大物感を漂わせていた。
「好みのタイプのディープ産駒」
私の2013年クラッシックロードの『推し馬』として、ラストインパクトの名が刻まれた。
ラストインパクトの2戦目は、暮れの阪神開催のエリカ賞。
川田騎手から野元騎手に乗り替わり、逃げるマイネルマエストロを直線追いかけるも、届かずの2着。ただ敗れはしたものの、直線で確実に伸びてくる脚に楽しみが膨らむ。
年明け初戦に選んだレースはきさらぎ賞。ここで収得賞金を積み上げれば、クラッシック路線に充分間に合うタイミングである。何としても、コディーノやエピファネイアの背中をとらえて欲しいと思っていた。
ところが、きさらぎ賞に出走したライストインパクトは、案外な結果で終わってしまう。2番人気に支持されるも直線で伸びを欠き6着、人気薄の先行馬2頭がそのままフィニッシュした。経験不足が災いしたか、スピード不足か──いずれにせよ、ラストインパクトのクラッシック路線に黄信号が灯る。
何が何でも賞金を積み上げて路線に乗りたいラストインパクトは、4戦目にオープン特別のすみれステークスを選んだ。川田騎手を再び鞍上に迎え必勝を期して臨んだ一戦は、またしても詰めの段階でもたついてしまう。
レースはナリタパイレーツが緩い流れの中逃げる展開。行きたがるのを宥めながら追走するラストインパクトは二番手でレースを進めた。直線に向いてもその体制は変わらず、ラストインパクトがいつでも交わせるような手ごたえに見えた。ところが、200mのハロン棒を過ぎてもその差を詰められず、ナリタパイレーツの逃げ切りを許してしまったのである。
春クラシックに向けて、もう後がなくなりつつあったラストインパクト。エピファネイアたちの背中がどんどん遠ざかって行く。格上挑戦を諦めたラストインパクトは、500万下の大寒桜賞を選択し、確実に2勝目を狙いに行く作戦に切り替えた。
高松宮記念前日の中京競馬場。ここではさすがに力は違った。大寒桜賞で単勝1.5倍に支持されたラストインパクトは、直線抜け出したアウォーディーを余裕の脚色で追走し、ゴール前で差し切る。更に3着馬との差が7馬身と、強いラストインパクトが帰ってきた。私の推し馬は、デビューから5戦目にしてようやく2勝目を挙げた。
しかし、皐月賞出走への道はこの時点で既に閉ざされている。弥生賞ではコディーノ、エピファネイア、キズナの3強が激突。カミノタサハラが3強を抑えて優勝し、新たな皐月賞候補として名乗りを上げる。スプリングステークスは、朝日杯FS優勝馬ロゴタイプが貫禄の勝利を収め、皐月賞に向けた3歳牡馬の勢力図がほぼ固まった。
ダービーへのラストチャンス青葉賞
皐月賞を諦めたラストインパクトは、目標を東京優駿に切り替え、ダービートライアル・青葉賞に照準を定める。
府中の広い左回りなら、ラストインパクトの末脚が存分に発揮できるに違いない。大寒桜賞で見せたイキイキとした走りっぷりは、府中コースでこそ活きてくるはずだ。2400mの距離も絶対プラスに転じるだろう──。
私の青葉賞の直線シーンは、すでに頭の中で完成していた。
「最低でも2着、そしてダービー出走!」
想定メンバーも、そこまで強力な馬が出てくる様子は見られなかった。唯一気になったのは、武豊騎乗のキズナの存在。弥生賞5着で皐月賞を断念したキズナは、毎日杯を選択し3馬身差で楽勝していた。しかし、キズナが選んだ次走は青葉賞ではなく、翌週の京都新聞杯。
ここで私は『東京優駿の出走へ向けたラストインパクトの脅威は、すべて取り除かれた!」と思っていた。
ゴールデンウイークに突入した土曜日の府中競馬場。
フルゲートとなる18頭が、2枚のダービーチケットを目指して青葉賞に登場した。
1番人気は名門藤沢厩舎のレッドレイヴン。新馬→百日草特別連勝後、東スポ杯2歳ステークスでコディーノの2着になって以来の出走である。人気を背負っているものの、収得賞金も足りているのでそこまで仕上がってはいないはず。2勝している馬たちが2番人気のラストインパクトの後に続くが、突出した2勝馬は見当たらない。
スタートと同時にアウォーディーとアポロソニックが飛び出して1周目のゴール板を通過する。ラストインパクトは第2集団の内でじっとしている。2コーナーから向正面に入ると、隊列がばらけ、アポロソニックを先頭にそれぞれのポジションに収まった。ラストインパクトは5~6番手の内のまま。ターフビジョンに映し出された姿は、落ち着いているようにも見える。レッドレイヴンは中団より後ろ。ラストインパクトのすぐ前で気持ちよさそうに追走している馬はヒラボクディープだろうか──。
1000mを61秒台のペースで逃げるアポロソニックに、後続が差を詰め始める。3コーナーカーブから残り800mの時点で先頭集団が3頭になる頃、ラストインパクトは周囲を伺うように5番手の内を進んだ。
「直線で内に包まれるのでは…」
ラストインパクトは外に進路を取ることなく、内でじっとしている。
直線に入ると各馬の動きが激しくなる。3頭の先頭争いからアポロソニックが抜け出し、最内で先頭をキープ。その後ろからヒラボクディープが仕掛け、大外にはアウォーディーとレッドレイヴンが並走して追い上げようとしていた。
ラストインパクトは残り400mのハロン棒を過ぎると、ヒラボクディープの動きに合わせて追走を開始する。北村友一騎手はターゲットをヒラボクディープに絞ったのだろうか、ラストインパクトに一鞭入れて、ヒラボクディープの外へ進路変更する。
この、外へ進路変更するための「ひと手間」が、後に悔しい差になることは、ここではまだわからない。
一足早く抜け出し、先頭のアポロソニックを追う蛯名騎手とヒラボクディープ。内にいたラストインパクトが外に進路を変えたのを振り返って確認し、蛯名騎手は鞭を入れる。先頭との差が一気に縮まり、同時に外から迫るラストインパクトとの差も縮まってくる。
残り100m、3頭の鼻が揃い始める。
最内の勝浦騎手とアポロソニック、中の蛯名騎手、外の北村騎手。2枚の最終切符を巡って、必死の戦いが展開する。
ゴール手前では、外2頭の勢いが優勢に見える。
私のカメラに飛び込んでくるラストインパクトのシルエット。勝利を確信しながら、夢中でシャッターを押し続ける。最内のアポロソニックのポジションは、カメラのファインダーの中からは確認できない。
「ラストインパクト、勝った???」
カメラから目を離すと3頭が並んでゴール板を通過している。
「外のどっちだ…? 2着か?」
カメラを持つ私の左手が震えていた。
着順掲示板には5着まですべての着順に馬番が点灯していない。大丈夫、大丈夫と繰り返し念じて結果を待つ。
やがて、ターフビジョンにリプレイされたゴール前のデッドヒートを見て、私はしゃがみこんでしまった。
「内の馬が残っている…」
着順掲示板に点灯された2着『3』、3着『7』の馬番。その差は『クビ』。
私の前を通り過ぎたラストインパクトの漆黒の馬体はクビ差だけ届かず、夢舞台への切符は、目の前で消えていった。
『もしも』という仮説でレースを語ってはいけないと思う。勝者があれば必ず敗者が生まれる。
でも、レースリプレイを見た時、ゴール前のヒラボクディープと内のアポロソニックとの間には一頭分以上の隙間があった。ラストインパクトが直線で外へ進路変更をせず、そのまま内に突っ込んでいたら…。
2着と3着は入れ替わっていたかもしれない。
2013年の東京優駿は、直線でエピファネイアが抜け出したところを、外から武豊騎乗のキズナが最後に逆転して優勝した。
そして、ラストインパクトの追撃をクビ差凌いで出走したアポロソニックが、2頭に続いて3着で入線している。
東京優駿出走こそ『クビ差』で涙を飲んだラストインパクトだったが、その後の活躍は周知の通りである。
秋の菊花賞には出走することができて、エピファネイアの4着。
古馬になって小倉大賞典・京都大賞典・金鯱賞のと、3つの重賞制覇を成し遂げた。
そして、2015年秋。ジャパンカップの舞台で、直線内を突いて先頭に躍り出る。ゴール寸前で外から強襲したショウナンパンドラに逆転され、悔しい2着。
その着差は、奇しくも『クビ差』だった。
Photo by I.Natsume