エムアイブランのいる風景 - メイセイオペラ偉業達成の2着馬の蹄跡を振り返る

ここに一枚の写真がある。
日付は『2000年7月17日』とある。曇天の空の下で、一頭の葦毛馬が草を食んでいる。日高ののどかな初夏の風景だ。ピントも甘ければ構図もだらしない、素人が写したものとすぐにわかるその写真は、結婚して6年目、欲しかった子宝にやっと恵まれたぼくたち夫婦が、もうじき2歳を迎えようとする長男を連れて、日高地方に引退馬巡りの旅行と洒落込んだ時に写したものだ。

競馬を始めて5〜6年目になるだろうか。夫婦で馬名しりとりができるようになるほどに馬名も覚え、また競馬場でのリアル観戦の楽しみも知った。今でいう「推し馬」の数も、バリバリのオープン馬をはじめとして、下級条件馬のなかにも増えてきていた時期のことだった。写真の主はエムアイブラン。1999年に競走馬を引退して、2000年のシーズンから種牡馬として新冠町のCBスタッドに繋養されていた。ぼくの「推し馬」の一頭である。

エムアイブラン。父ブライアンズタイム、母ユキグニ。母の父はビワハヤヒデの父としても有名なシャルードの父でもあるカロ。1995年4月、4歳でのデビューから8歳6月の引退まで、中央・地方併せて54戦を戦い抜き、計12勝もの勝ち星を挙げたダートの鬼である。手元の写真の惚けた表情からはとても読み取れないが、ダートの重賞を4つも勝っている。GⅠ、フェブラリーステークス2着馬でもある。何度も言うが、ダートの鬼である。

エムアイブランは4歳の4月に遅いデビューを迎えた。河内洋騎手を鞍上に、京都競馬場のダート1400mに出走して、勝ち馬レガシーブリットの3着と好走した。続く2戦目をまたタニノタバスコの3着に好走したエムアイブランだったが、陣営は次のレースに中京競馬場の芝のレースを選択。父ブライアンズタイムは、現在でこそ産駒はダート寄りの傾向が大きいと思えるのだが、前年にナリタブライアンという怪物を輩出した旬の種牡馬であり、陣営も芝での適性を試してみたくなったのではないだろうか。芝1700mに北川和典騎手を鞍上にチャレンジしたエムアイブランであったが、結果は5着。芝適性の判断については、しばらく棚上げとなった。河内騎手に手が戻った次走、中京ダート1700mの未勝利戦で待望の初勝利。続いて北海道に遠征し、松永幹夫騎手に手が変わった函館競馬場のダート1700m、渡島特別を勝って500万条件を卒業した。ここで陣営は再び、芝適性を確かめる手に出る。函館競馬場、芝1800mのHTB杯。連勝中を好感したか4番人気に推されたエムアイブラン。しかし結果は10着。めげずに連闘で臨んだSTV杯。この秋の菊花賞でマヤノトップガンの2着するトウカイパレスの10着と完敗。芝適性についてはまたしても棚上げとなり、900万条件のままで栗東トレーニングセンターに帰還した。

その後、小池隆生騎手に乗り替わったダートの3戦を連続2着と好走してむかえた中京競馬場の矢作川特別で、角田晃一騎手に乗り替わって1番人気に推されたエムアイブランは、後方追走から向正面でまくりを見せて先団に取り付くと、直線でスリースポットを競り落として真っ先にゴールへ飛び込んだ。待望の準オープン昇級である。どのレース、いついかなるレースでもひたむきに走るエムアイブランに、徐々にではあるがファンも付き始めていた。昇級戦となる1996年を締めくくる阪神競馬場のサンタクロースハンデを8番人気ながら3着にまとめた後、陣営もファンも翌年の活躍に思いを馳せていた。

ところが、5歳になったエムアイブランを待ち受けていたのは、思っていたよりも高い準オープンの壁であった。年明け中2週で挑んだ雅ステークスを皮切りに、6着、4着、4着、4着。好走をするものの勝ちきれず、勝ち味に遅いという弱点を露呈してしまっていた。陣営も勝ちきれないエムアイブランに刺激を与えようとしたのか、鞍上を替えて臨んだりしたのだが、ついには奥の手の芝挑戦を打ち出した。京都競馬場の芝1800mの栗東ステークス。乗り慣れた小池騎手に手が戻っての格上挑戦のこのレース、陣営の意気込みをよそに結果は12番人気でオースミタイクーンの5着。掲示板は確保したものの、今後、芝路線を突き進むといった決め手には欠ける結果だった。しかし、エムアイブランは着実に実力をつけていたのもまた事実だった。自己条件に戻ってダートの下鴨ステークス、フィリピントロフィーを続けて2着。芝に戻っての関ヶ原ステークスは10着と大敗したものの、再びの格上挑戦である重賞のアンタレスステークスを7番人気で4着と好走して株を上げた。飛躍の時はすぐそこまで近づいていた。

夏開催──エムアイブランの姿は九州の小倉競馬場にあった。900万条件に降級したエムアイブランは天草特別に出走した。鞍上は小池騎手。重賞での好走を好感した競馬ファンから単勝オッズ1.6倍の1番人気に推されたエムアイブランはゲートを五分に出て道中は中段待機。3コーナー手前から徐々に進出して4コーナーでは先頭に立ち、2番人気のターボインパルスに1馬身3/4の差をつけて1着でゴールを駆け抜けた。待望の準オープン昇級だったが、力をつけてきた今のエムアイブランには通過点に過ぎなかった。中2週で挑んだ準オープンのハンデ戦・阿蘇ステークスでは秋華賞を目指す4歳牝馬のシルクフェニックスと人気を分け合ったが、最終的な単勝オッズは1.6倍とまたも1番人気となった。レースではシルクフェニックスとオーミグランジャーが先手争いを繰り広げる中、エムアイブランは8番手を追走。向正面で徐々に進出を開始して前の2頭を射程に入れる。4コーナーの立ち上がりでハンデ51キロのシルクフェニックスが軽ハンデを利して先頭に立つ。大外を57.5キロトップハンデのエムアイブラン。残り50m、ついにエムアイブランが先頭に並びかける。2枠の黒の貸服を乗せて葦毛の馬体が躍動する。ゴール。アタマの差エムアイブランが差していた。何度も跳ね返されてきた準オープンの壁であったが、この度は昇級初戦でクリア。晴れてオープン馬の称号を手に入れたのだった。

オープン馬となったエムアイブランだったが、次走は翌年の1月、京都競馬場の万葉ステークスとなっている。5か月の休養、しかも、この間に栗東の大沢真厩舎から伊藤修司厩舎へと転厩している。転厩に伴って新たに適性を見極めようと言うのか、またしても芝のレース、しかも新年の名物である芝3000mのハンデ戦・万葉ステークスを選んだのは何故なのだろうか。諸氏ご想像の通り、6歳最初のレースの結果は13着に終わっている。不思議なエピソードである。

いまだ試行錯誤の中にある陣営の心配をよそに、当のエムアイブランは一つの運命的な出会いを経験していた。続いて出走した京都競馬場のすばるステークスで、鞍上に武豊騎手を迎えたのである。

レース結果は7着と振るわなかったものの、両者ともに感じるものがあったのか、武騎手はエムアイブランの主戦騎手として幾多のレースを共に戦うことになってゆくのだった。武騎手との出会いを経てから徐々に成績も安定していき、5月の京都開催でのアンタレスステークスで重賞初制覇。これを皮切りにオープンの東海ステークスと灘ステークスを3連勝し、交流重賞である水沢のマーキュリーカップ、旭川のブリーダーズゴールドカップをそれぞれ3着、2着。続くオープンのながつきステークスを2着と、すっかり武騎手のダートでのお手馬としての地位を固めていったのだった。だが、陣営の迷走なのか挑戦なのか、はたまた馬主サイドの意向なのか『エムアイブランを芝へ』という力学が何度目かの働きを見せた。それが天皇賞秋への出走登録である。陣営の本気度も本物である。既に武騎手は先約としてエアグルーヴに騎乗することが決まっており、エムアイブランの鞍上にはかつての主戦である小池隆生騎手が選ばれた。対するはオークス馬エアグルーヴをはじめとして、前年のこのレースの覇者バブルガムフェロー、皐月賞馬ジェニュイン、のちの快速逃げ馬サイレンススズカ、のちにフェブラリーステークスを勝つグルメフロンティアなど、錚々たるメンバーが揃っている。16頭中の12番人気。それが、競馬ファンがエムアイブランに出した結論だった。芝での実績を考えると無理からぬことと思われる。しかし、出走する以上は負ける気でいる陣営などありはしないのもまた事実である。迎えたレースは、若きサイレンススズカの自爆的な大逃げに始まり、直線を向いて失速したサイレンススズカをバブルガムフェローとエアグルーヴが捕まえるとそのまま2頭のマッチレースとなった。ゴール前でクビの上げ下げになり、クビの差エアグルーヴがバブルガムフェローを競り負かして17年振りに牝馬の天皇賞馬に輝いた。終始レースの後方を進んだエムアイブランは最下位入線。このレースを最後に芝路線への挑戦はなくなった。果たして喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか。

ようやくダートに専念する立ち位置が定まったエムアイブラン。GⅡに昇格した東海ウィンターステークスに河内洋騎手と3着した後、年が明けて7歳となり、京都開催の平安ステークスを武騎手と挑んだ。ゲートでフサイチヒロシが30馬身ほど出遅れる中、エムアイブランと武騎手は中段後方を追走。向正面で徐々に位置を上げて4コーナーで好位に進出、直線で末脚を爆発させて前を行く各馬を飲み込む横綱相撲で1番人気に応える重賞2勝目を挙げた。平安ステークスを制すると、フェブラリーステークスへの道がひらけた。1998年2月1日、東京競馬場のGⅠの舞台にエムアイブランは立っていた。残念ながら武騎手はバトルラインとの先約で騎乗できなかったが、短期免許で来日中のオリビエ・ペリエ騎手を鞍上に迎えることとなった。

単勝1番人気はタイキシャーロックで3.5倍、2番人気はバトルラインで単勝4.9倍、エムアイブランはこれらに次ぐ3番人気で単勝オッズは5.5倍に支持されていた。ファンファーレが流れてゲートが開いた。中山金杯の勝ち馬グルメフロンティアが好スタートを切ったが、内枠からメイショウモトナリが先手を主張する。さらに外からウィンドフィールズが被せるように先頭に立った。1番人気タイキシャーロックは外を回しながら早めに好位に取りついた。エムアイブランとペリエ騎手はその後ろでタイキシャーロックをマークする。最後方を進むシャドウクリーク。16頭が一団となって3コーナーを回る。タイキシャーロックがウィンドフィールズを競り落として先頭に立って直線に向く。内内を回ったメイショウモトナリがするすると抜け出しを図る。好位勢からストーンステッパー、エムアイブラン。そのさらに外、馬場の中央をグルメフロンティアが一気に伸びて先頭を奪う。1馬身、2馬身。差が広がっていく。大外から最後方にいたシャドウクリークが末脚を炸裂して2番手を窺うも、それを尻目にグルメフロンティアは2着に4馬身の決定的な差をつけてゴールイン。2着はメイショウモトナリ、3着は大外強襲のシャドウクリークと人気薄が占めた。エムアイブランは直線伸びかけたものの6着に終わった。

ダートレースのオープン馬たちを俯瞰してみると、「馴染みのメンバーたちが鎬を削り合っている」ことに気づくだろう。ダートのレース体系が整ってきた現代においてもそうなのだから、ましてこの時代はその傾向が顕著だったと言っていい。好走はするが勝ち味に遅いエムアイブランも例外ではない。3月中山のマーチステークス、4月阪神のプロキオンステークスをそれぞれ2着、3着。5月京都のアンタレスステークスは9着と大敗したものの、5月東京の武蔵野ステークスを後方追走から直線末脚を炸裂させて、逃げ込みを図るナモンレグラスを差し切って勝利した。続いての舞台は地方交流重賞。6月大井の帝王賞では、4連勝中の大井の怪物アブクマポーロや、岩手の雄メイセイオペラが強敵だった。逃げの手に出たメイセイオペラを内から差し込んできたアブクマポーロが勝利。中段から好位に押し上げたエムアイブランは4着と好走した。休養を挟んで続く10月盛岡のマイルチャンピオンシップ南部杯は、今度は地の利を得たメイセイオペラが果敢にハナに立ち、後方から追い上げてきたアブクマポーロ以下を完封。エムアイブランは8着に完敗した。中央場所に戻っての11月のトパーズステークス、12月の東海TVウィンターステークスの2戦を安藤勝己騎手とのコンビで共に2着とまとめて、年末の交流重賞、東京大賞典に向かった。この年の12月、馬主の稲見豊氏から谷口貞保氏へのトレードが成立し、勝負服が変わったエムアイブランは、再び武豊騎手とのコンビが復活して地方馬2強に挑むこととなった。人気の上でも地方馬2頭が、4頭選ばれたJRA勢を抑えて上位を独占していた。レースはサントスが逃げる展開。2番人気のメイセイオペラは無理には行かず3番手。中段少し前を進む1番人気のアブクマポーロ。エムアイブランは後方外を追走する。グルメフロンティアが最後方。向正面でサントスのリードは10馬身に及び、場内が沸く。3コーナーから4コーナー。徐々に後方から馬群が先頭との距離を詰めてくる。直線。馬場の真ん中を進むメイセイオペラが、前に行く馬たちを競り落として先頭に立つ。その内を突いてアブクマポーロが伸びてきた。メイセイオペラを並ぶ間もなく交わし去る。一番人気に応えてのゴール。2着メイセイオペラ、3着は大井のコンサートボーイ。エムアイブランは上位に離された、しかしJRA勢最先着の4着に終わった。

明けて1999年、エムアイブランは8歳になった。もはやベテランの域には達したのだが、相変わらずの勝ち味に遅いキャラクターだった。年明け緒戦、前年に制している平安ステークスをオースミジェットの2着と取りこぼし、再びGⅠの舞台、東京競馬場のフェブラリーステークスを迎えるのだった。立ちはだかる地方馬2頭のうちアブクマポーロは川崎記念に回ったため、出走してきた倒すべき敵はメイセイオペラただ1頭となったが、迎え撃つJRA勢も、初ダートの桜花賞馬キョウエイマーチを筆頭に、タイキシャーロック、ワシントンカラー、オースミジェットといつもの多士済々。エムアイブランと武豊騎手にも初めての砂のGⅠ奪取のチャンスが巡ってきた。1番人気はワシントンカラーが選ばれて単勝オッズ4.5倍。差のない2番人気はメイセイオペラが推されて単勝オッズ4.7倍。エムアイブランは7番人気の単勝オッズ11.4倍、さすがに8歳馬となるとどこまで食い下がれるか…という見方が主流になるのだが。生涯2度目の関東のGⅠファンファーレに送られてゲートに入るエムアイブラン。大外10歳ドージマムテキが促されゲートに揃った16頭。

一斉にスタート。桜花賞馬キョウエイマーチがやはり早い。芝スタートを利して滑るように飛び出して行く。メイセイオペラは無理して競りかけて行かず5,6番手で。その後ろに1番人気のワシントンカラーとタイキシャーロック。後方にマチカネワラウカドとエムアイブラン。シャドウクリークと14歳のミスタートウジンが最後方。3コーナー。キョウエイマーチが快調に飛ばして行く。馬順に大きな変動がないまま大欅を通り過ぎる。4コーナーを回って直線。先頭はキョウエイマーチ。メイセイオペラ・菅原勲騎手の手が動き始める。最内を突いてワシントンカラーが伸びてくる。馬場の真ん中を通ってメイセイオペラが、キョウエイマーチを交わして一気に先頭に立つ。1馬身、2馬身。差を広げていく。さらに外を通って追いかけてくるタイキシャーロックと、それからエムアイブラン。最内のワシントンカラーは伸びない。エムアイブランの末脚がいいが、前にはちょっと届かない。セーフティーリードを保ったまま、メイセイオペラがゴールに飛び込んだ。菅原騎手のガッツポーズ。黄色の貸服が躍動する。初めて地方所属の馬が中央のGⅠを制覇した輝かしい瞬間であった。2着エムアイブラン、3着にはタイキシャーロックと8歳馬の2頭が入線していた。

最後の直線を目覚ましい末脚で伸びてきたものの、結局はメイセイオペラの引き立て役となってしまったエムアイブランであった。しかし、それはむしろ彼に似合いの役回りのようにも思える。菅原騎手の、メイセイオペラの、水沢の競馬人たちの悲願を叩き潰すには、彼のキャラクターは優しすぎたのではないか。1999年のフェブラリーステークスはメイセイオペラの偉業達成のレースであって、エムアイブランの2着のレースではなかった。それでよかったのだ、と彼は言うのかも知れない。葦毛の、ダート馬にしては小柄な馬体をさらに小さくしながら。GⅠ2着という勲章を胸に戦う方が彼らしいと言えばそうなのだろう。2月末の仁川ステークスを1番人気で7着と敗れたのち、3月の地方交流・名古屋大賞典を1番人気で5着。さすがに力が衰えたかと思われたが、続く5月東京の武蔵野ステークスを2番人気で1着。武蔵野ステークスは前年も勝っておりこれで連覇となった。続いてのレースは交流競走の大井の帝王賞。1番人気メイセイオペラがGⅠ勝ち馬の貫録を見せて圧勝する中、7番人気のエムアイブランは10着に敗退。これが彼にとって最後の競馬となった。


引退、そして種牡馬入り。重賞4勝のエムアイブランの馬生は穏やかな終末に向けてゆっくりと進んでいくものと思われた。ぼくたち一家がCBスタッドを訪れたとき、エムアイブランは一心に青草を食んでいたが、カメラを向けられると「ぼく?」と戸惑ったように顔を上げ、のそのそと近づいてきて素人カメラマンの被写体になってくれた。その時に写した下手な写真が『エムアイブランのいる風景』だった。穏やかで静かな時間がそこには流れていた。気が済むまで写真を撮り終わって辞するぼくたちを、エムアイブランは何か珍しいものでも見るかのように、放牧地の柵越しに見送ってくれていた。エムアイブランのいる風景、そしてそれを包む穏やかな時間は、しかし長くは続かなかった。2002年11月、早田牧場とその関連会社を襲った激震、札幌地裁から受けた破産宣告によって、優しい時間は終わりを告げた。CBスタッドはそこで繋養される種牡馬たちとともに優駿スタリオンステーションへと譲渡された。そして2005年、早田牧場代表の早田光一郎氏が横領容疑で逮捕された年の11月、エムアイブランは用途変更となり、以降の行方は分からない。

『エムアイブランのいる風景』が『エムアイブランのいない風景』になってしまった。詳細は不明だが、エムアイブランは重賞を4勝もしている馬であり、功労馬繋養支援事業の対象馬であるはずなのだが、彼には本制度は適用されていないようだ。種牡馬の世界は優勝劣敗の世界であり、産駒から活躍馬を出すことができなかったエムアイブランにとっては厳しい現実が待っていたのかもしれない。ただ、あの日CBスタッドで出会った人懐っこそうな表情を思い出すに、何とか無事を…と思うばかりである。俄かファンのセンチメンタリズムと嘲笑われるかもしれないが、それでもぼくはあのエムアイブランをあの風景の中に留めておきたかった。毎年6千頭余り生産されるサラブレッドの、ぼくらを楽しませてくれた彼らの行く末として、もっと何かできることがあるのではないかという思いを抱かざるを得ないのだ。今の制度に不満を訴えるのではない。より良い制度にアップデートすることができないか、競馬を楽しむすべてのファンの共通の課題として考えていけたらと思うのだ。あの写真の呑気なエムアイブランが、せめてその表情を曇らせることのないような日々を送ることができたらと願ってやまない今日この頃である。

あなたにおすすめの記事