座右の銘によく使われる「人間万事塞翁が馬」。
「淮南子(えなんじ)」という中国の哲学書に記された言葉で、「人生は予測できないものだ」というたとえである。これだけでは心を打つ言葉にはならないが、「良いことも悪いことも予期できないから、その出来事に振り回されてはいけない」、「悪いことが続いても今度は良い事があるかもしれないから落ち込む必要はない」といった意味合いに捉えて行けば、座右の銘に相応しい言葉になってくる。
馬たちの一生にも、「人間万事塞翁が馬」は当てはまる。良血で馬体も素晴らしく前評判が高い馬が必ずG1制覇することは無い。小さな牧場の生まれで、一流とは言えない父母の血を受け継いでも大活躍する馬が多く出現している。まさしく、「競走馬の蹄跡は予測できないものだ」という結論に達してしまう。
この言葉を耳にすると、私は真っ先に思い出す一頭の鹿毛馬がいる。「競走馬の蹄跡はデビュー前には予測できない」がそのまま当てはまる名馬、それがキタサンブラックだ。
2012年3月10日、日高町のヤナガワ牧場で生まれたキタサンブラック。父はディープインパクトの兄ブラックタイド、母シュガーハートの父はスプリンター名馬のサクラバクシンオーで、兄は後にオープンに昇格するものの、キタサンブラックのデビュー時は500万クラスだったショウナンバッハ。決して基幹中の基幹距離である2400mを狙えるような「期待馬」には見えなかった。
キタサンブラックは3歳になった1月にデビュー。3番人気で新馬戦勝利後、3歳500万下の平場戦では9番人気(14頭立て)での3馬身差勝利とデビュー2連勝を飾る。しかし、この時点では注目に値する期待馬ではないことは明らかだった。春のクラッシックロードに乗り、スプリングステークスでは超良血リアルスティール、ダノンプラチナらを倒して優勝し、皐月賞もドゥラメンテに迫る3着の成績を残した。それでも秋を迎えた初戦のセントライト記念は6番人気(1着)の低評価。ディープインパクトやキングカメハメハの仔ではないキタサンブラックには、その後菊花賞を制しても、天皇賞(春)に優勝しても1番人気の評価がもらえなかった。
それでも私は、キタサンブラックが大好きだった。
無名の高校が甲子園で名門校を倒して勝ち進む痛快感、「ブライトンの奇跡」と呼ばれた2015年第8回ラグビーワールドカップの対南アフリカ戦での歓喜。キタサンブラックには、それらに匹敵するような「意外性」で私を楽しませてくれた。
何よりも単勝オッズがセントライト記念で12.5倍(6番人気)、菊花賞で13.4倍(5番人気)という、ラストランの有馬記念の単勝オッズ1.9倍から比較して6倍以上の美味しさ。サラリーマン社会での「派閥の狭間」で、実力通りの評価をもらえない不条理さにもどことなく似ていて共感し、キタサンブラック支持層が着実に増えていく。この頃のキタサンブラックは、良血人気馬を敬遠する「ダークサイドに属する者たち」のスターだった。
キタサンブラックへの風向きが変わり始めたのは、主戦が武豊騎手に替わった頃から。
12戦目を迎える京都大賞典で、ようやく1番人気での勝利を飾ると、ラストランまでの8戦はほぼ1番人気(14戦目の有馬記念はサトノダイヤモンドと人気を分け合い0.1倍差の2番人気)で推移。ようやく実力に見合った人気を得るスーパーホースとして、その地位を築くこととなった。
2016年の有馬記念。ジャパンカップ優勝から転戦してきたキタサンブラックは、念願のG1制覇(菊花賞)を果たしたサトノダイヤモンドと激突。ファン投票で13万7千票を集め1位となったキタサンブラックは、王道の先行策からハナを奪おうとするが、マルターズアポジーの大逃げに遭い自分の形に持ち込めない。4コーナーを回ったところでゴールドアクターを競り潰すが、最後の最後でサトノダイヤモンドにクビ差逆転されてしまう。
敗れはしたものの、当日の中山競馬全レース終了後のイベントで、北島三郎オーナーが『まつり』を熱唱した。
「祭りだ、祭りだ、祭りだ、キタサン祭り~」「これが有馬の、祭りだよ~」
冬の夜空に北島オーナーの歌声が響き渡り、キタサンブラックが席巻した2016年を締めくくる。
キタサンブラックは年度代表馬にも選定され、名実ともに時代を築くスーパーホースとして認められた。
5歳になったキタサンブラックは、円熟味あるレース運びに磨きがかかった「王道のレースパターン」を確立させる。この年からG1昇格した大阪杯、史上4頭目となる天皇賞(春)の連覇と、敵無しの2連勝を飾る。
続く宝塚記念は1.4倍の単勝人気を背負いながら、直線に入るとずるずる失速して9着。武豊騎手も敗因が分からないとコメントしたように、謎の敗戦を喫した。この敗戦で、凱旋門賞挑戦の回避が発表される。「残念」の声が多く出た中、ホッとしていたのは、キタサンブラックをデビューから応援してきた「ダークサイドに属する者たち」かも知れない。力が有りながら人気薄で良血馬たちを倒してきた「我々のキタサンブラック」が、いつの間にか「みんなのキタサンブラック」になってしまった一抹の寂しさに加え、これ以上手の届かない彼方へ行って欲しくなかった。「世界のキタサンブラック」なんて望まない…。私も含めて、ラストシーズンとなる秋は、「国内で王道の走りを見届けたい」と思ったキタサンブラックファンが多かったはずだ。
最後の秋には再び「王道の走り」が復活し、秋の3走はその雄姿を目に焼き付けようと、多くのキタサンブラックファンが競馬場にやって来た。そして、「王道の走り」を堪能した…。
ラストランとなる有馬記念はスタートからゴールまで“キタサン劇場”。「我々のキタサンブラック」も「みんなのキタサンブラック」も満足する、「世界のキタサンブラック」の称号に価する引退レースだった。この勝利でJRA史上最多タイの中央競馬G1レース7勝目(当時)をマークすると、通算獲得賞金も18億7684万3000円となり、テイエムオペラオーを抜いて当時のJRA歴代1位となった。
有馬記念でのキタサンブラックの単勝オッズは1.9倍。デビュー2戦目、3歳500万以下の平場レースで優勝した時の単勝オッズが48.4倍。
この時、誰がG1レースを7勝もする名馬になると想像しただろうか。しかし、彼はG1レースで単勝1.9倍の支持を得る馬となって引退した。
「人間万事塞翁が馬」
キタサンブラックの「予測できなかった蹄跡」、夢とロマンを乗せたサクセスストーリーは、私たちの明日に元気を与えてくれる。そして諦めや開き直った心を、もう一度前に向け、優しく背中を押してくれるはずだ。
「悪いことが続いても、今度は良い事があるかもしれないから落ち込む必要はない」
キタサンブラックの蹄跡は、私の座右の銘である。
Photo by I.Natsume
書籍名 | キタサンブラック伝説 王道を駆け抜けたみんなの愛馬 |
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著者名 | 著・編:小川 隆行 著・編:ウマフリ |
発売日 | 2023年07月20日 |
価格 | 定価:1,430円(本体1,300円) |
ページ数 | 192ページ |
シリーズ | 星海社新書 |
内容紹介
最初はその凄さに誰も気がつかなかった!「みんなの愛馬」
「父ブラックタイド、母父サクラバクシンオーの年明けデビューの牡馬と聞いて、いったいどれだけの人が、シンボリルドルフやディープインパクトらに比肩する、G17勝を挙げる名馬になることを想像しただろう」(プロローグより)。その出自と血統から、最初はその凄さに誰も気がつかなかった。3歳クラシックと古馬王道路線を突き進むも、1番人気は遠かった。それでも一戦ごとに力をつけ、「逃げ・先行」の才能を開花させると、歴戦の戦士を思わせる姿はファンの心に染みわたっていった。そして迎えたラストラン、有馬記念を悠然と逃げ切ったハッピーエンディングな結末。みんなの愛馬となった感動の蹄跡がここに甦る!