マーベラスサンデー - 父の苦難をなぞるかのように苦闘を続けた末に輝いた栄光

木々の緑が碧さを増し、東京競馬での連続GⅠ 開催が終わると、少し間を空けて宝塚記念がやってくる。「有馬記念の関西版」や「初夏のグランプリ」とも呼ばれる宝塚記念は、有馬記念と同様にファン投票を実施し人気投票により出走が決定する競走。阪神競馬場芝2200mで争われる上半期の総決算のこのレースは、異なる二つの貌を持っていると言う人がいる。このレースは勝ち馬が二種類のケースに分けられるのだ、と。

ひとつめのケースは、実績派。既にいくつものGⅠを勝っている名馬が『ついでにもう一つ』と言わんばかりにひょい勝利するというケースである。メジロマックイーンやビワハヤヒデ、近年ではタイトルホルダーやイクイノックスなどが該当する。

もうひとつのケースは大器晩成派。人気実力とも備えておきながらGⅠ勝ちに恵まれなかった馬が、ここを唯一の舞台と定め狙い撃ちして初のそして唯一のGⅠタイトルを勝ち取るといったもの。メジロライアンやダンツフレーム、ナカヤマフェスタらもここに含めてもいいかもしれない。

知人からこの説を聞いた後、毎年、出走馬の中から後者に該当する馬を探し出すようになった。だからと言って的中が増えたとは言えないのだが──。

今回は、そうした宝塚記念の勝ち馬から、万難を排して宝塚記念で唯一のGⅠの美酒に酔いしれた、マーベラスサンデーと、その父であるサンデーサイレンスの物語を紹介していこう。


マーベラスサンデーは1992年5月31日、北海道新冠町の早田牧場新冠支場で、父サンデーサイレンス、母モミジダンサー(母の父ヴァイスリーガル)の仔として産まれた。偉大なる種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒であり、同期にフジキセキ、タヤスツヨシ、ジェニュイン、ダンスパートナーら綺羅星のごとくスターホースたちが名を連ねる。

しかしながらそんな華やかな同期たちの輝かしい蹄跡とは裏腹に、マーベラスサンデーの競走馬としての船出は順調ではなかった。そう、まるでそれは父サンデーサイレンスの幼少時の苦難をなぞるかのように──。

マーベラスサンデーの父でもあるサンデーサイレンスは、1986年3月25日、父ヘイロー、母ウィッシングウェル(母の父アンダースタンディング)の仔としてアメリカ合衆国ケンタッキー州のストーンファームにて産まれた。気性が激しく、扱いの難しい馬であったサンデーサイレンスだったが、見栄えのしない容貌と地味な血統ゆえに買い手がつかなかったという。そればかりか、サンデーサイレンスはデビューを前にして二度も命の危険にさらされている。一度目は当歳時にウィルス性の腸炎にかかった時。下痢が止まらず、医者も匙を投げたところから奇跡的に生還した。二度目は2歳時に、乗っていた馬運車が横転した時。同乗していた他馬がすべて死んでしまったなか、サンデーサイレンスのみが生き残ったのだ。もしサンデーサイレンスがそこで命を落としていたら、日本の新世紀における血統地図はいったいどのような色分けがなされていただろうか。

──そんなサンデーサイレンスの血を受けたマーベラスサンデー。幼駒の頃は父譲りの貧弱な馬体が目立ったためか、長らく買い手が付かなかった。生産者の早田牧場は、同じく生産馬であるジャパンカップ勝ち馬のマーベラスクラウンを管理している栗東の大沢真調教師を説得し、本馬の受け入れを取り付けたという。大沢調教師の計らいにより、馬主はマーベラスクラウンを所有する笹原貞生氏に決まり、競走年齢に達した1994年3月に栗東トレーニングセンターの大沢厩舎に入厩。しかし、秋のデビューに向けて調教が進むにつれて、マーベラスサンデーは非凡な瞬発力を見せ始めた。

彼の調教について、有名な逸話がある。栗東トレーニングセンターの武邦彦厩舎に、素質馬と評判の高いオースミタイクーンという馬がいた。半兄に英ダービー馬のジェネラス(父カーリアン)がいるという血統的に大注目だったこの馬を、デビュー前のマーベラスサンデーが10馬身ぶっちぎってしまったというのだ。この評判が評判を呼び、武邦彦厩舎のつてからマーベラスサンデーの鞍上に武豊騎手が跨ることが決まったという。トップジョッキーも興味を示したという遅れてきた大器であった。

しかしそんな追い風のなか、マーベラスサンデーが右膝を骨折。さらに放牧に出された先で今度は疝痛を発症してしまい、生死の境を彷徨い、480キロ台であった馬体重が390キロまで減少したという。サンデーサイレンスと同様、幼少期から生命の危機に直面したマーベラスサンデーだったが、父譲りの生命力と運命に抗う精神力を受け継いでいたのである。

早期の治療が功を奏し、なんとか一命はとりとめたマーベラスサンデー。一方でフジキセキ、タヤスツヨシらが巻き起こすサンデーサイレンス旋風には乗り遅れ、秋デビューの目算も大幅に遅れてしまう。

「遅れてきた逸材」と呼ばれたマーベラスサンデーがデビューしたのは、1995年2月4日、京都競馬場の新馬戦だった。かねてから予定していた武豊騎手を鞍上に、2着馬に2馬身半差を付けて新馬勝ちを収める。そして次走の条件戦ゆきやなぎ賞も難なく制すると、クラシックレースへの出走権を確保するため、重賞の毎日杯に出馬登録した。しかし直後に右膝を再び骨折し、休養を余儀なくされてしまう。秋に帰厩し、態勢の立て直しが図られたが、今度は左後脚を骨折して再度の休養に入った。


サンデーサイレンスが馬運車事故にあった後の1988年10月。サンデーサイレンスは初めてレースに出走し2着に敗退するものの、翌11月の未勝利戦で初勝利を挙げた。さらに12月の一般競走で2着に敗れた後、翌年のケンタッキーダービーを目指して休養に入る。そして翌1989年の3月2日、休養が明け初戦となった一般競走を優勝。同19日にGⅡのサンフェリペハンデキャップに出走し、スタートで出遅れながらこちらも勝利をあげた。このころから少しずつ、ケンタッキーダービー優勝馬の候補としてサンデーサイレンスの名を挙げる人も出始めてきた。しかし、この年のケンタッキーダービーには、誰もが認める大本命馬がいたのだ。

その大本命は、イージーゴア。

雄大で美しい栗毛を持ち、素晴らしい血統背景に裏打ちされた、何もかもがサンデーサイレンスとは好対照な馬。競馬マスコミはこぞって「ケンタッキーダービーの本命馬」と書き立て、「セクレタリアト(三冠馬)の再来」と褒め上げた。競馬ファンもまたケンタッキーダービー、その後のベルモントステークスでもサンデーサイレンスに差をつけた1番人気に支持していた。

一方のサンデーサイレンス陣営は、ケンタッキーダービーの出否を、サンタアニタダービーの結果を見て決めるとしていた。そのサンタアニタダービーに出走したサンデーサイレンスは、2着馬にレース史上最大の着差となる11馬身差をつけて優勝し、正式にケンタッキーダービーへの出走を決めた。

1989年のケンタッキーダービーはレース前日の豪雨により、1967年以来と言われる悪い馬場状態で行われた。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩して他馬と激しく接触し、さらに直線では左右によれる素振りを見せたが、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝した。血統的に見るべきところもなく、貧相な黒鹿毛の馬が、誰もがうなづく大本命を抑えて、見事「Run for Roses」の称号を手に入れたのである。


マーベラスサンデーがターフに復帰したのは1996年の4月。美しい栃栗毛の馬体に、厩舎の先輩でジャパンカップ勝ち馬マーベラスクラウンから譲り受けた赤いメンコを装備して現れた。

復帰戦となった阪神競馬場の明石特別こそ道中の不利が響き4着に敗れたが、続く京都競馬場の鴨川特別を制して実に1年2か月ぶりの勝利を飾ると、「遅れてきたサンデーサイレンス初年度産駒最後の大物」としての快進撃が始まる。

中京競馬場の準オープン・桶狭間ステークスを勝ってオープン入りした後、6月の東京開催のエプソムカップG Ⅲ で重賞初出走を初制覇で飾った。

続いて夏から秋にかけ札幌競馬場の札幌記念GⅢ、阪神競馬場の朝日チャレンジカップGⅢ、京都競馬場の京都大賞典GⅡと重賞を連勝する。この連勝により、押しも押されぬサンデーサイレンス産駒のトップホースの仲間入りをし、サクラローレル・マヤノトップガンと言った古馬の大将格との挑戦権を得た。

しかし、古馬のGⅠの壁は厚かった。2番人気で臨んだ天皇賞(秋)、当日1番人気に推されたサクラローレルをマークするも、先行して抜け出したバブルガムフェロー・マヤノトップガンを交わすことができず4着に敗れる。続く暮れの有馬記念では、直線一旦先頭に立つも、サクラローレルにねじ伏せられての2馬身半差の2着。重賞級とG Ⅰ級の力の違いをまざまざと見せつけられた。


米三冠路線の2戦目となるプリークネスステークスGⅠに出走をこぎつけるまで、サンデーサイレンス陣営は幾多の難問を解決しなければならなかった。

レース1週間前の右前脚の故障、ピムリコ競馬場における馬房での観光客やマスコミ関係者との小競り合い。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが、実力ではケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る競馬ファンが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気(単勝オッズ1・6倍)に支持され、サンデーサイレンスは2番人気(単勝オッズ3倍)であった。

レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外をマークし、サンデーサイレンスが外に出すのを塞ぐような展開となった。イージーゴアはそのまま先頭に立ったが、サンデーサイレンスが猛然と追い上げ、最終コーナーを回ると二頭の競り合いとなり、さらにサンデーサイレンスはイージーゴアが内から抜け出そうとするたびに外から馬体を合わせてイージーゴアに噛みつこうとした。息詰まる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した。

第3戦となるベルモントステークスではサンデーサイレンスによる三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかし、レースでは残り400mの地点でイージーゴアに交わされると、そのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗退した。三冠達成はならなかったものの、サンデーサイレンスは三冠レース全てに出走、イージーゴアに対して2勝1敗とした。


翌1997年、マーベラスサンデーは産経大阪杯から始動。これを快勝すると、続く天皇賞(春)でのサクラローレル・マヤノトップガンとの三度目の三強対決に注目が集まった。

レースはサクラローレルをマークして進み、直線で同馬と激しい競り合いとなった。しかし直後に後方からマヤノトップガンが大外一気の追い込みを見せて前の二頭を交わし切り、3分14秒4という芝3200mの世界レコードタイムで優勝。マーベラスサンデーはゴール前でサクラローレルに半馬身遅れての3着に終わった。

次走に迎えた春のグランプリ・宝塚記念は、天皇賞馬マヤノトップガンが秋に備え休養、天皇賞2着のサクラローレルはフランス遠征と、共に回避を表明していたために三強揃い踏みとはいかなかったが、出走馬選定のファン投票でマーベラスサンデーは第1位に選ばれた。

また当日もGⅠ競走で初めての1番人気に支持された。レースは五分の出から位置を下げ、後方、前年秋の天皇賞で敗れているバブルガムフェローを見る位置取りで脚を溜めた。シーズグレイスが早めのペースで逃げ、タイキブリザードが追いかける道中を、向こう正面で徐々に先団へと進出。3、4コーナーの中間でタイキブリザードがシーズグレイスを交わして先頭に立つ。4コーナーを回って直線。先頭を走るタイキブリザードにバブルガムフェローが競りかける。マーベラスサンデーは馬群の外に出し、さらに外から伸びてきたダンスパートナーと併せて2頭に襲いかかる。4頭が激突する直線となった。

バブルガムフェローが一歩前に出ると、それを目がけてマーベラスサンデーが伸びる。

最後はバブルガムフェローとの競り合いをクビ差制し、GⅠ挑戦4度目にして念願の初制覇を果たした。

マーベラスサンデーはしかし、宝塚記念の競走中に4度目の骨折をしていたことが判明し、休養に入った。これにより秋の目標としていたジャパンカップを断念、年末の有馬記念に目標を切り替えての調整が進められる。迎えた有馬記念では、同じく武豊騎手が主戦を務めていたエアグルーヴも出走していたが、武騎手はマーベラスサンデーを選択。

当日はエアグルーヴを抑えて1番人気に支持された。レースでも直線でエアグルーヴを交わして勝利目前であったが、ゴール直前で大外から追い込んだ4歳馬シルクジャスティスにアタマ差交わされ、2着に敗れた。結果的に、このレースがマーベラスサンデーにとって最後のレースとなった。


マーベラスサンデーはこのように、父の苦難とリンクするように競走馬としての危機に襲われ、それらのことごとくを父譲りの生命力と精神力とで跳ね返して、遂にはGⅠの表彰台の頂点に立った不屈の馬である。

彼の、こと唯一のGⅠ勝ちである宝塚記念に関して、マヤノトップガンやサクラローレル等の超一線級のライバルの不在に恵まれた棚ぼた的勝利と言う見方もあるのは承知しているが、それはあたらない。マーベラスサンデーはレースにおいても、また彼の馬生においても、常に全身全霊をかけて苦難に、またライバルたちに立ち向かい、死力を尽くして戦った。その魂の叫びが、初のそして唯一のGⅠ勝ちとして結実したものなのだ。彼は決して負けない。その1点において、彼の父サンデーサイレンスにても自らと同じような経験を切り抜けてきた産駒として誇りに思うだろう。GⅠ勝鞍は僅か1鞍であるが、彼もまた大種牡馬サンデーサイレンスの代表産駒の1頭である。

写真:かず

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