マヤノトップガン〜日本競馬史に残る名勝負を二度も演じたステイヤー~

菊花賞や天皇賞春といった長距離戦を好むファンは、今の時代になっても決して少なくないように思う。長い時間ハラハラドキドキした気持ちでいられることや、二度も目の前(スタンド前)を走ってくれることなどが理由だろうか。

それに加え、菊花賞では、夏の上がり馬の存在という楽しみもある。

近年、新馬戦の開始が早まったことにより、春のクラシックで勝ち負けするような馬は秋競馬までにデビューを果たしていることが多い。そんな"エリート"達に対して、何らかの理由でデビューが遅れたり、あるいはなかなか勝ち上がれず、裏街道を歩んできたりした上がり馬がどこまで迫れるか──ともすれば、逆転はあるのか。

そして実際、菊花賞で春の既存勢力を逆転した上がり馬は、多数存在する。古くはアカネテンリュウや、TTG伝説の一角を担ったグリーングラス、メジロデュレンとメジロマックイーン兄弟、近年ではスリーロールスやトーホウジャッカルあたりだろうか。

そんな上がり馬の中には、3歳シーズンの年明けや同期がクラシックで活躍している春先に、ダートの短距離戦など、後々の活躍の場を思えば驚くような条件に出走していた馬もいる。

──思えば、1995年の菊花賞を勝ったマヤノトップガンもそんな馬の一頭だった。

マヤノトップガンのデビュー戦は、1995年1月8日。京都競馬場のダート1200mだった。上述の通り、後の活躍を思えば想像できないような条件ではあるが、これには理由があった。この時のマヤノトップガンの馬体重は446kg。小柄で体質も弱く、若駒に特有のソエの症状が見られたことを踏まえた、陣営の判断だった。

単勝1.7倍の圧倒的な1番人気に推され、既にトップジョッキーとなっていた武豊騎手を配したものの、結果は5着に敗戦。ただ、この時の勝ち馬は、3ヶ月後に桜花賞を制するワンダーパヒュームだったため、それほど悲観する内容ではなかったとも言える。

この1995年は、日本列島が未曾有の大災害や大事件に見舞われた年でもあった。

マヤノトップガンのデビュー戦から9日後の1月17日。兵庫県の淡路島北部沖を震源とするマグニチュード7.3の大地震が発生。犠牲者は6400人を超え、その中にはマヤノトップガンを所有する田所祐オーナーの弟夫妻も含まれていた。また、本業が医師の田所氏が神戸市に開業していた病院も、震災により倒壊。オーナーをはじめ、陣営のマヤノトップガンや他の所有馬に対する思いや期待は、よりいっそう強くなったに違いない。

一方、競馬開催に関してはその週の京都開催こそ中止になったものの、翌週からは再開された。そして、デビュー後も連続してダート1200mに出走したマヤノトップガンは、キャリア4戦目の未勝利戦で、念願の初勝利を挙げたのだった。


当時の日本競馬界で巻き起こっていたのが、サンデーサイレンス旋風であった。
朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)と弥生賞を勝ち"エース格"と目されていたフジキセキこそ皐月賞目前で故障引退したものの、皐月賞をジェニュインが、オークスをダンスパートナーが、ダービーをタヤスツヨシが制し、それらの前哨戦やトライアルを含め、サンデーサイレンスの初年度産駒が大レースを勝ちまくっていた。

その華やかなりし大舞台の裏で、マヤノトップガンは引き続きダート1200mで善戦を繰り返していたが、ようやく2勝目を挙げたのは、ダービー当日の中京6レースのこと。ただ、このレースには、それまでとは異なる点が2つあった。

1つ目は、これまでよりも500m延長となる、1700mのレースだったということ。

2つ目は、デビュー以降ほとんどのレースで減り続けていた馬体重が、前走から中2週での出走にも関わらず、12kgも増えていたことだった。

距離延長と、体重増。
同期が大舞台で躍動しているその裏で──密かに、しかし着実に、マヤノトップガンは浮上のきっかけを掴んでいたのである。

続けて、中2週で挑んだロイヤル香港ジョッキークラブトロフィーは、さらに距離が延びる2000mで、なおかつ初めての芝のレース。しかし、そこを3着と好走して芝路線に目処をつけると、次走のやまゆりステークスを勝利して、あっさりと2勝クラスを突破。

こうなってくると、芝路線どころか、秋の目標を菊花賞におくことが現実的となってくる。
賞金面でも、菊花賞トライアルには十分出走できるレベルに到達していた。

さらに、ここでようやく夏休みが与えられたのだが、これがまた良い方向に出た。

9月、重賞初挑戦となる神戸新聞杯。
震災の影響で、この年は京都競馬場での開催となったが、そのパドックに姿を現したマヤノトップガンの馬体重は、さらに10kg増えて452kgになっていた。デビュー戦からは6kgの増加でしかなかったが、最も落ち込んだ4走前からは、実に22kgの増加である。

ただ、菊花賞を目指す素質馬が集まる一戦だけに、ここは強敵が揃っていた。
その筆頭はダービー馬・タヤスツヨシ。他にも重賞2勝のナリタキングオー、サンデーサイレンス産駒の上がり馬スリリングアワーなどが出走していた。さすがにこのメンバーを相手にするため、マヤノトップガンの目標は、3着までに入って本番への優先出走権を手にすることで十分だったと思われる。
しかしマヤノトップガンは、春のクラシックを最前線で戦っていた馬かのような堂々としたレースぶりを見せつける。

ゲートが開き、大外14番枠から飛び出すと、難なく先行集団に取り付き、道中は4番手をキープ。

そして、3コーナーで1つポジションを上げ、直線入口では馬なりのまま先頭に並びかけると、併走状態だったスリリングアワーと追ってきたタヤスツヨシを競り落とし、残り100mで単独先頭に立った。いきなりの重賞制覇もすぐ目の前まで見えていたが、ゴール寸前でタニノクリエイトの急襲に屈し、惜しくもクビ差の2着となった。

負けたとはいえ、4走前まではダートの短距離でくすぶっていた馬とは思えないほどの内容で、いとも容易く菊花賞への切符を手にしたのである。

そこから、京都新聞杯での2着を挟み、休み明け3戦目となったのが菊花賞だった。この大舞台でも、サンデーサイレンス産駒が1番人気に推された。サンデーサイレンス産駒が人気したというだけでは驚きはなかったが、それが牝馬だということは、牡馬のクラシック──とりわけ長距離戦の菊花賞では、驚くべきことだった。

この時、1番人気に推されたのは、オークス馬のダンスパートナーである。

オークス勝利後、夏場にフランスへと遠征したダンスパートナーは、ノネット賞2着を経てヴェルメイユ賞に挑戦するも6着に敗戦。ここが、帰国初戦となっていた。

ただ、ダービー馬のタヤスツヨシが、京都新聞杯も見せ場なく7着に敗れていたとはいえ、この人気はやや押し出されたような雰囲気もあった。実際に人気は割れており、ダンスパートナーでも単勝オッズは4.9倍。さらには、10倍を切る馬が6頭という大混戦だった。

京都新聞杯で重賞3勝目を挙げたナリタキングオーが2番人気に続き、そこで差しの競馬を試されて惜敗していたマヤノトップガンは、3番人気でレースを迎えた。

スタートしてすぐ、やや行き脚がつかないようにも見えたこの日のマヤノトップガン。坂の下りに入るところで今度はいきたがる素振りを見せながら一気にポジションを上げる。結果的には4番手と絶好位につけ、1周目のスタンド前へと入った。

その後は、いきたがるようなところをまるで見せず、先頭から7馬身ほどの差を常にキープ。
そして、レースが大きく動いたのは、二度目の坂の下りだった。

ここでペースは一気に上がったが、マヤノトップガンは楽な手応えで先頭との差を詰める。続く4コーナーで、逃げるマイネルブリッジを交わして先頭に立ち、レースは最後の直線勝負を迎えた。

直線に入ると、リードはすぐに2馬身に広がる。外からダンスパートナーとナリタキングオーが迫ってきたが、道中、馬群の外を回っていたせいか、前を交わすほどの伸び脚がない。むしろ、中団から後方に構えていたものの、コーナーを内ラチぴったりに回っていたトウカイパレスとホッカイルソーの勢いが良く、スムーズに馬群を抜け前へと迫ってきた。

──しかし、夏を越えて充実期に入っていたマヤノトップガンの息の長い末脚は衰えず、後続の追撃を全く許さない。

最後は、トウカイパレスに1馬身4分の1差をつけて、歓喜のゴールイン。
10ヶ月前、同じ競馬場のダート1200mでデビューを果たした馬が、正反対ともいえる芝の3000mに出走。そして、まるで大本命の主役馬がやってのけるような、4コーナー先頭から堂々と押し切る強い内容を見せつけた。見事に、夏の上がり馬が、重賞初制覇をクラシックの大舞台でやってのけたのである。しかも、勝ちタイムの3分4秒4はレースレコードというおまけ付きだった。

1月にデビューして、これで12戦目。レースを使って上昇するのは、ブライアンズタイム産駒の典型だったが、大一番で底力を発揮するのもまた特徴だった。

そして、年始に大災害に見舞われた田所オーナーの、神戸市にある摩耶山から名を冠した「マヤノ」と名のつく馬が、その年のGⅠを制したことに大きな意義があった。この年、プロ野球のパ・リーグを制した、神戸市に本拠地を構えるオリックスブルーウェーブと同様、たくさんの人に勇気と希望を与る勝利だったに違いない。

その歓喜から1ヶ月半後。
マヤノトップガンは、年末の大一番・有馬記念に出走するため、初の関東遠征を敢行した。

1番人気に推されたのは、前走のジャパンカップで日本の牝馬としては大健闘の2着に入った女傑ヒシアマゾン。2番人気は、マヤノトップガンと同じブライアンズタイムを父に持ち、前年に牡馬三冠を成し遂げ、このレースも優勝したナリタブライアンだった。

しかし、この年のナリタブライアンは、春に股関節炎を発症。秋に復帰してからの2戦は一転、それまでの絶対的な強さが見られず低迷していた。
ところが、マヤノトップガンに対する評価も低く、前走の菊花賞に関しても、横一線の同世代相手に勝利しただけと思われたのか、伏兵扱いの6番人気に留まっていた。

ゲートが開くと、出遅れたヒシアマゾンとは対照的に、この日のマヤノトップガンは先手を切った。機動力がものをいう中山コースではあるが、事前に逃げることまで予想していた者は少なかった。

しかし、その逃げはあくまでも馬なりで全く無理のないもの。7枠からのスタートだったため、最初のコーナーに入るまでの、内枠の馬との兼ね合いだけがポイントだったが、それも難なくクリアし1周目のスタンド前へと入っていく。

観衆の大歓声にリズムを乱されることもなく、このあたりでスローペースに持ち込むことに成功すると、その後も、2番手につけたアイルトンシンボリとタイキブリザードとの差を終始1馬身半ほどキープし、着実にレースを進めていった。

迎えた3コーナー。ナリタブライアンとヒシアマゾンが、揃って馬群の外側から上がっていくところがターフビジョンに映し出されると、場内がドッと沸いた。さらに、続く4コーナーで、ナリタブライアンが先頭のマヤノトップガンにほぼ馬なりで並びかける。

ブライアンが、ついに復活するのか──。

そんなドラマチックな展開がこのあと繰り広げられるのでは、と多くのファンが予想し、場内からは、この日一番の歓声が上がった。
しかし直線に入ると、マヤノトップガンは、そんなことなどお構いなしといった感じで、あっさりとリードを2馬身半に広げ、一気に逃げ込みを図る。逆に、ナリタブライアンは坂に差し掛かるあたりで伸びを欠き、2番手のタイキブリザードにも離され、猛追してきたサクラチトセオーにも交わされそうになっていた。

一方、2着争いを尻目に、この日もマヤノトップガンの末脚は坂を駆け上がっても衰えず、最終的には2馬身差をつける菊花賞以上の完勝。

GⅠ2連勝で、夏の上がり馬は、ついにグランプリホースにまで上り詰めたのだった。

この活躍により、マヤノトップガンは、JRA賞最優秀4歳牡馬(現・JRA賞最優秀3歳牡馬)だけでなく、年度代表馬のタイトルまで獲得。

迎える新シーズンは、現役最強馬の座につくための、いっそう明るいものになるはずだった。


そして翌年、1996年。上半期の目標を天皇賞春と定めた陣営は、ステップレースに阪神大賞典を選択。そこで、再びナリタブライアンとの対決が実現した。

新旧年度代表馬対決。

前哨戦とはいえ、この対決に注目が集まらないはずはなく、この日は土曜日にも関わらず、およそ6万もの大観衆が集結した。既にこの時、阪神競馬場は震災で受けた甚大な被害から復旧。前年の12月には開催が行われていたものの、ある意味ではこれが"こけら落とし"ともいうべきタイミングだったのかもしれない。

そして、その復旧を祝うかのように、また、待ちわびたファンの期待に応えるように、2頭は歴史に残る素晴らしいレースを見せたのである。

ゲートが開くと、まずはナリタブライアンが好スタートを切った。しかし、それを制して内からスティールキャストが先頭に立つと、アワパラゴンがそれに続く。

マヤノトップガンは4番手を追走し、中団まで下げたナリタブライアンは、ノーザンポラリスを挟み6番手を進んでいた。

ナリタブライアンが三冠を達成した菊花賞で大逃げを打ったスティールキャストだが、この日はゆったりとしたペースでの逃げ。

そして、この日もレースが大きく動いたのは3コーナーに入ってからだった。

先に仕掛けたのはマヤノトップガンで、800m標識を通過するあたりで、早くも単独先頭に立った。

それを見て、ナリタブライアンとノーザンポラリスもスパートを開始し、この3頭が他の7頭を離し始める。しかし、残り600mからは、早くもマヤノトップガンとナリタブライアンの2頭が抜け出し、場内からは大きな歓声があがった。

直線に入ると、後続との差はさらに開き、そこからは画に描いたようなマッチレースが展開される。

一度は坂下で半馬身ほどリードしたマヤノトップガンと、それに必死で食らいつくナリタブライアン。特に、ナリタブライアンにとっては、ここ数戦の充実ぶりや勢いでは劣っても、四冠馬としては絶対に負けられない。

元祖天才と呼ばれた田原騎手と、既に天才の名をほしいままにしていた武豊騎手の二人の思いが交錯し、二頭と二人の一挙手一投足が、まるでシンクロしているかのような走り。

そして、ゴール寸前で二頭の馬体は完全に合わさり、そのままもつれるようにしてゴール板を駆け抜けた。

──と、同時に、前哨戦としての範疇を超越した異次元のレースが目の前で展開された場内からは、期せずして、大きなどよめきと万雷の拍手が沸き起こった。

写真判定の結果、アタマ差だけ先着していたのはナリタブライアンだった。

ナリタブライアンにとって、これが、ちょうど1年ぶりとなる復活の勝利。3着は、実に9馬身も離れていた。これほどまでに極上の前哨戦を見せられては、本番も期待が高まらないはずはなかった。

しかし、この後のマヤノトップガンは、どこかちぐはぐなレースに終始してしまい、消化不良のようなレースが続く1年となってしまうのである。

迎えた天皇賞春。人気は、当然のように二頭に集中した。
ところが、この日のマヤノトップガンは、1度目の坂の下りで折り合いを欠いて行きたがり、スタンド前を通過して向正面に入っても、それは変わらなかった。2度目の坂の上りでペースが速くなってようやく落ち着きを取り戻し、4コーナーの手前からナリタブライアンが並びかけ、2頭で後続を徐々に引き離す。
前哨戦が終わった直後から、誰もが何度でも見たいと期待した極上の一騎打ちが、再び展開されるのか──ファンのボルテージは、一気に上がる。

しかしその期待も虚しく、直線に入って早々にマヤノトップガンは失速してしまい、夢の続きが再現されることはなかった。それどころか、マヤノトップガンを振り切って独走態勢に入ると思われたナリタブライアンも、2頭をマークするようにレースを進めていたサクラローレルに差されてしまう。

結局、マヤノトップガンは5着に終わり、歓喜の有馬記念から半年も経たないうちに、古馬・中長距離路線の図式は大きく変化したのだった。

その2ヶ月半後。震災復興支援競走として行われた宝塚記念に出走したマヤノトップガンは、この2戦とは一転して、直線ではムチを使わないほどの楽勝。GⅠ3勝目を挙げ、田所オーナーの地元に錦を飾った。

ところが、迎えた秋は不安定なレースが続き、オールカマーで再びサクラローレルの後塵を拝して4着に敗れると、四強対決となった天皇賞秋では、サクラローレルとマーベラスサンデーに先着するも、3歳馬のバブルガムフェローをとらえきれず2着に惜敗。そして、ディフェンディングチャンピオンとして迎えた有馬記念では、生涯初にして唯一掲示板を外す7着に敗れてしまうのだった。

その有馬記念を制して、年度代表馬の座を獲得したのはサクラローレル。
一方で、秋は未勝利のまま4歳シーズンを終えたマヤノトップガンは、マーベラスサンデーと並び、古馬の2番手グループという評価に留まってしまったのである。


年が明け迎えた5歳シーズン。再び、現役最強馬の座を目指すべく、上半期の目標を前年と同じ天皇賞春に定めたマヤノトップガンは、前年と同様に阪神大賞典から始動した。

ここ数戦のマヤノトップガンは折り合いを欠くような仕草が見られたためか、このレースでは、京都新聞杯以来となる後方に控える競馬が試された。
ただ、後方に控えるといってもそれは極端なもの。この日の出走馬は8頭だったが、ゲートが開くと、マヤノトップガンは7番手の馬から、さらに3馬身も離れた最後方に待機したのである。

圧倒的1番人気馬のこの姿がターフビジョンに大写しになると、さすがに場内からはどよめきが起こった。
しかし、この戦法が功を奏したのか、スローペースにもかかわらず、マヤノトップガンが折り合いを欠くような場面は、道中で一度もなかった。そして、いつもどおり、残り800mの標識から馬なりで上がっていくと、600m地点で早くも先頭に並びかけ、直線入口では単独先頭に躍り出る。

直線は、そのまま独壇場に。
鞭を入れられることなく後続との差を広げ、最後は2着のビッグシンボルに3馬身半差をつけてゴールイン。

重賞勝ち馬が他に2頭しかいなかったとはいえ、まずは順調に、そして新しい一面も見せながら、無事に前哨戦をクリアした──少なくとも周囲からはそう見えていた。ただ、騎乗した田原騎手は、手応えのわりに突き放せなかったことや、最後は上がりが13秒もかかったことから、見た目ほどの楽勝ではないと思っていたと、後に語っている。

その1ヶ月半後、サクラローレルとマーベラスサンデーを加えた三強は、予定通り天皇賞春へと駒を進めた。
マーベラスサンデーは、もう一つの前哨戦である大阪杯を快勝しての参戦、サクラローレルは有馬記念からの直行だった。

もちろん人気は三つ巴。前年の覇者でもあるサクラローレルが2.1倍とやや抜けているものの、マヤノトップガンは3.7倍、マーベラスサンデーが4.1と続き、4番人気のロイヤルタッチは11.4倍と大きく離れていた。

天皇賞春を連覇し、現役最強馬の座を確固たるものとしたいサクラローレル。
念願の盾獲りとともに、現役最強馬の座を奪取したいマヤノトップガン。
この大一番で、GⅠ初制覇を達成したいマーベラスサンデー。

それぞれの思惑が交錯する中、世紀の一戦の幕が上がった。

ゲートが開くと、前走と同様に、マヤノトップガンはやや後方へと下げた。サクラローレルはちょうど中団に構え、マーベラスサンデーはそれをマークするようにその直後に付ける。前年と同じようにマヤノトップガンは1周目の坂の下りで引っかかり、内ラチ沿いをスルスルと上がっていったが、先行するギガトンの後ろに入れたことでなんとか折り合いをつけることに成功した。

拍手と歓声の中、スタンド前を通過して向正面に入ると、今度は珍しくサクラローレルが少し行きたがり、3番手までポジションを上げる。そして、それをマークしていたマーベラスサンデーも進出を開始。

一方、マヤノトップガンは完全に折り合いはついていたものの、二強からは徐々に離されはじめ、3~4コーナーの中間点では後ろから5番手までポジションを下げていた。
ペースアップについて行けないのか。また、前年と同じ結果に終わってしまうのか。

そこから馬群の外に出され、再度盛り返しを図ったものの、4コーナーを先頭で回った二強とは、7馬身ほどの差があり、それは絶望的な差のようにも思われた。

迎えた直線。抜け出した二強は後続を引き離し、そこから手に汗握るデッドヒートが始まった。
先に抜け出したサクラローレルを、外から交わさんとするマーベラスサンデー。

しかし、これが現役最強馬の底力か。マーベラスサンデーは、馬体を併せるところまではいくものの、サクラローレルがなかなか前に出させない。残り200mを切ったところで、サクラローレルが再び半馬身ほど前に出た。

連覇達成か──。
その時だった。

完全に抜け出したはずの二頭の外から、矢のような勢いで追い込んでくる馬がいた。

マヤノトップガンだった。

自らが菊花賞を勝ったときのように、3000mを超える長距離戦では、直線の入口で先頭集団にとりついていないと、まずもって勝ち負けにはならない。他馬との実力差がよほどない限り、追込みなど決まらないのが常識である。

しかし、そんな常識を根底から覆すように、マヤノトップガンはとてつもない瞬発力を発揮して末脚を爆発させた。並ぶ間もなく一瞬で2頭を交わしさると、そのまま先頭でゴール板を駆け抜けたのだ。

信じられないような末脚と、あまりにもドラマチックな大逆転劇。数十年に一度の名勝負を目の当たりにした大観衆からは、ゴール後、すぐに大きな拍手と田原コールが沸き起こった。

勝ちタイムは3分14秒4。それは、ライスシャワーがマークしたレコードを2秒7も更新する、驚異的なレコードタイムだった。

前年の阪神大賞典でナリタブライアンに僅差で敗れて以降、ここぞの大一番や、豪華メンバーが揃ったレースでは勝てないと見られていたマヤノトップガンは、どうしても突き抜けることができなかった。

しかし、この日の神懸かった末脚は、そんな評価や、それまでたまりにたまった鬱憤をすべて吹き飛ばすものだった。菊花賞で展開した持久力勝負とはまるで正反対の戦法で、マヤノトップガンはついに現役最強馬の座を手にしたのである。

この後マヤノトップガンは秋まで休養し、京都大賞典から復帰する予定だったが、その調整過程で屈腱炎を発症してしまい引退。種牡馬入りすることになった。

そのため、この天皇賞春が現役最後のレースとなってしまったのである。

通算成績は21戦8勝。古馬となってからは、ややムラのある成績だったともいえるが、マヤノトップガンのキャリアのすべては、あの天皇賞のゴールの瞬間のためにあったのかもしれない──思わずそう言ってしまいたくなるほど、鮮やかで美しいレースぶりだった。

中山競馬場を代表する名勝負が、テンポイントとトウショウボーイの有馬記念だとするなら、阪神競馬場を代表する名勝負は、ナリタブライアンとの阪神大賞典。そして、京都競馬場を代表する名勝負は、この天皇賞だったのではないだろうか。

顕彰馬には選出されていないものの、マヤノトップガンは、日本競馬史に残る名勝負を2つも演じ、長距離戦の楽しさや醍醐味を、これ以上ないほど教えてくれる存在だった。

写真:かず

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