メジロマックイーンと新冠のじいさん

──昔の競馬は良かった。

誰が言うもんかと思っていた言葉を、結局自分も使うようになった。
これが歳を重ねるということなのだろうか。

私が競馬に出会ったのは1995年。
メジロマックイーンは2年前に引退していた。

今どきの競馬ファンはどうかわからないが、競馬にハマると過去の名馬に思いを馳せる時期が来る。
今のようにインターネットで何でも調べられる時代ではなく、大学生だった自分にとって一番の情報は競馬好きの大人たちが語る物語だった。

当時、現役馬では前年に三冠馬となったナリタブライアン、同世代の女傑ヒシアマゾンがいた。
サンデーサイレンスの初年度産駒が春のクラシックで旋風を巻き起こしたのもこの年だった。
牡馬ではジェニュインとタヤスツヨシが皐月賞とダービーで1着2着を分け合った。
牝馬ではダンスパートナーが桜花賞2着、オークスでは優勝を飾った。
秋には、後にナリタブライアンと名勝負を演じることになるマヤノトップガンが菊花賞を勝っている。

そんな時代にあって、大学の先輩やバイト先の社員の人たちが口にする名馬といえば、メジロマックイーンとトウカイテイオーだった。
2頭ともまだ手触りのある実感として残っていたのだろう。
先輩たちは自分のことのように嬉しそうに2頭について語ってくれた。

前年の三冠馬ですら、彼らに言わせれば「ダービーにテイオーがいたらブライアンは負けていた」「菊花賞にマックイーンが出ていたら3馬身はちぎられていた」ということらしい。

当時は第2次競馬ブームの真っただ中。
G1での入場制限は当たり前、WINSは最寄駅から長蛇の列、売り上げは毎年10%以上伸びて日本の競馬界が “イケイケ”の時代だった。
1990年にオグリキャップが引退し、多少は冷めるかと思われた競馬熱はむしろ高まるばかりだった。

そこに登場したのがマックイーンとテイオーであり、絶頂期に直接対決が実現したのが今でも「世紀の対決」と語り継がれる1992年天皇賞・春。

一週間以上も前から、マックイーンとテイオーどちらが勝つかが世間の話題になっていたらしい。
テイオーの岡部幸雄騎手が「この馬となら地の果てまでも駆けてしまいそうだ」と言えば、マックイーンの武豊騎手が「あちらが地の果てなら、僕のは天にまで昇りますよ」と切り返す。
否が応でも競馬ファンはヒートアップした。

職場、学校、酒場……いたるところでテイオーとマックイーンどちらが強いのかの論争が交わされ、ファンによって幾度もシミュレーションが繰り返された。

当時高校生だった先輩の教室も、その話題で持ちきりだったという。
もはや時効だと思うが、バイトで貯めたか3か月分のお金をテイオーに賭けたらしい。
実際に馬券を見せてもらった。
そこには 単勝 トウカイテイオー 35,000円 とあった。
バイト先の店長は、いつもは土曜日が休みなのに、この週に限ってシフトを組み替えて、日曜日を休みにして京都競馬場に向かったという。

熱く語ってくる人生の先輩たちの言葉を鵜吞みにできなかった私は、自分の目で確かめたくてレンタルビデオ屋で「名馬物語Ⅱ」を借りてきた。

2頭が対決した天皇賞春はもちろんのこと、長距離戦で無尽蔵のスタミナを見せつけ他馬を圧倒するマックイーンの強さは、強すぎて逆に何の面白みもないと感じてしまうほどだった。

一方のトウカイテイオーは、エリート然としつつも、1年ぶりの有馬記念で奇跡の復活を成し遂げるようなドラマ性を秘めた馬だった。
日本ダービーの4コーナーで、他馬がしきりに手綱を動かしているのに一頭だけ悠然と持ったままで上がっていく姿には鳥肌が立った。

2頭とも先輩たちの話どころではない、強烈な馬だった。

更に、競馬育成ゲーム『ダービースタリオン』が私に追い打ちをかけた。
当時夢中になって、先輩たちと夜を徹してやり込んだダビスタ。
ここで2頭の強さを“実感”したのだ。
『メジロマッコイーン』、『コウカイテイオー』がでてきた時点で、勝利は絶望的となった。


やがて私は、それがまるで必然かのように、彼らに会いたくなった。
夏が終わり秋に向かう9月初旬、北海道を訪れた。

伊丹空港から新千歳空港へ。
レンタカーを飛ばしてノーザンホースパーク経由で社台スタリオンステーションへ。
マックイーンとテイオーは、共にいた。

1頭ごとに広い放牧地が与えられており、見学台から遠くにいる種牡馬たちをみる形なのだが、放牧地に入る前には目の前まで連れてきてくれることになっていた。
数百メートル離れたところに、厩舎から放牧地につながる緑に囲まれた馬道があり、遠くから見ると小さなトンネルのようだった。
そのトンネルから白い馬体が見えた。
秋の始まりといってもまだ緑は豊かで、白い馬体が眩しく、さながら“メジロ”の勝負服を思わせた。

そのすぐ後ろには、もう一頭、三白流星の馬が現れた。
トウカイテイオーだ。

徐々に2頭が近づいてきた。

トウカイテイオーは現役馬かと見紛うばかりだった。
相変わらず見るものに変な緊張感すら覚えさせるような隙のない姿。
涼やかな瞳も健在だった。
1年ぶりの有馬記念で人の心をあれだけ熱くさせたテイオーだったが、本人はいたってクール。
まさにイメージ通りの姿だった。

一方のマックイーンは、真っ白。
おじいちゃんみたいに、うつむき加減でトボトボ歩いていた。
現役時代の姿からは遠くかけ離れた馬がそこにはいた。
テイオーと比べるとどうしても見劣りしてしまう。

現役を引退したサラリーマンに会うと、当時の面影を残す人と、別人かと思うように老けて見える人がいる。テイオーとマックイーンはちょうどそういう対比のように感じられた。

手元に残している当時の写真を見返すと、マックイーンの写真はたったの2枚。
片やテイオーの写真は10枚ほど撮っていた。
当時はまだデジタルカメラではなく、使い捨てカメラ。
それにしても2枚というのは本当に少ない。
私がいかにこの時マックイーンに惹かれなかったかがわかる。

見学が終わった後、その日の宿がある新冠に向かった。
太平洋の地平線に沈んでいく夕日をバックに、放牧地から厩舎に戻ろうとする母馬と仔馬の姿がみえる。
まさに宮本輝の『優駿』の世界に自分もいるかのようだ。
夕日が沈みきった頃に宿についた。

ホテルとは名ばかりの古い民宿。
素泊まりの予約だったのでチェックインした後は風呂と夕飯のために外にでた。
ホテルの人に教えてもらい、少し離れた銭湯に向かった。

運転しどうしの一日だったので歩いていくことにした。
日中は半袖でも暑いくらいだったが、日が沈んでからは気温がグッと下がって、歩くにつれ身体が冷えてきた。

さびれた駅の近くにある地元の人しかいなさそうな銭湯だった。
湯船に身体を沈めると指先がジーンとして温まるのを感じた。
しっかり温もったあと、邪魔にならないようにすみっこで身体を洗っていると、隣にいた70代くらいと思われるじいさんが声かけてきた。
屋外で仕事をしているのか、真っ黒に日焼けして、筋量は少ないものの身体は引き締まっており、顔には年輪のように深い皺が刻まれていた。

じいさんは、目をつむって頭を洗いながら私の方に少しだけ首を傾け、「若い兄ちゃん、どっからきたの?」と聞いてきた。
すぐによそ者とわかったらしい。

私は、競馬が好きになって、過去の名馬に会いに来たのだと告げた。
じいさんはぶっきらぼうに「誰さ会うた?」と聞いてきた。
「誰って?」と思ったが、馬のことらしかった。
マックイーンとテイオーを見学した話と、その時の印象を伝えた。
テイオーがイメージ通りだったこと、マックイーンが期待外れだったこと。

それを聞いたじいさんが私に語ってくれた言葉が、20年以上たった今も心に残っている。
随分昔のことだし、実際は北海道の言葉でしゃべっておられたので言葉遣いは幾分違うと思うがこんな内容だった。


マックイーンは泥臭い馬よ。
テイオーみたいに最初から勝ち続けた馬でない。
春のクラシックは間に合わなかったし、菊花賞だって勝ったことばかりが持ち上げられるけど、出走するまでの過程なんて滅茶苦茶よ。

春に500万下も勝てずに休養さ入って、復帰したんがちょうど今頃の時期やった。
菊花賞さ出るためには、なしても無理せざるを得んかった。
でも全然予定通りいかんかった。
復帰戦の函館ダート戦で勝てんかったから、そこから中1週、連闘よ。
それでもまだ菊花賞出走が決まらないから、関西さ帰ってもう一つ使ったんだ。
そこも2着さ負けたけど、何とか出走できて勝った。

そのあとも、春の天皇賞を勝ったけど、秋の天皇賞は1着入線で降着になったり、要所要所で旨い事いかんことが多かった。
それでもよく走り続けたわ。

デビューしたての頃は芦毛とは思えんくらい黒くって、だんだん白くなってな、最後の方は真っ白になりよった。
ほんと、あしたのジョーと一緒よ。
燃え尽きたんや、よう頑張ったんや。
したから、もうええんよ。
トボトボ歩いてええし、無理してお客さんの前で格好つけんでもええんよ。
兄ちゃんはまだ若いから俺の言うてることが分かんねぇかもしれねえけど。


そして最後にじいさんはこう言って、一足先にと断って風呂場から出て行った。

──強いだけの馬なんか、なんも面白くないんだがら。

いつの時代も強い馬は現れる。
2020年には、牡馬も牝馬も無敗の3冠馬が誕生した。
確かにすごいことだ。
育成の技術や調教の技術は飛躍的に向上したのだろう。
ローテーションの考え方も随分変わって、前哨戦を使わずにぶっつけでG1に臨んで、勝ってしまう。
効率的だ。

しかし、その分、プロセスが省かれる。
実際はその間に関係者による不断の努力が存在するわけだが、それを見たり感じたりする機会が少なくなったように、私は感じている。

マックイーンたちの時代は、本番でのガチンコ勝負を見据えて、本番で本命に推されるであろう馬も、その馬を何とか逆転しようとする馬も、みんな前哨戦に出てきて戦って本番に臨んだ。
その馬独自の戦法をもち、多少適性が合わなくても格の高いレースには出走し、とことん自分の戦法にこだわって戦った。
私たちに、結果に辿り着くまでの様々なプロセスをしっかり見せてくれた。
だからこそ思い入れも深くなり、彼らが去った後も記憶に残し、語り継いでいく。

ここ最近の馬やレースで、記憶に残る名勝負、語り継ぎたい馬というものが自分の中には見当たらない。
「あなたが思う名勝負は? 名馬は?」と問われれば、マックイーンが活躍した前後10年くらいの馬やレースになってしまう。

それは単に私が歳をとってきたからなのかもしれない。
年齢を重ねた今、20年前の新冠のじいさんの言葉と、マックイーンのトボトボ歩く姿が身に染みてくる。

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