「ジャンポケ」といえば、いまや競馬ファンとてお笑いトリオ「ジャングルポケット」が真っ先に浮かぶのではないか。無類の競馬好きで現在では競馬中継のMCを務めるメンバーの斉藤慎二さんが、トリオ結成時につけた名前が2001年の日本ダービー馬・ジャングルポケットだった。これは彼が単にジャングルポケットのファンだったからではなかった。そこにはもうひとつの意味があったのだという。
──東京では、負けない。
ジャングルポケットの東京競馬場での生涯戦績は3戦3勝。それだけではない。その内訳はGⅠ2勝、GⅢ1勝とすべて重賞。そしてその初勝利が、2001年共同通信杯である。
ジャングルポケットといえば、馬主・齊藤四方司、調教師・渡辺栄、騎手・角田晃一のフジキセキトリオが有名だが、初陣の新馬戦(2000年9月札幌芝1800m)の手綱をとったのは千田輝彦騎手だった。8頭立て5番人気での勝利。2着は後に東京スポーツ杯3歳S(当時)1着、朝日杯3歳S2着タガノテイオー。5着だったメジロベイリーはその朝日杯3歳Sの勝ち馬。世代屈指の新馬戦を勝ち抜いたジャングルポケットは次走の札幌3歳Sも勝ち、2連勝。
そして3走目のラジオたんぱ杯3歳Sから、角田晃一騎手とコンビを組んだ。
2000年12月23日阪神11Rラジオたんぱ杯3歳S。2戦2勝のジャングルポケットの前に立ちはだかったのが、開催初日の新馬を勝ったアグネスタキオンだった。翌年には弥生賞、皐月賞と4戦無敗でクラシックを制した伝説の馬である。ジャングルポケットにとって初めての敗戦だったが、競り負かした3着馬はエリカ賞を圧勝した1番人気のクロフネ。芝とダートで衝撃的な走りを披露した、こちらも伝説の馬である。
現在で言う2歳時に後世に語り継がれるほどハイレベルな競走を経験したジャングルポケット。彼が2001年緒戦に出走したレースが、共同通信杯だった。
はじめてジャングルポケットが走る東京競馬場は西に白富士、コース脇に残雪。冬一色だった。圧倒的な1番人気に支持されたジャングルポケットは序盤は中団にとりつき、終始外目を追走。馬群に入れずレースを進める。ライバルを見下ろしたような競馬にも見えるが、のちの気性を考えると、あえて他馬から離して走らせていたようにも感じられる。
1000m通過1分0秒3と締まった流れをジャングルポケットは4角手前から徐々に動きはじめる。だが角田晃一騎手の手綱は微動だにしない。荒々しいコーナーリングのため、馬群の大外、それも7、8頭分余計に外を回りながらも変わらぬ手応えのまま先に抜け出したチアズブライトリーやインに突っ込んだ船橋のシングンオペラを飲み込む。
残り200m標識を過ぎたあたりで抜け出すジャングルポケット。角田晃一騎手はそこから勝負を決さんと一気に手綱を緩め、追いはじめる。抑え込まれていたジャングルポケットは解き放たれると、一気に内側へ大きく切れ込んだ。角田晃一騎手が必死に右の手綱を引く。頭を上げてそれに抵抗するジャングルポケットはスタンドへ顔を向けながら走った。真っ直ぐ走らずに2着プレジオに2馬身差。これがジャングルポケットの『東京デビュー戦』だった。
その春はチーム・フジキセキ悲願、日本ダービー制覇。そして敢然と抜け出す最強王者テイエムオペラオーをただ一頭追いかけ、ゴール寸前で交わした秋のジャパンカップ。
冬から秋へ季節は移ろうも、東京競馬場の大外はジャングルポケットの指定席のままだった。
東京では負けない。
もしも──もしも、翌年2002年のジャパンカップが代替開催の中山ではなく、東京だったら、ジャングルポケットはジェンティルドンナより先にジャパンカップ連覇を達成したのではなかろうか。
そんな思いさえ抱かせるほど、ジャングルポケットは東京競馬場では無敵だった。
写真:かず