師匠と弟子。

この響きに、どんなイメージを持つだろうか。

競馬以外の話になってしまうけれど、私が愛して止まないダーツには師匠が居る。師匠と出会う前もダーツはしていたものの、今考えるとムチャクチャでありえないフォームで投げたり、定石を無視した攻め方をしていたように思う。私の仕事はダーツをすることではない。矢でサラリーをもらっているわけではないし、所詮は趣味。あくまで遊びであるから“師弟関係”といっても殴られることも大声で叱責されることも、まずありえない。アドバイスされるときは、満面の笑みで『こうした方が良いんじゃない?』と言ってもらえる。

ところが、仕事において穏やかな師弟関係というのは、私の周りにはあまりいない気がする。私がかつて勤めた会社で、師と仰いで一緒に仕事をした人がいたけれど、もし私がミスをしようものなら、電話越しでも対面でも、大声で怒られることがあった。最終的な責任はその人が取ってくれるので感謝はしていたが。

競馬の世界でも、こういった“師弟関係”というものが、一般社会に比べると根強く残っているように、個人的には感じている。競馬学校の騎手過程を卒業したデビュー間もない騎手は、まずは調教師の下で腕を磨く。そして競馬社会のイロハやルールといったものを叩き込まれることになるらしい。若い騎手にとって調教師は、まさに育ての親といえる存在なのだろう。

そんな競馬の世界の定年退職は、一般社会と違って70歳とされている。どんなに優秀な調教師も70歳を迎えると競馬界から離れざるを得ないのだけれど、ごく稀に、定年を待たずに調教師を勇退される方も現れる。

安藤正敏調教師。

2007年5月、JRAから「2ヵ月後の7月で調教師を勇退」することが発表された。そしてこの発表から4日後の2007年5月13日は、安藤調教師が弟子と臨む最後のG1レース、第2回のヴィクトリアマイルだった。 

安藤調教師がデビュー当時から育てた騎手というのは、2名しかいない。落馬事故で命を落とした岡潤一郎騎手と、川島信二騎手だ。

「いつかは、後輩が欲しい」

そう言ったものの、その願いが叶わず鬼籍に入ってしまった岡騎手。彼が抱いていた生前の希望を叶えるのに、死後8年が経っていた。安藤調教師自身も92年には脳梗塞で倒れ、懸命のリハビリで現場に復帰したという経緯がある。その復帰直後に愛弟子を落馬事故で失ったのだから、心中は察して余りある。なかなか管理馬にも恵まれず、不遇の時代が続いたこともあったが、2002年あたりからはオースミハルカやマイネルブラウといった馬たちが重賞戦線で勝ち負けをするようになった。そういった厩舎の屋台骨を支える馬に、安藤調教師は川島騎手を乗せ続けた。オースミハルカは22戦中17戦で川島騎手が騎乗。その期待に応えるべく、夏のクイーンステークスは川島騎手で2連覇、さらに3歳時から3年連続で出走したエリザベス女王杯では4歳時5歳時とも2着になる大健闘をみせた。

2002年の川島騎手は年間で32勝の勝ち星を挙げたのだが、そのうち所属の安藤厩舎での勝ち数は7。その翌年、2003年は全体の勝ち星こそ22勝で前年を下回ってしまうのだが安藤厩舎の馬で勝ったのは10回。つまり自厩舎での勝ち星は前年を上回る数字を残した。減量の恩恵が取れても、自厩舎の川島騎手にチャンスを与え続けた安藤調教師の心配りが見て取れる結果となった。

そして2005年、キャロットファームの持ち馬である1頭の牝馬が、安藤厩舎にやって来た。母の馬名であるマイワイルドフラワーからの連想で、ドイツ語で「花びら」という意味で名付けられた、ブルーメンブラットという馬だった。

桜花賞には間に合わず、何とか出走にこぎ着けたオークスでは競走中止した馬のあおりを受けてしまい9着に敗退。秋は自己条件を快勝して秋華賞に挑むも8着と、結局3歳シーズンは重賞を勝てないまま終わることとなった。

明けて2007年。

斑鳩ステークスを勝ってオープン入りを果たしたブルーメンブラットは、阪神牝馬ステークスで5着に入る。そして次走には、ヴィクトリアマイルが選ばれた。

自身の体調面だけでなく、自厩舎の所属だった岡騎手を事故で亡くして、苦労されたと聞いていた私は

「何としてでも安藤調教師にG1を勝ってもらいたい」と考えていた。

安藤調教師の過去の成績を紐解くと、大変興味深いデータがあった。1992年の安藤調教師は22勝を挙げていたのだが、そのうちの20勝が岡潤一郎騎手でのもの。それだけでも弟子を大切にされている調教師であることは明白だけれど、安藤調教師自身のG1制覇はまだ達成されていなかった。無事であればいつかは達成されたであろう、

「岡騎手とのコンビでのG1制覇」

を期待していたことは容易に想像できる。けれど岡騎手とのコンビでのG1制覇の可能性は絶たれてしまった。であれば、川島騎手騎乗でのG1制覇を夢見ていたと思うし、そのシーンを観たいという思いを私自身も強く持っていた。もちろん、このときのブルーメンブラットの鞍上は安藤調教師が育てた愛弟子、川島騎手。これ以上ないお膳立てが揃い、第2回のヴィクトリアマイルが始まった。

ハナを切ったアサヒライジングの直後、2番手で折り合ったブルーメンブラット。騎手と馬がケンカすることなく、ガッチリ手綱を抑えて追走している。手応えもある。

「安藤先生に、最後に大きいレースをプレゼントできて良かったです」

勝利騎手インタビューで川島騎手が受け答えする場面すら、私は想像していた。きっと彼はそう答えてくれるだろうと、勝手に思っていたのだ。

最後の直線に向いた。残り500m。渾身の力で川島騎手は馬を追った。けれど、前を走るアサヒライジングの手応えも良いし、後続の馬たちも襲い掛かってきた。必死に鞭を振るうが、次第に脚色が鈍くなる。

8着。

師匠と弟子の絆の強さだけでは、やはりG1レースを勝つことは出来なかった。こうして、安藤調教師と川島騎手という師弟で臨むヴィクトリアマイルは終わりを告げ、私が買ったブルーメンブラット絡みの馬券は全て紙くずと化したが、怒りや口惜しさといった感情は全く涌いてこなかった。

ブルーメンブラットの所属は安藤厩舎から、石坂正厩舎となった。それ以降、かつてのパートナーである川島騎手が手綱を取ることは、二度と無かった。

安藤調教師の下では重賞レースに手が届かなかったブルーメンブラット。デビューから重賞レースを勝つだけの器や力量はあるとされながら、結局、安藤厩舎にいるうちは大レースに縁が無いままだった。

……と、こんな風に書くと、安藤調教師の馬作りに問題があるように思うかもしれない。それはもちろん、違う。

調教師の仕事の1つには、競走馬を育て勝たせることもある。けれど、これはどんな世界にもいえることだが『人を育てる』ということも大事な仕事だと思う。その点に関して安藤調教師は、素晴らしいものを持っていた。

誰からも好かれ、「ジュンペー」といって慕われた岡騎手を育て、さらに競馬学校を出て間もなかった川島騎手を一人前のジョッキーに育てたのだから、安藤調教師の功績は小さくはない。私は今でもそう思っている。東京生まれの川島騎手が関西に拠点を置いて、騎手という仕事を続けていく環境を整えることが出来たのは、安藤調教師の影響もあったはずだ。

騎手だけではない。2005年の優秀厩務員賞を獲得した山本芳春厩務員も、安藤厩舎の所属スタッフだった。

一方のブルーメンブラットは、2008年の秋に行なわれた府中牝馬ステークスと、京都で行なわれたマイルチャンピオンシップを連勝して引退することになった。その2つのレースの直前に馬を仕上げたのは当時管理していた石坂調教師なのだが最後の最後で有終の美を飾ることが出来たのは、3~4歳時に無理をさせないローテーションを組んでいた安藤調教師の力もあったはずだ。

2人の調教師に愛を持って育てられたブルーメンブラットは繁殖生活に入り、子供を産むことが次の仕事となった。

いつかどこかのタイミングでブルーメンブラットの子が川島信二騎手を背に乗せて走ることがあるのならば……。

そのときは、精一杯の声援を送ると、今から私は決めているのだ。

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