私の学生時代は、英語を含めた外国語は中学からの義務教育であった。
当時の私ときたら「俺、将来は日本というか秋田で生活するし、外国人と話す機会なんか無いから勉強なんてしないわ!」と断言し、英語の学習を放棄したもので、そのツケが後々回ってきている。中学時代は英語の成績が原因で指定校推薦を逃し、高校時代は毎回追試で許してもらい何とか事なきを得ていた。
──今だから分かる。いかに色々のチャンスを逃しているかを。
初めて「フューチュリティ」という言葉を見た時には意味も分からず、口も回らず恥ずかしい思いをしたものだ。なんとなく「future」に近い言葉だとは想像はついたが、なるほど「未来」という意味だったと理解した思い出がある。
今回は、このレースから輝かしい"未来"を掴み取った3頭にスポットをあて、当時を振り返ってみたい。
ナリタブライアン(1993年)
「ビワハヤヒデの弟」が朝日杯に挑んでくる──。
当時の私にとって、ナリタブライアンの参戦は、その程度の認識だった。
ビワハヤヒデと言えば92年の朝日杯3歳S、93年の皐月賞、ダービーの全てで2着。夏を越えて挑んだ菊花賞で悲願のGⅠ制覇を達成した、安定感抜群の強豪だった。ウイニングチケット、ナリタタイシンらとの好勝負は見るものを熱くさせたし、その余韻は充分過ぎるほど残っていた。
その弟が、6戦3勝の成績でこのレースに挑んできた。
正直なところ、当時の私は能力こそ認めていたが、勝つとまでは思っていなかった。私が主役だと思っていたのは、松永幹夫騎手の「ボディーガード」。ナリタブライアンとはそれまでに2度対戦し、函館3歳Sで2馬身半、デイリー杯3歳Sでは4馬身離して勝っていた馬だ。
ナリタブライアンには、距離の問題もあった。先にも紹介した通り、本馬の兄は菊花賞馬のビワハヤヒデ。ナリタブライアン自身、マイル以下で4戦1勝の一方で、1,700m以上では2戦2勝で好タイムをマークしていた。ここで再びマイル戦になるのは、明らかに距離が短いと私の眼には映っていたのだ。
1993年12月12日。ゲートが開く。3番人気のタイキウルフと、デビュー戦をスピード感抜群で制しこのレースに挑んできたエイシンワシントンが好スタートで先手を奪う。ナリタブライアンは中団に控える展開。3コーナーで先団グループがもつれる中、ナリタブライアンの鞍上・南井克己騎手が激しく追うも、今一つエンジンがかからない。
──しかし、その数秒後、本当に驚く光景を目の当たりにする。やっとエンジンがかかった、シャドーロールをつけた黒光りする馬体が、外から迫力満点で上がってくるではないか。この時にはすでに南井騎手の手も、先ほどの様に激しくは動いていない様に私には見えた。
ここからは独壇場。「強い」以外の言葉は見つからなかった。このあたりから、「ビワハヤヒデの弟」ではなく「ナリタブライアン」としての地位を築き始めたのではないだろうか。
それ以降のナリタブライアンの活躍は、紹介するまでもないだろう。
皐月賞3馬身半。日本ダービー5馬身。菊花賞7馬身。
あのパフォーマンスをリアルタイムで見た競馬ファンにとって、ナリタブライアンは紛れもなく史上最強馬として名前があがる1頭である。
グラスワンダー(1997年)
誤解を恐れず言うが、日本人というのは「派閥」が本当に好きだなと感じる場面が、日常生活でも多々ある。
競馬で例えると、1998年の伝説の毎日王冠がそのひとつ。レース前には、「サイレンススズカ派」「エルコンドルパサー派」そして「グラスワンダー派」と、多くのファンが思い入れのある一頭に想いを馳せたものである。
グラスワンダーの伝説の始まりは、1997年9月13日の中山競馬場の新馬戦。スタートで立ち遅れるも、的場均騎手が鞭を一度も使うことなく3馬身差の快勝。続く10月12日のアイビーステークスも鞭を一度も振る事無く、持ったままで全馬より1秒以上速い上がりタイムでグングン引き離し5馬身差の快勝を収めた。
続く京成杯3歳Sは、メンバーが揃う一戦に。2戦2勝の新潟3歳S覇者クリールサイクロン、同じく2戦2勝で小倉3歳Sを制したタケイチケントウ、地方高崎で2戦2勝の後にダリア賞を制し新潟3歳Sでも2着のタマルファイター、3戦2勝でききょうSの勝ち馬ファイブポインターなど。そんなメンバーを相手に、グラスワンダーは単勝1.1倍に支持された。そしてこのレースも独走となり、一度も鞭を使うことなくグングン加速し、的場騎手が何度も後ろを確認しながら6馬身差の圧勝劇。怪物が世間に広く認識された瞬間だった。
1997年12月7日。怪物に、もはや敵はいなかった。単勝1.3倍の圧倒的支持。2戦2勝で京都3歳Sを勝ってきたフィガロも、2戦2勝で函館2歳Sを制し後に海外GⅠを2勝するアグネスワールドも、岡田総帥が惚れ込んだ素材のマイネルラヴも、グラスワンダーには敵わなかったのである。
いかにも師走の雰囲気が漂う曇天の中山競馬場。馬場は荒れ、走るだけで芝の塊が飛ぶような状態の中、怪物は従来のレコードタイムを0.4秒更新し、同日の古馬戦よりも0.7秒も速いタイムで駆け抜けた。
その後、骨折の影響で春を全休する事になるが、この馬が怪物として毎日王冠に挑んできてくれたおかげで、98年の毎日王冠は伝説のレースとして今でも語り継がれている。毎日王冠での敗北を乗り越え達成したグランプリ三連覇は、これもまた説明不要の大偉業である。
ローズキングダム(2009年)
「本当に、本当に、本当に、今度こそ大丈夫なんだよね?」
ローズキングダムの実力を信じつつも、レースが始まるまで自信が持てなった。何故ならば、彼が「薔薇一族」だからである。ローザネイから始まる、競馬界でも有数の華麗なる一族。しかしその一族は、重賞戦線で力をみせながら、GⅠの舞台になるとどうしても「あと一歩」が届かないのである。祖母ロゼカラーは何度も掲示板を賑わすも栄光には届かず、母ローズバドもオークス・秋華賞・エリザベス女王杯すべて上がり1位の末脚を見せながらも、いずれも2着……。
一族が、GⅠという高い壁に跳ね返された回数は、33回にのぼった。それだけ挑んでいること自体が驚異的な事も、重賞馬をこれほど多く輩出している事も、どれほど凄いか十分に理解できていた。それでも「薔薇一族」の文字を見ると、GⅠでは1着になることを信じてやれなかった。その勇気が持てなかった。
新馬戦は評判馬ヴィクトワールピサとの一騎打ちを制し勝利をおさめたローズキングダム。馬連はなんと1.5倍という圧倒的な支持で、単勝オッズの方が高くついたほどだった。2戦目の東京スポーツ杯2歳Sではトーセンファントムとの叩き合いを制し2連勝。そして元々は距離を延長する予定だったが、色々なめぐり合わせで朝日杯に出走する事になる。
2009年12月20日。この年の朝日杯でどの馬が勝つか考えるのは、本当に難しかった。ローズキングダム以外の15頭が、何らかのレースで敗戦を経験しているのである。しかも理由がハッキリとしている馬が多かった。今考えれば、2戦2勝の東スポ杯覇者だったローズキングダムが一枚上手の実力だったのだが、私の頭には強さよりも「薔薇一族」の印象が強すぎたのだった。最終的には重賞勝ち馬が本馬とエイシンアポロンしかいないという結論に至り、2頭の馬連とワイドを握りしめてレースを観戦する事になる。
得てして競馬というものはスンナリ考えた方が良い事もある。4コーナーから小牧太騎手の手綱捌きに応えるように馬群から抜け出すローズキングダムとエイシンアポロンの一騎打ちで人気決着。そして、薔薇一族は34回目の挑戦で悲願達成となった。
イメージだけではなく1頭のサラブレッドとして評価をしなければいけないと原点回帰したレースだった。
2014年から舞台が阪神競馬場へ移って行われている「朝日杯フューチュリティステークス」。
次はどんなニュースターが誕生し、栄光の"未来"を手にするのか、目が離せない。
写真:かず、Horse Memorys