牡馬クラシック第一戦、皐月賞。これまで幾多の名騎手たちが皐月賞を制しているが、その中でも皐月賞を得意とする騎手がいる。
古くは、皐月賞3連覇(1958~1960年)を達成した渡辺正人騎手。さらに、武豊騎手(1993年、2000年、2005年)も、皐月賞3勝を挙げている。しかし、皐月賞を4度制した騎手もいるのである。それがミルコ・デムーロ騎手だ。(2022年現在)
デムーロ騎手が騎乗し皐月賞を制した4頭を見ると、本命として勝ったこともあれば、伏兵的存在として勝ったこともある。今回はデムーロ騎手が騎乗して皐月賞を制した4頭を振り返りたい。
ネオユニヴァース(2003年)
デムーロ騎手がJRAの短期免許で来日したのは1999年のことであった。そして2001年には小倉大賞典で重賞初制覇を達成すると、2002年の皐月賞にタイガーカフェで皐月賞に初騎乗。そこでいきなり2着に入るなど、短期間で調教師や馬主をはじめとする関係者の信頼を得た。そして2003年の春、きさらぎ賞を制したネオユニヴァースに跨る事になった。
デムーロ騎手とネオユニヴァースのコンビが初めて結成されたのは、スプリングステークスだった。人気こそ朝日杯フューチュリティステークス2着のサクラプレジデントに譲ったが、距離のロスが発生する馬群の外側を終始回ってサクラプレジデントに快勝。馬群の外側を終始回り続けた理由として中距離以上でスタミナが持つか、騎手との折り合いを保てるか──皐月賞に向け、デムーロ騎手はこの2点を確認したという。
きさらぎ賞、スプリングステークスを制したネオユニヴァース。2003年の牡馬クラシックは混戦ムードが漂っていたが、皐月賞では単勝オッズが3.6倍の1番人気にネオユニヴァースが支持された。レースは終始インコースを走ったネオユニヴァースは第4コーナーに差し掛かると、前の馬を捌くのに苦戦。一方、ネオユニヴァースをマークしたサクラプレジデントは第4コーナーをネオユニヴァースよりも先に行って先団の馬を見る形で、レースの佳境を迎えた。
最後の直線に差し掛かった時、サクラプレジデントは馬群が空いた真ん中を突いて上がって来た。一方、ネオユニヴァースは逃げた馬の直後に付けたものの、馬群を捌ききれるのかが大きなポイントとなった。
その時であった。前を行く馬の間にスペースができた。迷わずデムーロ騎手はそのスペースへとネオユニヴァースを寄せる。
残り100m。サクラプレジデントが頭一つ抜け出したところにインコースからネオユニヴァースが並びに行く。ゴール手前でネオユニヴァースが頭一つ抜け出したところがゴールであった。
皐月賞を制したネオユニヴァースであったが、続く日本ダービーでデムーロ騎手が騎乗するのは保証されていなかった。というのも、デムーロ騎手の本国・イタリアのある調教師と専属騎乗契約を結んでいたのである。イタリアでも競馬が本格的に始動する時期であり、事実、皐月賞後、デムーロ騎手はイタリアへ帰国した。しかし、ネオユニヴァースの生産牧場である社台ファームの吉田照哉代表が調教師の所に馬を預けた事もあってか、日本での騎乗延長を調教師が了承。イタリアでの騎乗予定をキャンセルしてデムーロ騎手が日本ダービーに騎乗するために再来日した。そして、外国人騎手の日本ダービー初制覇を達成。雨の中で駆け付けたファンから自然と巻き起こった「ミルココール」は、デムーロ騎手の心を掴んだらしい。
ネオユニヴァースは2021年3月に急逝。デムーロ騎手は自身のインスタグラムで「あなたは間違いなく私の人生を変えてくれました。」と追悼した。
ダイワメジャー(2004年)
ネオユニヴァースで皐月賞を制した翌年の2004年春、デムーロ騎手は再び短期免許で来日した。そして皐月賞では、スプリングステークスで3着に入り皐月賞への優先出走権を獲得したダイワメジャーの騎乗依頼を受けた。
ダイワメジャーといえば、母はJRAで重賞競走を4勝挙げたスカーレットブーケ、姉には新潟3歳ステークス(現在の新潟2歳ステークス)を制し桜花賞でも3着に食い込んだダイワルージュがいる良血馬である。
ところが牧場時代には気に入らない所があれば頑なに反抗する性格であったらしい。そして、競走年齢の2歳に達した2003年に本州でトレーニングを行っても、すぐに北海道に戻された。そこでホッカイドウ競馬に所属する五十嵐冬樹騎手に調教騎乗を依頼すると、幾分、素直になったという。
2歳の冬にデビューしたダイワメジャー。ところが、そのデビュー戦のパドック前の装鞍所ではJRAから出走取消を打診されたほどに暴れ、パドックでは地面に這いつくばるなどの気性の難しい面を見せた。本馬場入場後も十分なウォーミングアップができなかったダイワメジャーは2着に敗れてしまう。
ダイワメジャーの勝ち上がりは、3歳(2004年)正月の未勝利戦。そして4戦目のスプリングステークスに出走し3着と健闘すると、皐月賞への優先出走権を獲得した。生産牧場である社台ファームの吉田代表の進言もあり、それまで騎乗した菊沢隆徳騎手からデムーロ騎手へと乗り替わりとなったという。
迎えた皐月賞当日。人気はホッカイドウ競馬所属で弥生賞を制したコスモバルクとスプリングステークスを制したブラックタイドが抜けた人気となり、ダイワメジャーは単勝オッズ32.2倍の10番人気に留まった。
メイショウボーラーが前半1000mを59.7秒と速いラップを刻むなか、2番手を追走したダイワメジャー。直線でメイショウボーラーを交わして先頭に立つと、コスモバルクの追撃を振り切り先頭でゴールした。走破タイムの1分58秒6はコースレコードに0.1秒差迫るという内容であった。
ダイワメジャーと言えば、安藤勝己騎手で結果を残しているイメージが強い人も多いかもしれない。事実、皐月賞以外の4つのG1レース制覇の際は、安藤騎手が跨っていた。しかし、2006年の中山記念や、引退レースとなった2007年の有馬記念にデムーロ騎手が跨り、それぞれ2着、3着と好走をしている。有馬記念後に行われた引退式にもデムーロ騎手は参加し、「皐月賞は思い出に残るレース」と回顧している。
ダイワメジャーは種牡馬となり、デムーロ騎手とのコンビでもG1ホースを送り出している。2014年の高松宮記念を制したコパノリチャード、2018年の朝日杯フューチュリティステークスを制したアドマイヤマーズはデムーロ騎手が騎乗しての勝利であった。
ロゴタイプ(2013年)
ダイワメジャーで皐月賞2勝目を挙げたデムーロ騎手。その後も短期免許で頻繁に来日していた。短期免許での来日期間中にスクリーンヒーローでジャパンカップ(2008年)を、ネオユニヴァースの子供のヴィクトワールピサで有馬記念(2010年)も制している。また、2012年の天皇賞・秋でエイシンフラッシュにて制した際には観覧されていた天皇陛下(現在の上皇陛下)ご夫妻に対し、馬から降りて最敬礼を行うなど日本の競馬に慣れ親しんだ。
その2012年の秋の短期免許でコンビを組んだ1頭が、翌年に皐月賞馬となるロゴタイプだった。
一般的に牡馬クラシックを目指す馬は芝1600m以上のレースでデビューする馬が多いが、2歳(2012年)6月の函館競馬でデビューしたロゴタイプは、芝1200m戦に出走。そこで勝ち上がったロゴタイプは、続く函館2歳ステークスでも4着に入るなど善戦していた。
札幌2歳ステークス(4着)の後、休養に入ったロゴタイプ。5戦目の500万下のベゴニア賞ではワールドスーパージョッキーズシリーズの海外招待騎手として来日していたデムーロ騎手とのコンビで勝利を収める。そしてデムーロ騎手が短期免許を取得し挑んだ朝日杯フューチュリティステークスを制し、最優秀2歳牡馬に輝いた。
3歳(2013年)になったロゴタイプはスプリングステークスから始動。この時は弟のクリスチャン・デムーロ騎手が跨り、好位から早めに抜け出して快勝する。そして、再びデムーロ騎手が短期免許で来日し、皐月賞に挑んだ。
2013年の皐月賞は3強の争いとなった。1番人気はロゴタイプであったが、単勝オッズは3.6倍。2番人気はラジオNIKKEI杯2歳ステークス(現在のホープフルステークス)を勝ったエピファネイアで単勝オッズは3.9倍。3番人気には東京スポーツ杯2歳ステークスなど重賞2勝の実績を有するコディーノが4.4倍であった。
レースは前半1000mが58.0秒のハイペースで流れる中、中団に待機していたロゴタイプとエピファネイア、それにコディーノが抜け出し、3強の戦いとなった。しかし、最後はロゴタイプがエピファネイアに1/2馬身(0.1秒)差を付けて先頭でゴールイン。走破時計の1分58秒0は中山競馬場芝2000mのコースレコードでもあった。また、朝日杯フューチュリティステークスを制した馬がクラシックレースを制したのは1994年のナリタブライアン以来19年ぶりとなった。
日本ダービーは再び、クリスチャン・デムーロ騎手が跨ったが、キズナの5着に終わった。その後、デムーロ騎手は3度ロゴタイプの背に跨ったが、勝ち星を挙げる事は出来なかった。しかしロゴタイプは6歳の安田記念で皐月賞以来3年2か月ぶりに勝利をおさめるなど、早く引退する皐月賞馬がいる中で7歳まで第一線で活躍を続けたのだった。
引退後は種牡馬になったロゴタイプ。種牡馬1年目から阪神ジュベナイルフィリーズ2着のラブリイユアアイズを送り出すなど上々のスタートを切っている。
ドゥラメンテ(2015年)
ロゴタイプまでの3勝は、JRAの短期免許制度を利用しての皐月賞勝利であった。しかし、母国のイタリアが金融危機に陥ってからは、賞金不払い問題など様々な問題が発生。デムーロ騎手は日本での短期免許制度が終わると香港やヨーロッパの競馬場で騎乗していた。さらには氷の上で競馬を行うスイスのサンモリッツ競馬場で行われる雪上競馬にも騎乗した。
ロゴタイプで皐月賞を制した2013年の秋にJRAの通年騎乗を目指してJRAの騎手免許を受験したものの不合格。2015年1月に2度目のJRAの騎手免許を受験し、クリストフ・ルメール騎手と共に合格すると、3月よりJRAの騎手として新たなるスタートを切った。そして、2015年の皐月賞にはドゥラメンテと共に牡馬クラシック戦線に挑む事となった。
父がキングカメハメハ、母はエリザベス女王杯を連覇したアドマイヤグルーヴ、そして母方の祖母には天皇賞・秋を制したエアグルーヴがいる良血馬・ドゥラメンテ。大物感あふれる馬体で早くから期待されていたが、2歳(2014年)秋のデビュー戦では出遅れて2着に惜敗。続く2戦目は2着の馬に6馬身(1.0秒)差を付ける圧勝を演じたものの、ゲート内で立ち上がるなど、スタートに不安のある馬であった。
一度放牧に出され、トレーニングセンターに戻ってからはゲート内で落ち着かせる練習をした。それが功を奏したのか3歳(2015年)初戦のセントポーリア賞では2着に5馬身(0.9秒)差を付け、一躍牡馬クラシック戦線の主役候補に名乗りを上げた。ところが、続く共同通信杯では騎手との折り合いが悪く、2着に敗退。皐月賞トライアルには出走せずに、皐月賞へと直行した。
共同通信杯が終わり、ドゥラメンテの騎手がデムーロ騎手に決まり、迎えた皐月賞。1番人気には弥生賞を制したサトノクラウンで単勝オッズは3.1倍、2番人気には共同通信杯を制したリアルスティールで単勝オッズは3.8倍。重賞レース未勝利のドゥラメンテは、スプリングステークスを制したキタサンブラックを上回る3番人気の4.6倍の支持を得た。
レースはクラリティスカイが逃げ、キタサンブラックが2番手に控える展開となる。サトノクラウン、ドゥラメンテは後方に待機。前半1000mの通過タイムが59.2秒と速い流れでレースは進んだ。第3コーナーに差し掛かる時、サトノクラウンが馬群の大外に寄せる一方、ドゥラメンテはインコースから突き抜けるのを狙って内へと進路を取ろうとしながら第4コーナーを回ろうとした。
その時であった。
ドゥラメンテが大きく外側へ寄れてしまった。
これまでは左回りの東京競馬場でしか走っていなかったドゥラメンテが初めての右回りで行われる競馬に慣れていなかったのか、あるいは内側にスペースが無くデムーロ騎手のとっさの判断で外へ寄せたことにドゥラメンテが過剰反応したのか──。兎にも角にも、ドゥラメンテは馬群から離れた大外に振られてしまうアクシデントが発生した。
直線が約300mしかない中山競馬場でコースロスをしてしまったドゥラメンテ。対照的にリアルスティールとキタサンブラックはインコースを突いた。リアルスティールが先頭に立って残り200mの標識を通過しようとした時──。
大外からドゥラメンテがやって来た。
ドゥラメンテの高性能エンジンが点火すると、瞬く間にリアルスティールを交わして先頭に立つ。そしてゴールした時にはリアルスティールに1馬身1/2(0.2秒)差を付けて先頭でゴールインした。しかも、上がり3ハロン(ラスト600m)のタイムが33.9秒。2番目に速かったリアルスティールらの34.5秒を大幅に上回るタイムで駆け抜けていった。しかも、中山競馬場で上がり3ハロンのタイムが33秒台を叩き出す馬は多くはない。実況したアナウンサーが「これほどまでに強いのか、ドゥラメンテ!」と叫んだ通り、異次元ともいえる走りであった。
もっとも、当のデムーロ騎手は勝利騎手インタビューで「ちょっと怖かった」とコメント。また、ドゥラメンテが大きく外側へ寄れた件でデムーロ騎手はレース後騎乗停止処分を受けた。
混戦と言われた2015年の牡馬クラシックだったが、皐月賞後は「ドゥラメンテ一強」の様相となった。東京競馬場で行われた日本ダービーでは最後の直線の坂で先頭に立つと、サトノラーゼン以下の後続を振り切り、牡馬二冠に輝く。
4歳(2016年)の宝塚記念のレース中に負った怪我で引退し、種牡馬入りしたドゥラメンテ。2021年8月に急逝したが、初年度産駒から菊花賞を制したタイトルホルダー、小倉大賞典を制したアリーヴォらを、2世代目からも桜花賞馬スターズオンアースらを送り出している。
写真:Horse Memorys、s.taka