[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]走る馬はへこたれない(シーズン1-19)

パトリオットゲームのデビュー戦を観に、川崎競馬場を訪れました。一昨日もパドック解説で川崎競馬場には来たので、もう寝ていてもたどり着けるぐらいの感覚です。と思って余裕をかましていると、なぜか時間ギリギリの到着になりそうで、川崎駅からタクシーを使ってしまいました。15時半に川崎競馬場に駆け込むと、これからひとつ前のレースが発走するところでした。何とか間に合ったようです。本馬場を背に、パドック周りの浅い階段に腰掛け、僕は待つことにしました。

大狩部牧場の下村社長から電話があり、その話をエクワインベットオーナーズの上手獣医師につないだのが約半年前。話も即決でしたが、あっという間にデビュー戦を迎えたことになります。上手い話というのは全てが上手く行くものでしょうか。

正直に言うと、パトリオットゲームの件に関して僕は少なからず責任を感じていました。売買を決めたのは下村社長と上手獣医師であったとしても、間に入って話を持ちかけたのは僕であり、もしパトリオットゲームが箸にも棒にもかからなかったり、病気や怪我で走れない馬であったとすれば、僕たちの信頼関係も無傷ではいられないはずです。僕がパトリオットゲームを買い取って走らせれば下村社長と僕だけの問題で済んだのですが、当時、僕は生産に専念すると心に決めていましたので、良く言えば上手獣医師に話をつないだ、悪く言えば上手獣医師を巻き込んだということになります。

もちろん、下村社長から立ち写真を見せてもらったとき、牝馬にしては馬格がありそうで立派な馬だとは思っていました。牝馬らしい線の細さは皆無でしたから、力の要るダート競馬は合いそうだとも感じました。もともと中央競馬でデビューさせることになっていたという経緯も聞いていましたので、提案された価格もお買い得でした。ただ、サラブレッドが走るかどうかは誰にも分かりませんし、期待どおりに走らないことがほとんどです。ということは、この取り引きが成立した時点では、客観的に見て、誰もが損をする確率が高かったということになります。あえてプラス面を言うならば、僕の盟友同士である下村社長と上手獣医師がパトリオットゲームを通してつながったということぐらい。

責任を感じた僕はパトリオットゲームに数口出資しましたし、マウンテンビューステーブルに入厩して育成が始まってからは、祈るような気持ちで成長を見守りました。上手獣医師が自らパトリオットゲームの背に跨り、鍛えてくれている姿を動画で見て、このまま無事に行ってくれと願いました。実際に騎乗している上手獣医師から、歯切れの良いコメントが出てくるたびに、少しずつ期待も高まります。もしかすると、馬代金ぐらいは稼いでくれるかもしれない。上手獣医師に損をさせることは回避できるかもしれないと。

パドックを前に座りながら、そんなことを思い出していると、僕の目の前にビニール袋が飛んできました。スーパーで魚や肉のパックを入れる、小さくて透明なあのビニール袋です。絵にかいたように宙を舞い、地面に落ち、しばらくじっとしていると思ったら、また風に吹かれて舞い始めます。もしさらに強い風が来て、ビニール袋がパドックの中まで飛んで行き、舞うようなことが起これば、馬たちは驚いてパニックを起こしてしまうかもしれません。次は新馬戦であり、初めて競馬場に連れてこられてパドックを歩かされる馬たちによるレースです。全てが初めての経験なのに加え、馬の苦手なビニール袋が舞っていたらさぞかし嫌だろうな。ビニール袋が止まった瞬間に取り除こうと、腰を上げようとした矢先、後ろからヒールがアスファルトの地面を叩く音がして、女性がビニール袋を拾ったのでした。

僕は座りながら、軽く会釈をしました。彼女に伝わったかどうか分かりませんが、素晴らしい行為に対する感謝と尊敬の気持ちです。僕も彼女も同じことを考えながら、舞うビニール袋を見ていたはずですが、彼女の方が行動に移すのが一歩早かった。その一歩の違いが大きいのです。現実的に行動した彼女としなかった僕の違いであり、問題を未然に解決した彼女と何もできなかった僕の違い。もし彼女がいなくて、僕のタイミングで拾いに行っていたら、ビニール袋はさらに舞って手の届かないところに行ってしまっていたかもしれません。最悪の事態を想像するとすれば、第3レースの出走馬が登場した際にビニール袋がパドックを舞い、係員もつかまえ切れず、パトリオットゲームや他の出走馬たちが興奮状態に陥って暴れ出し、収拾がつかなくなっていたかもしれません。僕たちの生きている世界は、誰にも知られない善意の行動に救われているのです。

第3レースの出走馬たちがパドックに登場しました。5頭立ての5番がパトリオットゲームですから、すぐに見分けがつきます。自分がパドック解説をしているつもりで、客観的に見てみても、パトリオットゲームは落ち着いて歩けています。馬体も他馬に比べてひと回り大きく、線の細さはありません。当日の馬体重が464kgと思っていたよりも小さいのですが、このメンバーでは最も大きい馬体です。能力試験のタイムや当日のパドックの様子を見ると、冷静に考えても負ける要素はひとつもありません。競馬に絶対はありませんし、絶対ほど怖いものはないのですが、普通に回ってくれば勝てると確信しました。

僕はカメラを肩にかけ、ゴール板前に陣取りました。川崎競馬場の900mコースは、向こう正面から発走になります。肉眼では確認できませんので、ターフビジョンでスタートの瞬間を凝視していると、パトリオットゲームはポンと出てしばらく4番の馬と並走したのち、先頭に立ちました。その後は、和田譲二騎手も手応え十分という騎乗で馬なりのまま5馬身の差を2着馬につけてゴール。最後の直線の途中から勝利を確信しましたが、目の前を先頭で通過してくれたときは嬉しさがこみ上げてきました。そして安堵しました。

川崎競馬における今年初のスパーキングデビュー新馬を、僕たちの馬が勝ったのです。これを上手く行ったと言わずして何と言いましょう。1着賞金は420万円、これに能力試験に合格した奨励金100万円を合わせると計520万円になります。エクワインベットオーナーズでの募集価格が480万円ですから、すでに募集額はペイしたことになります。上手獣医師はもちろん、出資してくださった方々も喜んでくれていることでしょう。口取りの光景を後ろから撮影しながら、競馬は勝つとたくさんの人たちが喜んでくれるのだと改めて思いました。勝ちたい、勝たなければならない、勝てる馬を育てなければいけない、そんな感情を抱きながら、僕はシャッターを切り続けました。

競馬場を後にして、帰りの電車に乗ろうとしていると、上手獣医師から電話がかかってきました。まずはひと安心ですと伝えると、その後はお互いにパトリオットゲームの夢を語り合いました。今だから語れる未来もあるのです。パトリオットゲームの育成時代の話になったとき、「とにかくへこたれない馬でしたね。バリバリ乗っても食欲が落ちたことは一度もないし、飼い葉桶がピカピカになるぐらい残しませんでした。育成を始めてからわずか数か月でここまで持ってこられたのは、厳しい鍛錬に耐えられたからこそ。走る馬というのは、へこたれずに鍛えられるから走るのでしょうね」と上手獣医師が育成秘話を教えてくれました。

ちょうど先週、社台スタリオンステーションの徳武英介さんにインタビューした際も、スワーヴリチャード産駒は調教を休まないのでいつの間にか仕上がってくるという話を聞いていたので、まさにそういうことだとつながりました。競走能力が高いとか脚が速いとかは確かにあるのですが、その前段階として、育成や調教の厳しさに耐えられ、へこたれず、飼い葉食いが落ちることなく、休まずに走り続けることができるかが競走馬の資質として大切なのです。全てを満たしているパトリオットゲームには、競走馬としての明るい未来が待っているはずです。福ちゃんもへこたれない馬になれるでしょうか。

(次回へ続く→)

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