セレクションセールまで1週間と迫ったあたりで、僕は吹っ切れました。もし主取りになってしまった場合(その可能性は高いのですが)、自分で走らせようと思うようになったのです。僕にとって初めての生産馬ですから、誰も欲しいと思ってくれる人がいないならば、自分で走らせればよいのです。そもそも、この連載の前身である「馬主は語る」自体が、「本書の印税は全て、競走馬を買うことに使わせてもらいます」と宣言したところから始まっています。巡り廻って、自分で生産した馬の馬主になるのは自然な流れなのではないでしょうか。
自分で走らせると言っても、様々な形が考えられます。自分で100%の所有権を持って、走らせる1頭持ちパターン。地方競馬は20名までの共有馬主が認められていますので、誰かを募って共有するパターン。もしくは一口クラブ法人で募集してもらうパターン。これら3パターンの中から選ぶとすれば、最後の一口クラブ法人(たとえばユニオンオーナーズやターファイトクラブ)はすでに1歳馬の募集が始まっていますので、タイミングが悪いかもしれません。さらに言うと、セレクションセールで売れ残った馬に需要はあるのでしょうか。
現実的なのは前の2パターンです。自分で全て持つのであれば決断は簡単で、その代わりに、この先にかかってくる全ての育成費や厩舎の預託費などを負担することになります。もちろん、走って得た賞金も総取りです。共有馬主にするとすれば、共有者を募らなければいけません。共有したいと名乗り出てくれる方々がいたとしても、その後の全ては彼らと相談しながら進めていくことになります。ああでもないこうでもないと話し合いながら楽しめるとすれば、それは新しい馬主の形なのかもしれませんが、逆にそれぞれの意見や考え方をまとめるのも大変そうです。また、収入と支出を明確にして、共有者に請求したり支払いをしたりする事務作業が出てきます。経済的な負担は減るかもしれませんが、そうした調整や事務の負担は膨大であることが想像できます。1頭持ちにも共有にも、メリットデメリットがありますね。
いずれにしても、ダートムーアの23が走ってくれて、繁殖牝馬として碧雲牧場に戻すことができたら最高です。よく考えてみると、自分で走らせるとすれば、馬代金はかからないのです。これまでに出て行っている経費はさておき、ニューイヤーズデイ×ダートムーアという一流の血統の1歳牝馬を僕は無料で手に入れる権利を今持っているのです。セレクションセールで普通に買おうとしたら、僕には到底手の届かない、買う勇気さえ出ない馬であることも確かです。
ちなみに、ダートムーアの初仔(父ゴールドアリュール)はセレクトセールで5832万円、4番仔のフィングルブリッジ(父キンシャサノキセキ)は社台グループオーナーズで1800万円、5番仔のグレイウェザーズ(父キンシャサノキセキ)はサンデーレーシングで1800万円、6番仔のハイウィルヘーズ(父リアルインパクト)は社台グループオーナーズにて1400万円で募集されています。一口クラブやオーナーズクラブだから値段は抑えられていますが、セリに上場されていたら2000万円は下らなかったはずです。名牝ダイナカールの血を引き、フラムドパシオンを全兄に持つ、ダートムーアの仔は外に出さないようにクラブで囲われてきたということでもあります。
さすがにフィングルブリッジが全く走らなかったり、グレイウェザーズとハイウィルヘーズが小さく生まれてきたりしたこともあって、ダートムーアは見放されて僕の手に渡ったのでしょうが、もともとは名牝系の血を継ぐ期待の大きかった繁殖牝馬の1頭だったはずです。そのダートムーアにニューイヤーズデイを配合されて生まれてきた牝馬が僕の手元にいるのです。たしかに前肢の球節に骨片が飛んでいる跡があるとはいえ、僕が買おうと思っても買える馬ではないはずです。
もし無事に走ってくれたら御の字ですし、脚元に不安が出てしまって競馬場まで辿り着けなかったとしても、繁殖牝馬として活躍してくれるかもしれません。何と言っても、サンデーサイレンスの血が一滴も入っておらず、(父がニューイヤーズデイであることで)日本で主流となっているキングカメハメハやストームキャットの血もなく、母ダートムーアよりもノーザンダンサーの血は薄まっています。濃いインクロスが生じにくく、配合相手(種牡馬)の幅という点では、繁殖牝馬としては福ちゃんよりも広いはずです。
とはいえ、せっかくならば、競走馬としても実績を残したいところ。ダートムーアの23が活躍してくれたら、その分、妹にあたる福ちゃんの価値も高まります。万が一、福ちゃんが競走馬になれなかった場合も、お姉さんが走ってくれたらファミリーとしてカバーできるのです。もちろん、どちらも競走馬として大成し、さらに繁殖牝馬として活躍馬を出して、母ダートムーアひいてはダイナカール牝系の力を証明してくれたら最高です。そう考えたら、地獄の底からも、少しだけ光が見えてきました。
夢にまで見た1日のはずでした。2021年の10月にダートムーアを購入し、何が起こってもひたすらに我慢を重ね、3年越しでようやくたどり着いたセレクションセールの舞台。僕にとっては、生産者として初めてのセリであり、初の晴れ舞台になります。普通ならば、意気揚々と胸を張って臨んでいたはずです。
にもかかわらず、相変わらず浮かない気持ちで僕はセレクションセール当日を迎えました。誰も買ってくれずに主取りになってしまう可能性は高く、もし売れたとしても決して高くなることはないだろうという冷めた気持ちが大半で、万が一、競り上がったらという期待はわずかでした。売れてくれたらいいや、というのが正直な気持ちでした。
このテンションの低さをどう表現すれば良いのでしょうか。肩の痛みでいつもの速球が投げられず、それでも甲子園の決勝戦に臨まなければならないひとりエースの気持ちでしょうか。立っているのがやっとなぐらい足を怪我してしまったのに、メインイベントで強豪と戦わなければならない格闘家の気持ちでしょうか。大勢の観客の前で、打たれる(倒される)ことが分かっているのに、そのことを誰にも言えずに、大舞台に立つときの心境。自分には最悪の結果がはっきりと見えているにもかかわらず、観客はまだその未来を知らないという状態です。平気な顔をしていても、心は鬱々としています。
新千歳空港に理恵さんが迎えに来てくれました。僕がどんな心境にあるかを半ば察しつつも、いつものマシンガントークをしてくれる理恵さんには救われます。空港から碧雲牧場を通過し、そのまま静内にあるセレクションセール会場に向かいました。2日目の早い段階で碧雲牧場のトウカイファインの23(父アドマイヤマーズ)の出番が回ってくるからです。碧雲牧場の1番馬であり、慈さんたちにとっての晴れ舞台を見守らないわけにはいきません。
トウカイファインの仔にはトウカイセンスやトウカイラルゴ、ベンチャーアウト、ガラパゴスなど堅実に走る馬たちが多く、未知の魅力のあるアドマイヤマーズを迎えたトウカイファインの23はおそらく高額で取り引きされる可能性は高いはずです。しかもレポジトリを撮っても、脚元には何の問題もなかったそうですからなおさら。むしろどれぐらいまで値が上がるだろうかと期待は高まり、その分、慈さんの緊張はマックスに近づいているのではないかと想像します。
スムーズに会場に到着したため、まだセリ自体が開始されておらず、馬房を訪ねてみると慈さんたちはリラックスしていました。この日のために、慈さんの弟である暁洋(あきひろ)さんが手伝いに来てくれていました。彼は社台ファームに務めていますが、このような大事な日は実家の牧場に戻ってきて、家族のために馬を持つのです。馬を持つというのは、セリで馬を引くということです。簡単に思われるかもしれませんが、暴れて手綱を離してしまったら大変なことになりますし(今回のセリでも放馬が何件か起こりました)、かといって押さえつけてしまっても馬が元気なく映ってしまいます。手綱を適度に預けたり抑えたりして、きちんと躾けがなされていると思われつつ、活気があるように見せなければならないのです。
この日、暁洋さん以外にも慈さんのお母様、牧場スタッフの面々も総出で見に来ていました。理恵さんは「いっちょうらのシャツを着てきた」と冗談めかして言っていますが、まさにセリは生産にたずさわる全ての人々にとっての晴れ舞台なのです。そんな中で、トウカイファインの23の馬体にワックスを塗って光沢を出したり、脚元を整えてピカピカに仕上げていく慈さんの背中が実に大きく見えました。お父さまから牧場を受け継ぎ、決して順風満帆なスタートではなかったと思いますが、10年かけて地道に基盤を固めてきました。もちろん、サラブレッド産業の活況の波に乗れたことは大きいのですが、365日間、風邪を引いても休めない日々を積み重ねてきて、彼はここに立っているのです。
碧雲牧場の皆さまと昼食を食べながら話をしていると、セリがスタートして少しずつトウカイファインの23の出番が迫ってきました。1日目に行われたプレミアムセールの余韻がまだ残っていて、とても良いタイミングでの上場になると感じます。185番がアナウンスされ、パレードリングを回る順番が回ってきました。馬房から出て、そのままパレードリングを数周歩き、さらに屋内のパドック的な場所を回りながら出番を待ちます。碧雲牧場の皆は心配そうに、トウカイファインの23の勇姿を見守っています。理恵さんは「ファイン落ち着いて」と声をかけています。1頭ずつハンマーを打ちおろす音が鳴り響くたびに、185番が近づいてきます。
185番が呼ばれ、直前まで談笑していた慈さんは真顔になって鑑定台の裏に入っていきました。このスペースには生産者しか入れません。セリが開始されると、すでに1000万円から声が挙がっていたようで、そこから100万円単位でセリ上がっていきます。1100万、1200万、1300万と順調に2300万円まで上がって、そこで止まりました。スポッターが少し促してくれましたが反応はなく、2300万円のままハンマーが落とされました。
あとから聞くと、慈さんとしては、3000万円ぐらいは行くと良いなと思っていたので、やや希望を下回ってしまったという気持ちだったそうですが、ひとまず売れて安心というところでしょうか。鑑定台から戻ってきた慈さんはホっとした表情を浮かべています。「おめでとうございます」と僕たちは握手をしました。
その後すぐに、記念撮影の場所に向かいました。セリで馬を買ってくれた人が購入した馬と記念撮影をするスペースがあるのですが、そこに行って馬主さんにお礼と挨拶をするのです。慈さんはトウカイファインの23の馬主さんに名刺を渡していました。購買者は株式会社ニッシンホールディングスという、2023年のニュージーランドトロフィーを制したエエヤン(父シルバーステート)やシランケドといったユニークな名前をつけているオーナーさんです。関西の方なのでしょうか。
(次回へ続く→)