忘れちゃいけない、藤沢和雄厩舎を彩った個性派たち

2022年2月末日、関東を代表する名伯楽・藤沢和雄調教師が引退する。2年連続最優秀短距離馬に輝いたグランアレグリア、ダービー馬レイデオロ、秋中距離GⅠ3連勝のゼンノロブロイ、有馬記念連覇のシンボリクリスエス、ジャック・ル・マロワ賞を勝ったタイキシャトル。師が管理した名馬をあげればきりがない。

馬なり調教、前哨戦を使わないローテーション、レース当日の引退式。すべては馬の負担を最小限に抑え、その馬の可能性をより広げ、そして引退後の価値を高めるといった信念を貫いた上での変革だった。そんな名馬の物語、変革の歴史について、引退を機に様々なメディアで取り上げられるだろう。一方で、藤沢厩舎の馬といえば、グランアレグリアのようなお行儀のいい優等生といったイメージがある。だが、その歴史をひも解くと、実は様々な個性的な馬も在籍していた。ここでは1995、96年生まれの藤沢厩舎の個性派についてあえて振り返りたい。

リアルヴィジョン(95年生、JRA6勝)

父サクラユタカオー、母メイショウスキー(母の父マルゼンスキー)、半兄はGⅢ時代のフェブラリーハンデを勝ったメイショウホムラ。リアルヴィジョンは98年10月4日、兄をはるかに越える570キロでデビュー。舞台は既走馬相手の中山ダ1800mの未勝利戦。

藤沢厩舎所属とあって4番人気に支持されたものの、スタートで出遅れ、最初の正面直線から岡部幸雄騎手が手綱を動かすも、まったく進んでいかず、ポツンと最後方。横山典弘騎手のポツンとは比にならない、いわゆるレースに参加できていない状態であり、画面に映るリアルヴィジョンは岡部騎手が押しっぱなし。無理せず後ろからではなく、無理しても後ろのまま。

ところが向正面終わりから突如、行き脚がつきはじめ、4コーナー手前でみるみる離れた差を詰めていく。馬群にとりつくも、巨漢馬らしく不器用なコーナリングで大外追走。4コーナーでは8頭以上外を回って直線に向く。逃げるリワードグランツに乗る蛯名正義騎手は後ろを振り返り、ほぼ勝利を確信した。

残り200m。大勢決したかと思われたそのとき、大外をドタドタと豪快に駆けあがるリアルヴィジョンが画面に入る。鞍上の岡部騎手は必死に追ってはいない。最後は手綱を持ったまま。追い込みを決めたというより、リアルヴィジョンが勝手に走ったかのようだった。まるで馬が途中で競馬をしていることを思い出したかのようだった。競馬史に残る伝説の追い込みはほかにもたくさんあるが、これほど馬が気ままに走った追い込みは例がない。上がり36.7は次位39.3に2.6差。相手が走らなかったこともあるが、早い上がりが出ない中山ダ1800mでこれほど大差をつけた記録は記憶にない。

そのリアルヴィジョンは巨漢馬の宿命とも呼べる脚元の不安を抱えていた。衝撃のデビューから5戦3勝2着1回3着1回と順調にキャリアを重ねたのち、8カ月休養。夏の札幌で復帰後、さらに6カ月休み、師はリアルヴィジョンの脚元を考え、慎重にローテーションを組んだ。ようやく脚元の不安が解消されたのは現年齢5歳の冬。900万下を突破したリアルヴィジョンを師は芝へ挑戦させる。父はサクラバクシンオー、エアジハードを出したサクラユタカオー。メイショウホムラはダートだが、この血統は芝でこそ。おそらく、師はリアルヴィジョンを芝で走らせたかったはずだ。

初挑戦は3戦目東京芝1800mで2着。手応えはあったはず。しかし体が大きく、脚元に不安があるリアルヴィジョンに無理強いをせず、成長を待ちながら状態を見極めた上で再挑戦に踏み切った。5歳春ダービーデイ当日の芝1800mむらさき賞で勝利。血統通り、豊かなスピードを武器に東京の時計が出る芝で結果を出した。秋には同じコースで準オープンを突破。最後は芝2000m中京記念に挑戦した。これもまた馬の可能性と状態を丁寧に考える藤沢和雄調教師だからこその成績だった。

エアスマップ(95年生、01年オールカマー)

アイルランド産で父デインヒル、母サトルチェンジの外国産馬。リアルヴィジョンの同期エアスマップは順調に現2歳11月東京芝1600mでデビュー。岡部幸雄騎手を背に逃げて2着。中1週で挑んだ折り返しの新馬戦を快勝。藤沢厩舎といえば、狙うなら新馬より折り返しの新馬というセオリーが懐かしい。格上げ後は3、2、3、6着。先行する安定感ある大人びたレースをするも、前に馬を捕えれず、後ろの馬に差される競馬を繰り返した。外国産馬なのでクラシックには出走できないまでも、賞金を加算しないことには前には進めない。2勝目は5月東京芝1400m若鮎賞。雨が降る道悪が幸いしたか、3番手から前を捕らえ、後ろの追撃もしのいだ。

エアスマップはスタートもよく、好位にとりつけるダッシュ力もあり、操縦性の高い優等生タイプではあったが、当時のデインヒル産駒に多かった豊かなスピードは武器ながら、どうにもサインデーサイレンス産駒に切れ味で見劣るという特徴を見事に体現した馬でもあった。

当時の900万下脱出は現在の4歳2月。5戦かかったが、準オープン昇級戦の芝1400m戦で前半600m33.8、後半600m36.0と時計を要するハイペースに乗じ、上がり最速34.0を記録し連勝。急流で上がり最速マークはいかにもといった感じではあるものの、厳しい流れで強さを発揮したのは素質の証。いよいよ本格化なのかと思わせたものの、ここからが長かった。準オープン降級後2戦目で2着と目途を立てる走りを披露しながら、そこから再昇級まで14戦。そのうち東京芝は11回。当時、いま以上に藤沢師は馬の能力がストレートに反映される東京にこだわった。ジリ脚の代表エアスマップをなぜ東京ばかり出走させるのか。当時、そんなことを口にした記憶がある。いまも昔もファンは気楽だ。

オープン再昇級を決めたのは降級から1年半後の6歳2月。舞台は東京芝1800m。やはり東京だった。いま振り返れば、転機はその2走前11月の京都遠征ではないか。芝1800mの古都Sでオリビエ・ペリエ騎手が騎乗、逃げを打った。エアスマップが逃げたのはデビュー2戦だけ。好位、もしくは中団からのスタイルを崩し、1000m通過59.1と遅くはない流れを演出、ヤマニンリスペクトに差されはしたものの、自らペースを握る競馬で2着。その後は中山の市川Sとエアスマップを東京以外の競馬場を走らせた。東京に慣れた馬にあえて刺激を与えたかのようにみえる。こういったレース選択の妙を藤沢師は我々に何度も見せてくれた。

馬優先は当然として、馬の可能性、その将来を広げるために様々な方法を駆使し勝たせる。藤沢師の哲学はここにある。エアスマップはその後、中山のオールカマーを勝ち、重賞ウイナーに。最終的には種牡馬入り、韓国へ渡った。決して種牡馬として大成したわけではないが、あのオープン再昇級がなければ、その道もなかっただろう。藤沢師が未来を切りひらいた一頭といっていい。

マグナーテン(96年生、02年毎日王冠、03年AJCC)

最近の藤沢和雄厩舎というとグランアレグリア、ソウルスターリングと牝馬のイメージだが、藤沢厩舎といえばセン馬、そんな感覚が懐かしい。競走馬の可能性を探り、未来を思う藤沢師は去勢により眠っていた能力を引き出し、多く勝たせることで、その価値を高め、未来を切りひらくことも多かった。その代表格がマグナーテンである。

母マジックナイトはフランスで生まれ、ヴェルメイユ賞を勝ち、凱旋門賞とジャパンC2着の名牝。父はノーザンダンサー系を代表するダンチヒ。超良血マグナーテンへの期待は高かった。ところが、体質が弱さを見抜いた藤沢師は慎重に調整を重ね、デビューは現在の3歳夏未勝利戦。既走馬相手に1番人気支持も6着。その後、未勝利戦5戦連続敗退と気難しさが能力発揮を妨げた。藤沢師は4歳になると同時に去勢を決断した。

半年の休養を経て、騙馬として復帰した2戦目、4歳6月盛岡の交流戦でようやく初勝利。2勝目も盛岡であげ、JRA初勝利は札幌500万下ダ1700m。2番手で流れに乗り抜け出すという以前はできなかった自身のスピードを活かしたスマートな競馬だった。その年の秋、藤沢師は満を持して芝のレースに出走させる。リアルヴィジョンと同じく若く、体質が弱いときはダートで経験と勝利を積ませ、体質強化を確信してから芝に向かう。藤沢師がこの手順を踏み、才能を開花させた馬は多い。

芝転向後、マグナーテンは逃げて900万下を連勝、その後5歳春、準オープン昇級初戦フリーウェイS(東京芝1400m)。快速牝馬マティーニが飛ばすペースは前半600m33.9とスプリント戦並み。3番手に控えたマグナーテンはハイペースを余裕で抜け出し、最後の400m10.9-11.5。まさに「テンよし中よし終いよし」の理想的な競馬を見せ、当時のコースレコード1.19.7を記録。マグナーテンが秘めていた能力を発露させ、その完成形を示した競馬だった。

夏は新潟に照準を定める。その年の夏、新潟は日本初の直線競馬、日本一長い直線658.7mを要する、これまでの競馬場にないスケール感にリニューアルされた。スピードを最大限に発揮できるコースレイアウト、藤沢師はマグナーテンにぴったりの競馬場だと踏んだにちがいない。内回り芝1400mの朱鷺SでOP初勝利。満を持して、外回りのマイル重賞関屋記念に進んだ。人気は北九州記念(当時芝1800m)を勝ったエイシンプレストン、藤沢厩舎の天才少女スティンガー、そして水沢の雄ネイティブハートが集め、マグナーテンは4番人気だった。

逃げたのはノーザンテースト産駒の古豪クリスザブレイヴ。マグナーテンはその背後2番手をとる。前半800m46.2、1000m通過58.0と新装新潟らしいスピード競馬を展開。肉眼で見えるかどうかという4コーナーを回り、最後の直線658.7mへ。後半800m45.6、最後の600m33.8、まさに極限の世界のなか、クリスザブレイヴもマグナーテンも止まらない。これまでの競馬の常識からは明らかに外れていた。新潟の直線に常識は通用しない。いまでこそ新鮮味こそないが、当時はそんな衝撃だった。エイシンプレストン、ネイティブハート、スティンガーが自慢の末脚を繰り出すも、届かない。この3頭が使った上がりは32.6、32.5、32.9。究極の末脚を使おうとも、マグナーテンやクリスザブレイヴが止まらなければ、後ろは捕らえられない。これこそ、父ダンチヒから受け継ぐマグナーテンのスピードの遺伝子だった。この勝利で記録した基準タイム1.31.8に当時の競馬ファンは度肝を抜かれた。これを塗りかえたのは11年後の関屋記念(ドナウブルー)。記録更新にマグナーテンの名前が消える寂しさすらあった。

この激走の反動なのか、マグナーテンはその後勝てない日々が続くも、翌年の新潟でまたも息を吹き返す。前年と同タイムで関屋記念勝利。「テンよし中よし終いよし」のマグナーテンは新潟が大好きだった。またマグナーテンの好走は新潟適性を知る手がかりにもなり、以後、長い長い新潟の直線は瞬発力より先行力と考えられるようになった。秋には1800mの毎日王冠を逃げ切り、その翌年にはAJCCまで逃げ切った。スピードタイプのマグナーテンに藤沢師と岡部幸雄騎手が丁寧に競馬を教え、徐々に長い距離で走れるようにした。これも藤沢厩舎だからこそ。馬の可能性をどこまでも伸ばしてあげたいと考え、マグナーテンの力と未来を信じ、藤沢師は優しいまなざしを我慢強く送り続けた。

盛岡でようやく初勝利をあげてから4年。マグナーテンは通算12勝、重賞4勝の成績を収め、引退。現在はモモセライディングファームで静かに暮らす。それはきっと、藤沢師が現役時代に描いた幸せな未来だったにちがいない。

写真:Horse Memorys、かず

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