セリの熱気は回復することもなく、そろそろ出番に向けて準備する時間が迫ってきました。馬房に戻ると、そこにダートムーアの23の姿はなく、もうセリ場に向かってしまったのかと焦り、探し回ったところ、スタッフの人たちが外で歩かせてくれていました。馬房の中にずっといるとストレスもたまりますし、本番前に少しガス抜きをして、落ち着いて本番を迎えられるように、散歩をしていたのです。
その歩く姿を見て、ひいき目もあると思いますが、踏み込みもしっかりと、リズム感良くスムーズに歩けていると感じました。もし競馬場のパドックにて、この馬体と動きをする馬がいたら、推奨馬の1頭に挙げるはずと思わせる出来でした。僕はダートムーアの23を歩かせてくれているスタッフさんたちに頭を下げることで、感謝の意を伝えました。
あとから聞くと、彼らはフィリピン人でした。僕はてっきりインド人かと思っていたのですが、全員フィリピンから来たとのこと。言われてみると、表情がやや柔和で、笑顔が可愛らしいですね。僕は昔ビリヤードを趣味でやっていて、エフレン・レイズ選手やアレックス・パグラヤン選手など、フィリピンのトッププレイヤーのプレイをビデオで何度も観て学びました(マニアックな話ですいません)。柔道をやっている外国の人が日本に対してリスペクトがあるように、僕もフィリピンという国に対しては尊敬の眼差しを持っています。何と言っても、フィリピンの人々はオープンマインドかつポジティブ、そして困難な状況を楽しめる強いメンタリティを有しているのを知っています。
時は訪れました。455番がアナウンスされ、いざ出陣です。僕はカメラを構えながら、ダートムーアの23のあとをついて歩きます。慈さんから理恵さん、大狩部牧場の下村社長、私の友人まで、皆が付き添ってくれました。厩舎を出て、パレードリングへと向かい、数周したのちに、屋内のパドックへと入ります。昨日のトウカイファインの23と全く同じルートです。それはリングに向かう格闘家の花道のようでした。僕はセコンドとしてダートムーアの23に付き、彼女の勝利を心から願いました。ダートムーアの23は思っていたよりも堂々と歩いています。チャカついたり、入れ込んだりするかと心配していましたが、むしろ周りの馬よりも落ち着いて見えるぐらいです。全てが彼女にとっては初めての経験ですが、彼女なりに緊張しつつも、我慢してくれているのでしょう。
あっという間に445番が回ってきました。事前に打ち合わせしていたとおり、僕は裏の入り口から階段を登り、鑑定台の裏に回ります。テレビでは映らないセリの裏側。そこには一人分の椅子が用意されています。鑑定人の一人が僕をそこに座るように促します。僕が腰かけると、すでにダートムーアの23はセリ場に登場しており、セリがスタートしました。
僕の前には複数台のモノクロのモニターが並んでおり、会場の隅から隅まで、人物の一挙手一投足が見て分かるようになっています。600万円から始まりました。僕が事前に提出していたリザーブ金額(最低価格)は700万円ですから、誰からも声がかからなければ僕が手を挙げなければなりません。どのモニターを見ても、人っ子一人、微動だにしません。前を向いている人もわずかにいますが、ほとんどの人たちは下を向いていたり、隣の人と話したりしていて、手が挙がる気配がありません。一生懸命に授業をしているのに、どの生徒も全く関心がなく、こちらの言うことを聞いていないと悟った教師のような気持ちです。今すぐここを飛び出して、鑑定台の向こう側にのんびりと座っている購買者たちのもとに駆け寄って、映画「バックトゥザフューチャー2」のドグばりに「Hello! Anybody home?(ハロー!誰かいますか?)」と彼らの頭を小突き回したい衝動に駆られました。それほどに彼らは無反応で、静止画かと思えるモノクロの画面を僕は見続けました。全てを悟って、僕は販売者用の番号が貼られたカタログを静かに持ち上げました。その瞬間、「700万円!」と鑑定人の声が上がります。外から見ていると、誰かが手を挙げたように思えるかもしれませんが、これは生産者が自分の売りたい金額まで競り上げただけです。そこから誰かが続いてくれたら良いのですが、このまま誰も手を挙げなければ、生産者の主取りになります。
結局誰からもひと声もかかることなく、僕は鑑定台を降りました。
両手の人差し指で×をつくり、慈さんたちには主取りであったことを伝えました。ある程度分かっていたとしても、実際に主取りになってしまうと、どんな顔をして良いのか困ります。悔しくないと言えばウソになりますし、次のことを考えなければいけません。周りの人たちも、気を遣ってくれたり、何と声を掛けたら良いのか迷うのではないでしょうか。NO,9ホーストレーニングメソドの木村さんは「良い結果が出せずにすいません」と言ってくれましたが、今回に限っては、木村さんはどうしようもなく、むしろ高く売れない馬をコンサイニングしてもらって、成功報酬も払えず、申し訳ないのはこちらも同じです。主取りは地獄です。
呆然としながらも、僕たちは集まって作戦会議をしました。この後、ダートムーアの23をどうするべきか。慈さんとシモジュウ、そして前野牧場の真ちゃんも入って、4人で机を囲んで話し合いました。
この後、ダートムーアの23にとってはいくつかの選択肢が残されています。ひとつは骨片除去の手術をして、10月に行われるオータムセールを目指す。肢をきれいな状態にして売るということです。手術費は約30万円かかり、あと3か月分の預託費(コンサイニング費用)が約70万円として、計100万円の追加の費用がかかります。それだけの費用をかけてもオータムセールでどれぐらいの値段で売れるのか定かではありません。
もうひとつは、手術はせずに自分で走らせる。自分で走らせるのであれば、手術をせずに育成に入れて、もし痛みや腫れなどの症状が出たら手術して骨片を取り除く。売らないのであれば、手術を今すぐ行う必要はありませんが、自分で走らせるとなると、この先ずっと育成費や厩舎への預託費がかかり続けることになります。走れば良いのですが、走らなかった場合は大きな負担になります。
この2つの選択肢が有力ですが、手術をすることなく、このまま9月のセプテンバーセールに出すことも可能と言えば可能です。手術をすると9月のセリはとても間に合わないのですが、手術をしなければ2か月後のセプテンバーセールに上場することはできます。ただ脚元の状態に関しては今回と同じですから、種子骨の骨片を気にする人は買わないでしょうし、もし買ってもらえるとしても安く買い叩かれるかもしれません。経費は抑えられますが(2か月分のコンサイニング費のみ)、同じ状態で臨むのですから、同じ結果になるかもしれないということです。あまり建設的ではない選択肢ですね。
つい1か月前は、セレクションセールでダートムーアの23が1千万ぐらいで売れて、これまでに突っ込んできたお金を少しは回収できると算盤を弾いていたのですが、まさかの主取り。この先も予想外の経費がかかり続け、しかもいくらで売れるのか、そもそも売れるかどうかの見込みも立たない、どちらに行っても地獄という状況に僕は気がつくと追い込まれていたのです。
道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山、下さまに行けば海。
どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国、どちらさまも地獄。
世界はあんたの思ったとおりになる。
──「メメントモリ」藤原新也より引用
(次回へ続く→)