[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]あるがままを受け入れる(シーズン1-43)

パトリオットゲームが2勝目を挙げました。9月25日(水)、船橋競馬場にて、2歳馬が集まるフューチュリティスプリント(1200m)を勝利。スタートダッシュこそ決まりませんでしたが、先行集団を見る形で内ラチ沿いを進み、最終コーナーでは外に出し、直線では1頭ずつ交わして、最後に1番人気の馬を交わしたところがゴール。差し切ったとは思いましたが、写真判定の結果が出るまで分かりません。スロー再生を見ると、やはりハナ差で勝っているように見えます。さすが笹川翼騎手と思っていると、確定のアナウンスがあり、頭差でパトリオットゲームの勝利が告げられました。ここ2戦、歯がゆい競馬が続いていましたので、ようやく勝ってくれたと胸を撫で下ろしつつ、嬉しい気持ちがこみ上げてきます。

この勝利の価値は大きいと感じました。もしハナ差でも負けていたら、次のステップに進むことができません。ここを勝つことができて初めて、夢が広がるのです。その夢とは10月31日(木)に行われるエーデルワイス賞に出走すること。エーデルワイス賞とは北海道の門別競馬場で行われる1200m戦の重賞。2歳牝馬による、唯一のダートグレードレースになります。今回のレースを勝てたことで、南関東の代表馬として選出される可能性が出てきました。上手獣医師はかねてから、エーデルワイス賞を目指していると言っていましたし、その言葉が実現しそうなのです。

ただ、僕は少し違う見方をしていて、パトリオットゲームはフットワークが大きく、ここ数戦の走りを見ても、追っつけながらの追走になっているように、気性的にもガツンと行くタイプではありません。筋肉量が多い短距離体型であることは確かですが、走法や気性を考えると1400mからマイル戦ぐらいがベストかもしれないと思っていたのです。それぐらいの距離の方がスッと先手を取れて、自分の型に持ち込んで競馬ができるのではないでしょうか。エーデルワイス賞となると中央競馬所属の速いたち馬が揃うので、パトリオットゲームにとってはペースが合わない可能性が高いのです。レースについていくので精いっぱいで終わってしまう可能性もあります。

そこで僕が考えていたのは、11月12日(火)に川崎競馬場で行われるローレル賞(1600m)です。こちらは重賞ではありませんが、賞金は1200万円とエーデルワイス賞と800万円しか違いません。どこかでもう1つレースを使って、賞金を加算して臨めますし、何といっても地元の川崎で競馬ができるのです。長距離輸送がなく、中央競馬の馬は出てこないので相手関係も楽です。エーデルワイス賞に臨んで大敗すれば賞金はゼロですが、ステップレースを使ってからローレル賞に勝つことができれば1500万円前後の賞金を手にすることができるのです。0円と1500万円の違いが生まれるのです。

僕はレース後、上手獣医師に電話をしました。もちろん、勝利の喜びを共有したいと思ったからですが、と同時に、今後のレースプランについて話すためです。「おめでとうございます。良かったですね!」と声をかけると、「めっちゃ嬉しいです」と返ってきました。それはそうでしょう。上手先生が自ら育成に携わり、付きっ切りで騎乗し、獣医師として診療も行っているのですから、愛情の込め方が違います。

「獣医師であり、馬主でもある上手健太郎さんがその背に跨がって、育成まで行なったパトリオットゲームが2勝目を挙げました。1人3役、このような例は日本競馬史において稀ではないでしょうか」と僕がXに投稿したものを、「母親にも見せましたよ!」と喜んでくれました。1人1役でもなるのに大変なのに、それをこなしつつ勝利してしまうなんて、凄い以外の言葉が見つかりません。そんな偉大なホースマンと一緒に馬を共有させてもらっているなんて幸せです。

そうは言っても、僕の考えも伝えないわけには行きません。それとなく、「今回のレースでのパトリオットゲームの走りを見て、僕にはマイルなら距離が持つと思えたので、ローレル賞も面白いのではなでしょうか」と会話の途中に差しはさんでみました。

上手先生から返ってきた答えは、「ここを勝ったらエーデルワイス賞と宣言していたので、エーデルワイス賞に行きます!」でした。あまりにも即答で迷いがないので、僕はあっけにとられて返す言葉を失ってしまいました。そういえば、上手さんは良い意味で人の話を聞かない人でした(笑)。ローレル賞の線も考えないわけではありませんが、初志貫徹ということですね。

よくよく聞いてみると、上手先生の考えにも同意できることが多くあります。まず自分たちの所有馬が重賞に出走できることはこの先ないかもしれないので、出られるならばオリンピック精神で挑戦してみたい。正直に言うと、勝ち負けになるのは難しいと思うが、その挑戦の結果としてパトリオットゲームの潜在能力や格付け(ポジション)もはっきりするだろう。長距離輸送も馬を精神的にタフにするだろうし、強い相手と走った経験は確実にプラスになるはず。上手先生はパトリオットゲームの将来を見据えていたのでした。目先の勝ち星や賞金ばかりを見ていた僕は恥ずかしくなりました。人生は2回やり直せないので、どちらの選択が正しいかは分かりませんが、僕は挑戦して経験を得るという上手さんの選択を尊重することにしました。

パトリオットゲームの今後の走りを見て、あのときエーデルワイス賞に挑戦して良かったのか、それともローレル賞に出走した方が良かったのか、少し長い目で見て判断すればよいのです。自分ごととして経験したことを、いつか福ちゃんがデビューして、選択を迫られたときに生かせばよいのです。福ちゃんのために正しい判断ができるのは僕しかいないのです。

「福ちゃんに勇気づけられている」、「福ちゃんを励ましているつもりが、実は励まされていることがある」、「癒される」など、YouTubeチャンネルに寄せられる視聴者さんからのコメントがあります。小眼球症をわずらって生まれてきた片目が不自由な福ちゃんを応援しようと、その姿を見守り続けているうちに、いつのまにか自分の方が勇気づけられ、励まされていることに気づく。僕もそんな気持ちになることがあります。生まれてからまだ半年しか経っていない当歳馬を見て、半世紀も生きてきた大の男が明日も頑張ろうと思えるのです。

この不思議な感覚の謎を解き明かそうと考えてみたところ、ふと福ちゃんと対峙したときのことを思い出しました。福ちゃんを目の前にして感じるのは、あるがままを受け入れていることです。画面越しでも伝わってくるのだと思いますが、僕は特に福ちゃんに直接会ったときに感じます。当たり前かもしれませんが、福ちゃんは片目が見えないことをあるがままに受け入れているのです。もしかすると、自分だけが片目しか見えていないことを知らないのかもしれません。福ちゃんは両目が見えたことがないので、片目が見えないことを不便と感じていないのではないでしょうか。そういうものだと受け入れているのです。

受け入れるというと、ネガティブなことをあきらめるというニュアンスが含まれるかもしれませんが、そういう諦念ともまた違って、正も負もなく、善も悪もなく、ただあるがままの自分の生を受け入れて生きているのです。これは人間にはなかなか難しいのではないでしょうか。僕たちはどうしても何かと比べてしまったり、他者と比較してしまう生き物です。誰かや何かと比べてしまうと、些細な違いであったとしても、そこには優劣が生まれます。そうして僕たちは思い悩んだり、劣等感を抱いたり、誰かを妬んだり、もしくは逆に余計なプライドを捨てきれなかったりするのです。福ちゃんからは、そうした一切の感情が感じられないのです。

福ちゃんだって悩みや嫉妬がないわけではありません。仲間同士でも序列があって、思いどおりに行かないことも多々あるでしょうし、意地悪をしてくる友だちもいるはずです。碧雲牧場のお姉さんたちが構ってくれているところに、サバちゃんやミーちゃん、マンちゃんがやってくると、「私だけと遊んでほしいんだから、あっち行ってて!」と耳を絞って、追い払おうとするときもあります。馬の世界もお気楽ではないのです。

それでも、他者と比較して勝手に劣等感を抱くようなことはなさそうです。たった一度きりしかない自分の人生を、自分に与えられたものの中からどうにかして、少しでも幸せを感じながら生きることに真っすぐ。それは福ちゃんだけではなく、他の馬たちも同じです。あるがままを受け入れて生きているのです。

「倶風の王」(河﨑秋子著)という馬事文化賞に輝いた小説があります。雪崩に巻き込まれた1頭の馬とお腹に赤ん坊を宿した女から始まる、人間と馬の世代を超えた血の物語です。生き残った女から生まれた主人公は、母を助けた馬の血を引く馬たちを育て、生業にして生きてきましたが、ある災害によって馬たちを失ってしまいます。馬たちを救うことができなかった主人公は生きる気力を失い、一家は馬から離れつつありました。ところが、主人公の孫娘(ひかり)がふとしたきっかけで、祖父が大切にしていた馬の血を引く野生馬が生きていることを聞きつけ、島に会いにいきます。人間の手を離れ、野生の馬となっていたその馬を見つけ、近くに行って見たときの描写は鮮やかです。

目の前で馬は何事もないように立っていた。

鬣(たてがみ)と尾毛とを激しく風邪に靡かせ、しかし体は微動だにしていない。全身を覆う毛がつやつやと光りながら揺れて、まるで風に研ぎ上げられて馬体が美しく完成したように見えた。

四肢を堂々と地に突き刺し、暴風にさえ揺らぐことなく、彼女は凛と立ち誇っていた。人の手を離れて久しい血筋。自力で生き継いだ獣が、どこまでも逞しく。

ひかりは息を吞んだ。風に叩かれなびく鬣の、その向こうの目はこちらを見ている。真っ黒い両の目で、強風にひるむこともなく、目の前の人間を見据えていた。

その眼球からはあらゆる感情が失われている。憎しみ、愛情、懐かしさ、怒り。およそ人間が読み取れそうな種類の気持ちは込められていない。感情の移入を許さない代わりに、ここだけ風が凪いだような、静かな主張が見て取れた。

同情を拒み、共感を拒み、そうして目が示している。

わたしのどこが哀しいのだ、と。

「そっか」

ひかりは卒然と理解する。風で思考があらわれたように、突然目の前が開けて悟る。

この子は。この馬は。島に独り残り出られないのではない。

生き続けることによって、自らここにいることを選択し続けている。そうしてこの島に君臨している。誰の意に沿うこともなく、何ものかに脅かされることもなく、自らの意思によってのみ。この島の王として凛としたその姿には、人間の易い同情など差し挟む余地は全くない。

故に私には、この島から馬を毟り取ることはできない。

「ここにいるのがいいの」

馬は答えない。ただ一対の目でひかりを見つめ続ける。初めからこの馬はヒトの思いに対する解など持っていなかった。己の存在だけが全ての答えだ。

それ故に、このままでいい。

「分かった。じゃあ、ここにいなさい」

(中略)

それから一度も振り返らずに、その場を去り始めた。背後で馬の嘶きがひとつ響く。人を呼ぶ声ではない。彼女なりの宣言とひかりは感じた。やがて蹄が草を踏みしめる。その足音がひかりと反対方向へと遠ざかっていく。追う必要はもはやなかった。

信じられた。自分がこの馬を見守らずとも、彼女は揺るぎない肉体と燃え尽きることのない意思によって、きっと力強く生き続ける。風が強く吹き付けるこの島で。今際(いまわ)までも充足しながら死んでいくことだろう。

ひかりにはそれが分かった。だからこれで、本当の意味で自由だ。馬も、それから自分も。

馬が追いかけてくる気配はない。ひかりはジャケットの襟を立て、開けていた前のジッパーを閉めた。この場所は物理的にはかなり寒い。風も確かに冷たい。しかし冷えていた体とは裏腹に、心は馬から熱を移されたように温かだった。この決別は悲しくなどない。火は確かに継がれた。今、自分とあの馬は共通した熱を灯している。力強い確信がひかりにはあった。

孫娘のひかりは、何とかしてその馬を島から連れ出そうと考えていました。離島で生きながらえている馬たちを可哀そうだと思い、あの災害時に馬たちを救い出せなかった人間の罪の意識を出来れば払しょくしたいと考えたのです。ところが、目の前にした野生の馬は、人間のそうした思いとは裏腹に、過去の恨みもなく、未来への不安も感じさせず、あるがままを受け入れて今を生きていたのです。人間の心が見透かされてしまうように感じたのでした。どのような状況であっても、たとえ死さえも、馬たちはあるがままを受け入れて生きているのです。

福ちゃんを対峙するとき、僕が抱く感情にも似たところがあります。過去を引きずり、未来を憂うばかりで、今この瞬間に心がいられない僕は、あるがままを受け入れることができていません。人間以外の動物たちは、誰かと自分を比べることもなく、過去の自分と今の自分を比較することもなく。未来の自分なんて考えるべくもない、今この瞬間を生きているのです。嬉しいことがあれば喜び、辛いことがあれば我慢し、悲しいことがあれば泣く。ただそれだけ。今この瞬間に心を向けて、あるがままを受け入れて生きる姿を見て、僕たちは背中を押され、励まされ、自由になるのです。思いわずらうな、心のままに進めと。

Photo by Shigeki Degoshi

(次回へ続く→)

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