[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]福ちゃん誕生!(シーズン1-1)

「無事に女の子が産まれたのですが、目の病気のようで、左目が見えません」

想定外の言葉に、僕は言葉を失いました。獣医にも診察してもったところ、小眼球症という病気で、眼球が普通よりも小さく、光に対する反射がないとのこと。涙は普通に出ているようですが、光が見えていない。左目が失明した状態です。そして何よりも僕たちにとって残酷なのは、失明が分かっている馬は中央競馬においては競走馬になれないという事実です。競走馬として登録できないということ。中途で失明した馬がそのまま競走馬として走り続けたケースはたくさんありますが、生まれつきや競走馬登録前で判明している場合は、競走馬としての登録ができないのです。もちろん買い手もいないでしょうから、セリで売ることもできません。

「どうしますか?」

僕も大人ですから、慈さんの問いの意は察しました。僕に残された選択肢は2つ。ひとつは処分して、生後直死の死産ということになりますので、来年もう一度フリーリターン(種付け料が無料になる制度)を使うことができます。もうひとつは、競走馬にはなれませんが、繁殖牝馬として残しておくことです。

頭の片隅で、ダートムーアは今年も女の子を産んだのか。それにしても牝馬ばかりだなと思いつつ、いや、そんなことよりも、昨日生まれたばかりの左目が見えない仔をどうするか考えなければならないと我に返ります。

「左目以外は、至って健康ですから、牧場としてはこのまま育ってもらいたいと意見が一致しましたが、治郎丸さんの馬ですから、どうするかはお任せします」と慈さんは続けました。左目以外は健康、牝馬、牧場の皆も生きてもらいたいと考えている、これらの言葉を聞いて、僕は即答しました。

「選択肢はひとつです。迷いなく、このまま繁殖牝馬になってもらいましょう」

「分かりました。治郎丸さんがそう言うのであれば、僕たちのも全力を尽くして大切に育てます。ただ、普通の馬よりも(どこかにぶつかって怪我をしたり、骨折して死んでしまったりという)リスクが高いことはご承知ください」

「もちろんです。何が起こるか分かりませんし、何も起こらずに生きられるかもしれません。とりあえずは明日そちらに向かいますので、下村獣医師も交えてゆっくり話しましょう」

このようなやり取りを経て、電話を切りました。それほど迷いがなかったのは、おそらく僕がこの先、どうなるのか良く分かっていなかったからだと思います。分かっていなかったからこそした判断であり、できた判断です。普通の生産者ならこの先、どのようなリスクが待ち受けていて、どれだけの経済的負担がのしかかってきて、それでいてリターンはなさそうということが見えてしまうはずです。大人になればなるほど、正しいからそうしたいと思っても、できない理由がはっきりと分かってしまうものです。

もうひとつは、僕が視覚障害についてある程度の知識があったからかもしれません。僕は競馬とは別に介護・福祉関連の仕事をしており、障害のある方たちと接することもあれば、障害について学ぶこともあります。障害者にはできないこともあるけど、その分、健常者よりもできることもある。目の見えない者に見える世界があることも知っています。

そもそも、タイセイレジェンドを配合して生まれた仔が牝馬だったら、自分で走らせて、ゆくゆくはダートムーアの後継の繁殖牝馬にしようとも薄々考えていました。ダートムーアも今年で16歳ですから、あと何年、子どもを産めるか分かりません。ダイナカールの血を引き、中央競馬で4勝を挙げ、エンプレス杯でも3着の実績があるダートムーアの血を自分の手でつなぎたい。サンデーサイレンスの血が入っていない配合にしたのも、繁殖牝馬としての未来を見据えていたからでもあります。

いずれは苦しんで死ぬことが分かっているような病気や怪我であれば、苦しまずに殺してあげることを選んだと思います。そうではなく、この先、長く生きられる可能性が十分にあるのであれば、ダートムーアがお腹の中で1年間もかけて育て、生まれてきた子どもを処分してしまうのは心苦しい。とはいえ、たとえ生きられるとしても、慈さんをはじめとする牧場の皆さまに多大な迷惑を掛けてしまうのであれば、ただ生かすという選択を採ることは難しかったかもしれません。実際に世話をしてくれるのは牧場の皆さまですから、ひとりでも反対意見があれば決断しづらかったはずです。全ての面において碧雲牧場と僕の気持ちが一致したからこそ、僕たちは彼女を生かす道を選ぶことができたのです。

経済的な負担は大きいはずです。セリで売れないとすれば、これから先の毎月の預託料を払っていかなければならず、この場で計算したくないほどのいわゆる経費がかかり続けるからです。いつから繁殖牝馬として活躍できるのか、それまで生きて行けるのかさえ全く見通しは立ちません。それでも生きていく道があるなら、その道を模索すべきというのが僕を含めた碧雲牧場の想いです。

電話を切った後、僕は少し興奮している自分に気づきました。待ちに待ったダートムーアの仔が奇形として生まれてきて、競走馬になれないことが分かったにもかかわらず、何とかしなければというやる気がムクムクと湧いてきたのです。それは碧雲牧場の皆さまも同じだったのかもしれません。むしろ僕よりも、出産の現場に立ち会っている人たちの方が、自分たちがこの仔を守ってみせるという気持ちは強いのではないでしょうか。

かつて作家の髙橋源一郎さんが、ご自身の子どもが2歳の終わりに急性の小脳炎を発症して障害を負ったことが分かったとき、「この子の世話をするのはあなたしかいないんだよって指名されたことで、かつてない充実感が僕の中に広がった」というようなことを書いていたのを思い出しました。僕たちを選んで生まれてきたとまでは思いませんが、ある確率のもとにたまたま指名された以上、その使命を引き受けて頑張ることで、その結果として自分の生も充実するなんてこともあるのではないでしょうか。

調べてみたところ、小眼球症は人間でも発症することがあり、およそ1万人に一人とされています。近親交配を重ねたサラブレッドはもっと多いようで、4~500頭に1頭か2頭いるかどうかという確率です。そして、ここからはあまり書きたくないのですが、毎年ある一定数は生まれるはずの小眼球症の馬を、僕たちがほとんど見たことがないのは、生まれてきた時点で処分されてしまうからです。それが目を背けてはならない現実です。何度も言うようですが、サラブレッドは基本的に経済動物であり、競走馬になれないとすれば、牧場にとって生産物としては成り立ちません。実はその生産物をつくるために、数百万から数千万の種付け料という大金を使い、生まれてくるまで約1年、生まれてきてからも1年以上の長い歳月がかかり、高騰するエサ代を払い、毎日極寒の中で手をかけて世話をするのです。それは僕たちの想像を絶する肉体労働でもあります。彼らが自分たちの経済のために、生まれてきた奇形の子を泣く泣く処分して、フリーリターン制度を使って、せめて種付け料ぐらいはかからずに来年のチャンスに賭けることを誰が責めることができるでしょうか。

高揚のあとにはうつ状態が訪れます。楽観的な僕もその夜にかけて、この先、僕たちはどうなってゆくのだろうと漠然とした不安に襲われ始めました。そもそも片目が見えないのに無事に生きていけるだろうか、彼女が成長して繁殖牝馬になって子どもを産み(早い馬だと3歳から種付けが可能だそうです)、その産駒が売れるまで、毎月の経費を払っていけるのだろうか。そして何よりも、こんなことを思ってはいけないと分かっているのですが、僕の普段の行いが悪いから、とねっ子に病気を抱えさせたばかりか、碧雲牧場まで巻き込んでしまうことになったのではないか、というささやき声が聞こえてきたのです。人様に後ろ指を指されるような生き方はしていないつもりですが、清廉潔白かというとそういうわけでもなく、叩けばホコリどころか砂煙ぐらいは出る人間です。

「創業者の跡継ぎが30年ぐらいでする経験を、治郎丸さんは3年でしてますね」と慈さんは冗談っぽく言ってなぐさめてくれますが、どうせするならいきなりG1馬が誕生したとかそういう幸運な経験をしたいものです。繁殖牝馬セールで購入したダートムーアの子が1か月後に流産してしまい、繁殖牝馬が1頭だけでは子どもが取れない年が出てくることを恐れ、翌年スパツィアーレを加えたにもかかわらず不受胎が続き、今度はダートムーアの子が奇形で産まれてきて競走馬になれずという、一般的に見ると、生産における不運のデパートです。

馬主になるよりも勝算があると欲に目がくらんで、生産の世界に足を突っ込んだ僕が悪かったのかもしれない。お前ごときが踏み入れる世界ではないんだよと、競馬の神さまが改めて教えようとしているのでしょうか。初年度にダートムーアが流産してしまったときも落胆しましたが、あの時はまだゲームが始まったばかりだとすぐに気持ちを切り替えられましたが、さすがに今回は時間が経つにつれてジワジワと悲観的な考えに支配されそうになり、気持ちが落ち込んでいきました。

下村獣医師から「大狩部牧場は先日、期待していた当歳馬が死産で産まれました。大変ショックでしたが、あり得る世界です。いかなるときも前を向いてです!」というメッセージが届き、少し励まされました。ひと晩寝れば、スッキリするだろうと思い、明日のフライトに備えて僕はいつもより早めに就寝しました。

(次回へ続く→)

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