
私と競馬友と、府中の4コーナー。
「気分転換に、メシでもいっとく?」
「そうしよっか!」
私と長年の競馬友は、そう言って東京競馬場のスタンド前を東に向かって歩き出すことが多い。向かう先は、だいたいメモリアルスタンドの地下フードコートだ。
吉野家、キャロットおざわ、よし野、ハロンボウなど選択肢が多いフロア。我々はめいめい好きなものを食べ、気分をリフレッシュさせる。

馬券が朝から絶好調という事は滅多になく、早めの食事で精神的な回復が必要なことも多い。
我々は腹を満たすと、またスタンド前に出る。
ゴールまで300mから400mの辺り、ちょうど直線の坂に面する辺りに陣取り、負け分を取り戻そうと馬券検討に励む。体力を回復させたので、パドックに行く元気もまだある。
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馬券で調子を取り戻すと、だんだんゴール前に観戦場所を移していくことが多い。
しかし、調子を取り戻せないと、ゴール前から足が遠のいていき、4コーナー付近に落ち着く。
──ふと気づいたのだが、この行動パターン最近のお決まりとなっているようだ。

なぜこのような行動パターンをとるのか、自分なりに分析してみた。
──戦意喪失からの、現実逃避。
要は、ゴール近くの勝負熱高めの空間から、無意識のうちに距離をとりたいのではないだろうか、という説だ。
勝負に臨むのにあるまじきことなのだろうが、勝負熱がさーっと引いてしまい、静かで、耳を澄ませればサラブレッドの息遣いが聞こえてきそうな、4コーナー付近に逃げ込んでいくのだ。
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4コーナーは、ゴール前に比べ静かだ。

ジョッキーとサラブレッドの会話が聞こえるようだ。呼吸を合わせ徐々にスパートをかけていく。
まさに「勝負はここから」。
静寂から、喚声、熱狂、興奮が待つゴール前へと、エンジンをふかしながら、溜め込んだエネルギーを放出していく。その最後のエネルギーの放出前のいっときの緊張感を孕むのが4コーナーだ。
ハズレ続きで気の抜けた競馬オヤジも、その緊張感には、はっと息を呑まされる。
まぶたに焼きついている、シーキングザパールの凄まじい末脚。
今は立派な競馬オヤジの私にも、まだ初々しい競馬青年の時代があった。
そんな競馬青年のまぶたに焼き付いた、4コーナーからの凄まじい末脚。施行条件が東京の1400mだった頃、1997年のニュージーランドトロフィーでのシーキングザパールの末脚だ。
ところで、ニュージーランドトロフィーの東京1400mでの施行は1996年〜1999年と、短い期間(2000年以降は中山1600mで施行)だったが、勝ち馬には名馬の名がずらりと並ぶ。ファビラスラフイン、シーキングザパール、そしてエルコンドルパサー。
立て続けにこれだけの名馬を輩出した条件なので、ニュージーランドトロフィーというと東京1400mを想起するファンは少なくないのではと思う。
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さて、そんな1997年のニュージーランドトロフィー。シーキングザパールは断然の1番人気に押されていた。デビューからすでに重賞を3勝の実績は断然で、鞍上は武豊騎手。前年まで5年連続JRAリーディングのスーパージョッキーだ。
2番人気ワシントンカラー、3番人気ヒコーキグモ、4番人気ブレーブテンダーはいずれも重賞勝ち馬であるが、シーキングザパールの格はひとつ上と見られた。
彼女に比肩できる馬は、阪神3歳牝馬ステークスで敗れた相手であるメジロドーベルや、まだ未対戦の桜花賞馬キョウエイマーチなどだろうが、米国生まれの外国産馬であるシーキングザパールにはクラシック出走資格がなく、当時「マル外ダービー」の異名もあったNHKマイルカップが春の大目標だった。
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レースは、前年の朝日杯3歳ステークスでもレースを引っ張ったアサカホマレやオープニングテーマが先行し、800m通過タイムが45秒6。まずまず速い流れだが、朝日杯の破壊的なペース(力の要る馬場での800m通過が45秒2)との比較では、激流とも言えないペースだった。
道中3-4番手で追走したブレーブテンダーが2着に粘ったことから考えても、ほぼ最後方の位置どりから、直線だけでライバルたちをまとめて交わし切ったシーキングザパールの末脚は凄まじかった。
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──このレースを、私と競馬友は4コーナー近くから見ていた。
ゴール前の喧騒から離れ、「こっちはだいぶ静かだね」とか、「鞭の音がぺちぺち聞こえる!」などとはしゃいでいたように思う。
いま思い返してみると、だいぶ初々しかったのは、間違いない。

3コーナーから4コーナー、馬群が近づいてくる。
私は、シーキングザパールがほぼ最後方にいるのを見て、「ああ、これはもう…」と呟いた。
友人がそれを受け、「これはさすがに、届かないでしょ」と漏らす。
しかし、シーキングザパールは府中の坂を上りながら前の馬の壁をくぐり抜け、坂を上り切ると更にギアを上げ、先頭に立っていたブレーブテンダーをあっという間に交わし、1着でゴールした。
肉眼では見えないので、ターフビジョンで見たのだったが、あの末脚の衝撃は今も忘れられない。
私と友人は、「いやぁ、すごいもんを見たね」と高揚した気分で感想を言い合った。
あれほどの末脚は、のちの観戦歴の中でも、そう何度も見たことはない。
日本馬史上初、海外GⅠ制覇の偉業。
シーキングザパールは次走、春の大目標だったNHKマイルカップを完勝し、初のGⅠ勝利を果たす。

またしてもブレーブテンダーとのワンツーフィニッシュとなったが、今度は好位追走から抜け出すという、危なげない勝ち方だった。秋以降、メジロドーベルやキョウエイマーチを始めとした強敵相手に戦わねばならない事を考えると、好位から競馬ができる方が理想的だろう。
好位づけのクレバーさに加え瞬発力も極上とくれば、シーキングザパールは秋以降、無敵かもしれない──。
多くのファンがそう考えたようで、秋初戦のローズステークスは、桜花賞馬キョウエイマーチを抑え断然の一番人気に押された。しかし、本来の末脚は発揮できず、3着に敗戦。
その後、喉の病気で秋華賞出走を断念。翌年、緒戦のシルクロードSは力の違いを見せ勝利したものの、続く高松宮記念4着、安田記念に至っては10着に敗れてしまう。
歯車が狂ってしまった感のあったシーキングザパールだったが、次走はなんとフランスに遠征し、ドーヴィル競馬場の直線コースで行われる1300mのGⅠ、モーリス・ド・ゲスト賞で復活の勝利を果たす。
日本馬として初となる海外GⅠ勝利という偉業だった。
この偉業は、彼女を管理する森秀行調教師の広い視野により絶妙のレース選択がなされたことや、海外遠征に何度もチャレンジした厩舎としての経験値に支えられたものであったという。
ニュージーランドトロフィーで凄まじい末脚を目の当たりにした自分としては、「あの脚は世界でも通用するものだったんだ。やっぱすごかったもんなぁ」という感動が大きかった。

シーキングザパールの末脚を見届けた、思い出の府中4コーナー。
モーリス・ド・ゲスト賞の勝利はシーキンザパールにとって、最後の勝利となった。しかし、フランス遠征から帰国後の彼女の戦いも、素晴らしいものだった。
マイネルラヴは交わしきれなかったものの、王者・タイキシャトルに先着し2着だったスプリンターズステークスや、エアジハードとグラスワンダーにはやや離されたが3着を死守した翌年の安田記念も、彼女の底力を感じたレースだった。
タイキシャトル、キョウエイマーチ、メジロドーベル、メジロブライトなど対戦歴のある同期に加え、ステイゴールド、サイレンススズカ、サニーブライアンなど個性派揃いの1994年生まれの世代において、シーキングザパールは外国産かつ海外GⅠ勝利の実績もあり、一際あか抜けた存在だったように思う。それに何より、美しい顔立ちの馬だった。

シーキングザパールは、NHKマイルカップ、モーリス・ド・ゲスト賞とGⅠ2勝を含む重賞7勝を挙げ、最後はアメリカに移籍し2戦したあと、競争生活を引退した。
そしてアメリカで繁殖生活を送り、ニュージーランドトロフィー母子制覇を成すシーキングザダイヤなどの仔を産み、母としての優秀さも見せてくれたが、残念なことに、2005年に11歳の若さで天国へと旅立ってしまった。
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さて一方で、時は流れ、加齢による衰えを感じる競馬オヤジとなった今の自分。
冒頭で書いた通り、馬券の調子が悪いと、4コーナー付近に逃げ込む習癖が板についている。
そういえば、昨年のジャパンカップの時も、馬券の調子も悪く、パドックの混雑に疲れ果て、ふらふらでたどり着いたのは4コーナー付近だった。
そのジャパンカップを勝ったのは、シーキングザパールの鞍上にいた武豊と、彼が駆るドウデュースだった。
馬券はチェルヴィニア本命で、芝生に座りこみたくなったが、視線は遠くターフビジョンと、その向こうからスタンド前に戻ってくるドウデュース・武豊の姿を追いかけていた。
ドウデュースの末脚は、シーキングザパールが見せてくれたような、滅多に見ることのできない極上のもので、私は馬券は外したものの感動していた。

ゴール前で興奮して叫ぶのは、もちろん最高に気持ちいい。しかし4コーナー付近も、私にとってお気に入りの観戦スポットなのである。
サラブレッドとジョッキーが静かな闘志を秘めコーナーを回っていくのを眺め、彼らが一瞬で目の前を駆け抜けていき、お尻がみるみる小さくなっていくのを見届けるのが好きだ。
そこは、かつてのニュージーランドトロフィーで、シーキングザパールがくれた感動を友人と分かち合った思い出の場所でもあり、これからも多くのレースを見て、新たな思い出を作っていく場所なのだろうなとも思う。
写真:稲庭うどん、かず