笑顔の行方、明日の行方 - スマイルトゥモロー

卒業アルバムの 最初の春のページ

無邪気に笑う私がいる…

──Dreams Come True 「笑顔の行方」より

競馬のレースが行われる「距離区分」を表す言葉として、「SMILE」というものがある。これは世界統一の競走馬の強さを表す指標(レーティング)を獲得したレースの距離を表したものである。

Sは「Sprint(スプリント)」(1000m-1300m)の「S」。

以下、M=「Mile(マイル)」(1301m-1899m)

Ⅰ=「Intermediate(インターミディエイト:中距離)」(1900m-2100m)

L=「Long(ロング:長距離)」(2100m-2700m)

そしてE=「Extended(エクステンデッド:超長距離)」(2701m以上)の5つである。

距離の専門性が高まったこんにちの競馬において、この「SMILE」の5カテゴリーすべてを走破するような競走馬は、特に牝馬では数少ない。例えば3歳牝馬の頂点オークス。1986年の三冠牝馬メジロラモーヌ以降昨年の三冠牝馬デアリングタクトに至る36頭のオークス馬の中で、「SMILE」すべてのレースに出走したのは1996年のオークス馬、ダンスパートナーただ1頭。

──いや、もう一頭、「SMILE」を満たしたオークス馬がいる。

2002年のオークス馬、スマイルトゥモローである。

「おい、名前に『スマイル』が付くだけじゃないか!!」とツッコミが入ることは承知の上であるが、どうか最後までお読みいただきたい。

大輪の花を咲かせ、そして疾風のごとくターフを駆け抜けた名牝の行方を。


スマイルトゥモローは1999年4月20日、静内町の名門・千代田牧場で生を受けた。父は大逃げのイングランディーレにシルポートから追い込みのビハインドザマスクまで、個性派を世に出し続けたホワイトマズル、母はコクトビューティー。その父はサウスアトランティックという血統である。

千代田牧場の現代表者である飯田正剛氏の持ち馬として、開業間もない美浦の勢司和浩厩舎に入厩したスマイルトゥモローは、2001年秋の福島開催でデビューした。

デビュー戦4着ののち中2週で折り返しの新馬戦に出走したスマイルトゥモローは、番手追走から直線鋭く伸びて2着に4馬身差の快勝。見事、初勝利を挙げた。

デビュー2戦、そして果敢に挑戦し11着に敗れた3戦目のGⅢフェアリーステークス(同レースは2007年までは2歳の12月、芝1200mで行われていた)まで、スマイルトゥモローは2歳時の3戦すべて芝1200m、つまり「SMILE」の「S」カテゴリーのレースのみを走っている。

明けて3歳、スマイルトゥモローの復帰戦は3月2日。中山マイル(SMILEの「M」)の黄梅賞であった。吉田豊騎手と初コンビを組んだスマイルトゥモローは中段馬群の後ろでがっちり脚を貯めて、直線外に持ち出すとあっという間に前をひと呑み。2着馬に2馬身半の差をつける完勝であった。

陣営はクラシックに狙いを定めて中1週でフラワーカップへの参戦を決定。ここでもスマイルトゥモローは見るものに強烈なインパクトを残す走りを見せた。

コーナーごとの通過順は「8-7-1-1」。残り1400mから1ハロン毎「12.9-12.4-12.7」とペースが緩んだ向こう正面の直線で、外から抑えきれないとばかりに一気に先頭にまでまくり上がっていったスマイルトゥモローは直線に入ると追いすがるマイネヴィータ以下をむしろ突き放し、またも2馬身半差。連勝で重賞初制覇という大きな花を咲かせると同時に、収得賞金上位でのクラシックへの切符をつかみ取ったのである。

2002年4月7日。
わずか1か月ほど前には一介の1勝馬だったスマイルトゥモローは、単勝4番人気という有力馬の一角として、牝馬クラシック第1弾・桜花賞に挑んだ。

改修前の阪神競馬場、芝1600mは1・2コーナー奥のポケットから現在の内回り、コーナーを3度周るトリッキーなコースだった。当然外枠が不利になり、位置取りが重要になる。

1枠1番という、コースロスの最も少ない好枠を引き当てたスマイルトゥモローは、しかしそのアドバンテージをいかすことができなかった。散り急ぐ花びらに見守られる中一直線の綺麗なスタートを決めた17頭に対し、スマイルトゥモローは1頭だけ1馬身、出遅れてしまったのだ。

その後も鞍上・吉田豊騎手の手綱に抗うかの如く、向こう正面では行きたがって中段まで上がったかと思えば、勝負所の3・4コーナーでは逆に1頭だけ位置取りを下げていく。4コーナー出口で後ろから5・6番手、馬場の二分どころに位置していたスマイルトゥモローの前には、横に8頭から9頭分の壁が一重二重と立ち塞がっていた。割れるような隙間はなかった。

直線を向くと吉田豊騎手はスマイルトゥモローを一気に大外まで持ち出し、必死に前を追うが時すでに遅し。若干22歳の若き池添謙一騎手とアローキャリーが歓喜のゴールに飛び込むその瞬間、ブラウン管の右端に鼻面を覗かせるのが精一杯だった。

6着。

しかし大きな距離ロスがあったにもかかわらず上がり3ハロンは2着のブルーリッジリバーに次ぐ35秒3をマーク。ゴールまでしっかりと伸ばしたその末脚は、続くオークスに大きな期待を抱かせるに十分だった。

桜舞い散る仁川の地に悔いを残しながら、スマイルトゥモローは新緑萌ゆる府中、樫の舞台へと歩を進めていった……。


2002年5月19日。

オークスは、19年ぶりに「桜花賞馬不在」となった。トライアル2戦、フローラステークスは9番人気の伏兵ニシノハナグルマが、スイートピーステークスは桜花賞11着のオースミコスモがそれぞれ制したことで「超新星」台頭とはならず、さらに距離体系「SMILE」の「M」から「I」を飛ばして一気に「L」となる芝2400mへの距離延長。オッズは割れに割れた。

押し出された形での1番人気は桜花賞に続いてシャイニンルビーで単勝4.4倍。5.9倍の2番人気は桜花賞当日の忘れな草賞を制したユウキャラット。フラワーカップでスマイルトゥモローの5着に敗れた後ミモザ賞3着、フローラステークス2着というマイネミモーゼが6.9倍の3番人気に推されていた。そしてスマイルトゥモローは少し離れた4番人気、単勝は10.5倍であった。混戦模様であることは、単勝万馬券となる馬が1頭もいなかったことからもうかがえよう。

この日は5レースからすべて芝コースでの競走。内からの差し返しもあれば、馬場の真ん中からの差し切りでの決着もあり。内外有利不利は見受けられず、4コーナーを距離ロスなくタイトに回り、内を器用に立ち回った馬が若干優勢に見える一日だった。

曇天の府中。第63回優駿牝馬のゲートが開いた。

10番ゲートからスタートしたスマイルトゥモローはスタートの立ち遅れを半馬身程度にとどめた。吉田豊騎手は手綱を引っ張り気味に1週目ゴール板前を過ぎていった。

ハナを切ったのは桜花賞に続いてサクセスビューティ
。桜花賞ジョッキーが鞍上のユウキャラットが番手に続いて1コーナーへ。最内キョウワノコイビト、中にオースミコスモ、外からビューティマリオンが3番手の一線で続く。好位の一角にはツルマルグラマー、外ヘルスウォール、間に入ってシャイニンルビー、一列後ろにチャペルコンサート、さらにマイネミモーゼと、ナリタブライアンの仔マイネヴィータも続いて中段へ。

2歳女王タムロチェリーを内に、カネトシディザイアを外に見ながらスマイルトゥモローは後ろから5番手。

トライアルホース、ニシノハナグルマと牡馬に伍して京成杯3着の惑星ブリガドーンまでが一塊の集団を形成し、横山典弘騎手とウィルビーゼア、そして桜花賞2着、俳優の小林薫さんの持ち馬ブルーリッジリバーの2頭が4・5馬身ちぎれた最後方に控えるという展開でレースは向こう正面に差し掛かっていった。

スマイルトゥモローは道中、常に前と、隣に馬を見る形で歩を進めていた。フラワーカップでは前に馬がいなくなった向こう正面で抑えきれずに先頭まで上がっていき、桜花賞でも前と間隔が開くと闘争心もあらわに差を詰めに行ってリズムを崩しているように見えた。

オークスでは、道中常に、前と横に同じペースで走っている馬がいた。前にはタムロチェリーとカネトシディザイア、そして隣にはニシノハナグルマ。スマイルトゥモローはこの3頭に包まれながら、あるいは護られるかのように、淡々と、冷静に、向こう正面を追走していった。

3コーナーを回る。各馬の動きがあわただしくなっていく。大ケヤキを過ぎたあたりで、前にいたタムロチェリーもカネトシディザイアも前の動きについていく。外にいたニシノハナグルマも、その後ろにいたブリガドーンもスマイルトゥモローをかわして追い出していった。

スマイルトゥモローの前にはタムロチェリー。
タムロチェリーの前にはマイネミモーゼ。
その前にはチャペルコンサート。
その前にはキョウワノコイビト。

内ラチ沿いを走るスマイルトゥモローの前には、桜花賞の時よりも分厚い三重四重の壁が立ちふさがっていた。割れるような隙間はなかった。

……ように見えた。

ところがである。
4コーナー出口、チャペルコンサートが遠心力を利用するかのように外に出していった。
呼応するように、マイネミモーゼも一旦外に張る。

タムロチェリーは更にその外へ。
当然その外を走っていた馬たちはもっと外へ。

何が起こったか。

内ラチ沿いから、馬が、消えたのである。

只一騎、黄色地に青い六文銭の勝負服を除いては。

無人の野と化した馬場の最内を、スマイルトゥモローは唸るように駆け上がっていった。

吉田豊騎手の手綱は、まさに「持ったまんま」に見えた。


スプリント戦にも対応できるだけのスピードを持つ。

マイル戦でも大外一気を決められるだけの切れ味を持つ。

鞍上と喧嘩するかのように終始力みっぱなしでも芝千八、フラワーカップを押しきれるだけのスタミナを持つスマイルトゥモロー。

そんな彼女が、気の悪さをギリギリ抑え込んでスタミナを温存し、距離ロスなく経済コースを回り、前に遮るものがなく、おまけに、内外の馬場差がほとんどなかったわけだから、もう勝ったも同然である。

この日のオークスの直線は、スマイルトゥモローの為にあった。

残り400mの時点で早くも7番手までポジションが上がっていたスマイルトゥモローは手応え十分。3分どころを走っていたチャペルコンサートの更に外へ進路をとると、押し切りを図るユウキャラット、内に切れ込んだマイネミモーゼに並びかける。

内の3頭も必死の抵抗を見せるが、吉田豊騎手の右鞭に応えてスマイルトゥモローは並ぶ間もなくかわし去っていった。

吉田豊騎手はゴールを待ちきれなかったかのように、フライング気味に右手人差し指をスタンドに向けて高く突き上げ、そしてその手を胸前でぐっと握りしめた。

「脚を上手にためるようになって 折り合いだってうまくつけたわ もうあの頃の私じゃない」

競走生活最初の春の終わり、スマイルトゥモローは大輪の花を咲かせた。千代田牧場に初のクラシックの栄冠をもたらした。強いオークス馬が誕生した。

そう、思った。


ちょうど1年5か月後、2003年10月19日。
東京競馬場のテレビカメラは、それまで見たこともないような「引き」でレースの模様を伝えていた。

大ケヤキの辺り、画面の左端に動く点が1つ、そして右端に残り13個の点のかたまりが見えた。

独身寮の自室、14型のブラウン管では、本当に「点」にしか見えなかった。

そのレースは第51回府中牝馬ステークス。
左端の点が、スマイルトゥモローである。見てもわからない。実況が、そう言っていた。

オークスののち休養に入ったスマイルトゥモローは復帰戦、エリザベス女王杯で遅れてきた怪物ファインモーションの前に6着完敗を喫すると再び休養に入る。

翌年初夏にターフに戻ってきたスマイルトゥモローは、桜花賞までのように、いやそれ以上に制御が効かない状態になっていた。

エプソムカップでは向こう正面で完全に「持っていかれて」余力を無くしての5着。

初めて「SMILE」の「I」カテゴリーへの出走となったマーメイドステークスでは武豊騎手に乗り替わるも、スタート直後から鞍上の手綱に抗って抗って抗いつくしての7着。府中牝馬ステークスでの「逃げ」は、あらゆる人事を尽くしたうえで、残された最後の手段だったのではないか。

全てから解き放たれ、疾風のように駆けたスマイルトゥモローが刻んだ前半1000mのラップは「56秒3」。

これは1986年以降東京競馬場芝1800mで行われた全1,849レースの中で最も速いラップであり、1400m、1600mを含む全8,201レース中でも7位タイに当たる(2021年4月25日現在)。例を挙げると、同年の天皇賞(秋)でローエングリンとゴーステディが互いに譲らず刻んだラップが56秒9、1998年、「あの日」サイレンススズカが刻んだラップが57秒4であることも、この日のスマイルトゥモローのペースが常識を超越するものであったことを示す。

これだけのハイラップを刻みながら、スマイルトゥモローは信じがたいほどの粘りを見せる。残り100mを切った時点で後続とはなおも5馬身開いていた。ゴールの7完歩手前でレディパステルにかわされ、ゴール板直前でローズバドに差し込まれるも3着を確保。上がり3ハロンは、先着馬より実に5秒近く遅い、38秒4。

この記録にも記憶にも残る逃げ、つまり「Escape」で、スマイルトゥモローの「SMILE」最後の1ピースは埋まった。そしてそれが、彼女がターフで見せた最後の輝きとなった。

通算成績14戦4勝3着1回。大輪の花を咲かせ、一陣の疾風となったスマイルトゥモローは2004年春に引退。9頭の産駒を残したが2017年7月26日、小腸破裂で突然この世を去った。

折り合いを欠く馬を見るたびに、スマイルトゥモローを思い出す。

大逃げを見るたびに、スマイルトゥモローを思い出す。

そしてオークスが来るたびに、スマイルトゥモローを、思い出す。

線路沿いに咲く 名も知れない 花になって 風に吹かれたい

格子戸を抜けて 走り廻る 風になって 花びらを舞わせたい

明日の行方など 怖がらないままの

花になりたい つむじ風になりたい

──SMILE「明日の行方」より

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