風の歌が聴こえたあの日 - 2006年菊花賞・ソングオブウインド

あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。

僕たちはそんな風にして生きている。

──村上 春樹. 風の歌を聴け(講談社文庫)から引用

多くの人々と同じように、私は村上春樹が綴る豊かで奥深い言葉に感受性を刺激され、そのニヒルで達観し、繊細で刹那的な登場人物たちが織り成す世界観に魅了された。

通りすぎるものに目を奪われ、何かを手に入れたような気持ちになってもそれは泡沫(うたかた)の夢かもしれない。そんな思いを胸に、私はさまざまなことを受け入れ、時には内に秘め、時には外に放ちながら、日々を生きている。

「競馬」というスポーツもまた、刹那の連続だ。
目の前で走る馬たちは皆、一期一会の巡り合いの中で覇を競う。

それを見守る私は幾筋にも分岐する無限の未来図の中で、唯一訪れる現実を見つけ出そうと頭を働かせる。
思い通りにならないからこそ、私は胸を焦がし、その一瞬を捉えたくて競馬場に足を運ぶのかもしれない。

大学に入って半年が経った頃、バイト代を工面して手に入れた1台のデジタルカメラ。一眼レフのような高級なカメラではなかったから綺麗には撮れなかった。それでも、瞬間を永遠にしたくて、夢中でシャッターを押した。

ファインダーから覗く世界は、競馬の活力に満ち溢れていた。

たくさんのうれしいシーンや、悲しいシーン。
写真をめくると、その日の気温、頬を撫でる風、馬たちの息遣い、ファンの歓声が蘇る。

今日はその中でも格別の思い出の日をひとつ。

ソングオブウインド―風の歌を聴け―が疾風となったあの日のことを思い出したい。


2006年10月22日。菊花賞当日。

開門に合わせて競馬場に到着した私は、コースを照らす眩しい朝の陽ざしに目を細めながら、スタンド最前列のお気に入りの場所に辿り着き、ほっとして荷物を下ろした。

内回りと外回りの合流点。坂を勢いよく下ってきた駿馬が最後の攻防に移る地点だ。コーヒーをひと口飲み、朝食代わりのおにぎりを頬張り、これから繰り広げられる戦いに思いを馳せた。

2R。後にウオッカやアストンマーチャンに食い下がる快速馬・ルミナスハーバーが、レコードタイムで駆け抜けた。大きな可能性を秘めた才媛の軽やかな奏でと、直線で起きた痛ましい事故の衝撃音のコントラストが残酷に思えた。

4R。ヒカルオオゾラの大きくてダイナミックなフォームに、大物誕生を予感した。残念ながらタイトルには手が届かず、未完の大器は未完のままその競走生活を終えてしまったけれど、そのポテンシャルを誰もが認める魅力的な一頭だった。

5R。明るい栗毛のフォルテピアノが力強く駆け抜けていった。引退後、彼女は沢山の仔を為し、クラフティワイフ血統らしい堅実さと頑健さを仔に伝え、ついにはダービー馬の祖母となった。血統表でその名に触れる度、柔らかな秋の日差しの下で祝福を浴びる彼女の姿を思い出す。

6R。上位入線を果たした馬が居た。彼は今、私が足を運ぶとある乗馬クラブに在籍し、賢い立ち回りで私を翻弄しながらも私のレッスンに協力してくれている。洗い場であくびをする彼と、写真の残る真剣な彼とのギャップに思わず頬が緩む。20年近い時を経て、彼は乗馬の道で人と在る。

8R。2歳の特別戦をレコードタイムで駆け抜けたのはカノヤザクラだった。天から授かったスピードを楽しむその姿に、「可憐で速い馬」だな、と思った。夏を愛し、夏に散った快速の桜。もしあの事故が無かったならば…きっと勝ち気で速くて可愛らしい仔をターフに送り出してくれたのであろう、と今でも思う。

10R。準メインではホッコーソレソレーがクビの高い不器用な走りでとんでもない末脚を繰り出した。ユニークな名を持つ彼は9歳まで現役を続け、芝中距離のレギュラーとして幾度となくゴール前を沸かせた。ユニークな名前と愛嬌のある仕草が魅力的な、個性豊かな馬だった。

──そう。たった一日だけでも、思い出は尽きない。

目の前で見た様々な刹那は、彼らがそこに居た証として私の胸にしっかりと刻み込まれる。
幾余年の後に振り返ると、かけがえのない一日だったことに気付かされる。


メインレースを前に、スタンドは立錐の余地もなくなっていた。

凱旋門賞で飛べなかったディープインパクトが年内引退を発表し、ファンは次代の旗手を務める「ポスト・ディープインパクト」を探していた時代である。ファンの熱量が渦巻き、蒸し暑さを感じる中、何度も背中を押され大歓声の圧を浴び、私は最前列に齧りついていた。

1番人気は二冠馬・メイショウサムソン。

野武士のように武骨な彼は、幾多の敗北の糧に、ライバルを真正面から受け止める正攻法の力強さを育んでいた。秋初戦の神戸新聞杯でドリームパスポートの強襲に遭ったが前哨戦としては十分な走り。ダンシングブレーヴ肌にオペラハウスを配された血統は如何にもスタミナ勝負に強く、三冠達成は射程圏だった。

2番人気は皐月賞2着、ダービー3着のドリームパスポート。

デビュー戦から常に世代の一線級と刃を交え、クラシックの主役を演じてきた。10戦して未だ馬券圏外なし。メイショウサムソン同様、強豪と揉まれる中で芯の太さを育んでいた。メイショウサムソンとの対戦成績は3勝3敗の五分。京都が舞台のきさらぎ賞と萩ステークスで先んじ、前哨戦でもライバルを下した。父フジキセキの血統背景により距離延長の不安も囁かれていたが、最後の一冠は譲れなかった。

3番人気はアドマイヤメイン。

セレクトセールで1億5千万円の値段が付いたサンデーサイレンス産駒の良血馬は、青葉賞でタイトルを射止め、ダービーでは長い直線を目一杯に粘ってメイショウサムソンを最後まで苦しめた。彼が秘めたるスタミナは十分。長丁場において名手・武豊騎手の存在は頼もしく、逆転候補の一角として大きな期待を集めていた。

4番人気はマルカシェンク。

デビュー3連勝を果たし、数多の名馬とも比肩しうる評された大器。大きな故障を乗り越えてなんとか間に合ったダービーは4着に敗れた。再度の故障を乗り越えた秋初戦の毎日王冠はダイワメジャー、ダンスインザムードら横綱級に次ぐ4着。まだ万全とは言えないコンディションだったが、ガラスの脚を持つサンデー最後の大物に、多くのファンはあの日見た夢をもう一度託していた。

三冠達成か、雪辱か、名手か、復活か。

ワクワクする3分間が始まろうとしていた。


大歓声を受けてゲートが開く。
ポンとスタートダッシュを利かせて主導権を握ったのはアドマイヤメインだった。
最初の坂を勢いよく下りると、スピードに身を任せてグングンと後続を引き離す。

1000m通過58秒7は僅かに速いが、2歳レコードが2つ出た馬場を追い風に、「肉を切らせて骨を断つ」覚悟の逃げを名手が繰り出す。その姿は1年前にディープインパクトに冷や汗をかかせたアドマイヤジャパンの姿と重なる。2年続けて爽やかな青と水色に彩られたアドマイヤの勝負服が先頭でホームストレッチを駆け抜ける。

メイショウサムソンは第3グループを追走している。
石橋守騎手はガッチリと手綱を抑え、メイショウサムソンは気合十分に首をグッと下げ、ラストの底力勝負に備えて力を蓄える。

その直後に控えるはドリームパスポート。
鞍上の横山典弘騎手は、ライバルを一頭に絞りその一挙手一投足をじっと伺っている。ギリギリまで引き絞られた矢は放たれるその時を静かに待っている。

中団で繰り広げられる静かな鍔迫り合いは、1角、2角とレースが進行するにつれて緊張を高めていく。

マルカシェンクは後方で折り合いに専念している。手負いの彼にとっては僅かなミスも許されない局面。前半のロスを極限まで削り。自分との闘いに打ち克たんと、福永祐一騎手は最後の一脚を信じてレースを進める。2周目の坂の下りで加速したアドマイヤメインを目掛け、これ以上は楽はさせられないとメイショウサムソンが動く。連れるようにドリームパスポートがメイショウサムソンの背中を追いかける。最終局面に向けてレースが動き始める。

4角を回り直線入り口。私の目の前を、最後の力を振り絞るアドマイヤメインが、歯を食いしばりながら先頭を追うメイショウサムソンが、メイショウサムソンに襲いかかろうとするドリームパスポートが、駆け抜けていく。大歓声と蹄音と入り混じった轟音が響く中で、私は夢中でシャッターを切る。マルカシェンクを探そうとしたとき、一頭の黒い「風」がとんでもないスピードでファインダーに飛び込んできた。瞬間、衝撃に圧され、興奮に手が震え、カメラが滑り落ちる。画面がぐらりと暗転する。

それは、疾風か、突風か。長い手脚を目一杯に伸ばして加速するその姿は、アドマイヤメインよりも、メイショウサムソンよりも、ドリームパスポートよりも速い。

「ソングオブウインド!!!」

誰かの叫び声が聞こえる。

私の目の前を誰よりも速く駆け抜けたその風は、メイショウサムソンをあっという間に置き去りにした。
残り100m。懸命に粘るアドマイヤメインを交わし、ドリームパスポートに並びかける。
そして次の瞬間、抵抗の余地すら与えぬままドリームパスポートをねじ伏せ、先頭に躍り出る。

メインステージに躍り出たソングオブウインドは、並み居るライバルを打ち倒し、最後の一冠を攫っていった。

ターフビジョンには満面の笑みで右手を突き出し、二度三度、左手で相棒を労う武幸四郎騎手の姿が大写しにされている。伏兵と見なされた彼が魅せた激走に場内はどよめいているが、電光掲示板に輝く「レコード」の4文字が、彼が紛れもない真の強者であることを示していた。

競馬場のあちこちから「幸四郎! おめでとう!」という声が聞こえる。

メイショウサムソンの三冠達成を期待していたファンは少し落胆し、それから、武豊騎手の弟が掴み取った久々のビッグタイトルに惜しみない祝福を送っていた。

レース後、横山典弘騎手と武豊騎手は、一年前の互いの立場に思いを馳せながら述懐した。

ディープインパクト武豊の冷や汗をかかせたアドマイヤジャパン横山典弘騎手。
ドリームパスポート横山典弘を出し抜こうと粘り抜いたアドマイヤメイン武豊騎手。
名手二人は冴えわたる手綱捌きで、互いの立場を入れ替えるように2年連続で名勝負を演じた。

そして二人は揃ってこう呟いた。「まさか幸四郎がいたとは」と。

大歓声の余韻に包まれながら、私はカメラをチェックした。そこには先頭をひた走るアドマイヤメインや直線半ばで先頭に襲い掛かろうとするメイショウサムソンの姿が写っている。

そしてソングオブウインドを撮影したはずの次の一枚を見たとき、私は「あちゃ」と独り言ち、肩を落とした。

そこには、ピントがぼやけてどこを撮ったのかもわからない失敗写真だけが残されていた。目の前を駆け抜けた風を、私は捕まえることができなかった。

私は目を瞑って彼の姿を思い起こした。瞼の裏には、鮮烈に吹き抜けた彼の衝撃が鮮明に残っていた。

興奮で手元は狂ってしまったけれど、例え写真が残らずとも、この日のことは私の心と身体でずっと覚えていられるだろうな、と思った。

この場所に居られた感動を胸に、カメラを片付けて、私は競馬場を後にした。

強い世代の最後に現れた大器、ソングオブウインド。彼の前途は無限に広がっているように思えた。この先の彼の物語が楽しみだった。また会える日が待ち遠しかった。


古馬となったソングオブウインドが再び姿を現すことはなかった。

次走、香港ヴァーズで4着に敗れた後、右前脚に傷を負った彼は、重度の屈腱炎と診断され、年明け早々に引退が発表された。

彼の冒険譚は志半ばでぷつりと終わりを迎えた。

種牡馬入り後は早世したエルコンドルパサーの期待の後継として300頭近い仔を残した。だがJRAで重賞タイトルを手にする産駒には巡り合えぬまま、2014年に種牡馬を引退した。

血は潰えるかに思えたが、重賞入着実績のあるアイファーソングがスタッドインし、そして、アイファーテイオーとアイファースキャンが上級クラスへ出世した。エルコンドルパサーの唯一の父系ラインとして、未だその血は繋がっている。

風は通り過ぎたけれど、その余韻はまだ残っている。


強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ

──村上 春樹. 風の歌を聴け(講談社文庫)から引用

風の歌を聴けの中の一説に触れると、

強くあろうともがく自分を励まし、そして強いふりをしながら生きていこう、と思える。

あの日の菊花賞では、皆が強くあろうと矜持を持って、勇敢に駆け抜けていた。
──自らを信じて孤独に戦ったアドマイヤメイン。
──王者として全てを受け止めようとしたメイショウサムソン。
──乾坤一擲の勝負手を繰り出したドリームパスポート。
──脚を痛めてなお光射す道を目指したマルカシェンクも、

──そして、己を貫いたソングオブウインドも。

ソングオブウインド。風の歌を聴け。

たとえ写真には残せずとも、あの日あの時、あの地で繰り広げられた熱い戦いは私の眼と心に焼き付いている。彼が輝いたあの菊花賞は、皆が与えられた力を絞り出して強くあろうと駆け抜けた菊花賞史を彩る名勝負だった。

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