「ヤマト」と「照男」の大金星!/2000年スプリンターズステークス

『照男』とは

関東の現役ジョッキーの中で、「江田照男」は特別な存在である。

1990年秋、雨中の天皇賞(秋)でメジロマックイーンの降着で繰り上がり優勝したプレクラスニー。鞍上は当時19歳だった江田照男騎手、彼の存在をしっかり記憶に留めたのはこの時だった。

武豊とメジロマックイーンの独壇場となった天皇賞。その遥か後方の2番手でゴールした江田照男。審議の青ランプが確定の赤ランプに替わった時、どよめきと共に「順当で平穏だった世界」が一変する。待機していた検量室前で、突然優勝レイを掛けられ、インタビューマイクを突き付けられた時の彼の戸惑い。笑顔も見せず淡々と受け答えするシーンを見て、「優勝騎手なのに、完全なヒール役。彼は何もしていないのに、なんて気の毒な…」と、中継を見ていた多くのファンがそう感じたのではないだろうか。

──"江田照男"という騎手。

1989年、デビュー1年目の夏。新潟記念で14番人気のサファリオリーブで重賞初勝利を記録する。そして翌年はG1初騎乗で初優勝を飾るとともに、史上最年少の19歳8カ月で天皇賞制覇を成し遂げた。

以降の彼の騎手人生は、常に“unbelievable”と隣り合わせでここまで来ているように思う。重賞レースで人気薄の馬を御して、場内をざわつかせる「穴男」と呼ばれ、江田照男ファンは自分の周りにも多くいる。もちろんそのうちの一人が私である。

 日経賞制覇のテンジンショウグン(1998年)、ネコパンチ(2012年)。有馬記念のアメリカンボス(2001年2着)、ビクトリアマイルのミナレット(2015年3着)など。重賞レースだけでなく平場のレースにおいても、高配当の江田照男馬券を何度も還元してくれる彼こそ“unbelievable”な存在そのもの。私も「競馬場での狂喜乱舞」を彼のおかげで、何度も体験させてもらった。

今でも、競馬新聞に一通り目を通して、江田照男の騎乗馬を見つけたら必ず一票投じる。最近は配当の高低に関係なく、江田照男馬券が払い戻し対象になるだけで凄くうれしくなる。競馬場で普通に予想して購入する馬券とは別枠の楽しみが、江田照男馬券だ。

江田照男の騎乗馬には、私にとって思い入れの強い馬がたくさんいる。中でも彼が2つ目のG1制覇となったレースの優勝馬。20世紀最後の秋、彼の手綱捌きでその素質を開花させた黒鹿毛の牡馬が大好きだった。今でも、「江田照男のベストコンビ」に指名されるのはこの馬だと私は思っている。

2000年スプリンターズステークス。江田照男が16番人気ながら優勝に導いたダイタクヤマトである。

『ヤマト』とは?

ダイタクヤマトは、1994年3月13日平取町の雅牧場で誕生した。

父は稀代の曲者ダイタクヘリオス。90年代前半の名バイプレーヤーで、自身もマイルCS連覇を含む重賞6勝の成績を残した名馬である。自由奔放なレーススタイルで、多くのファンがいた。ゲートが開くと気分赴くままに逃げるか、口を割ってへそを曲げるか。強さと脆さを兼ね備えた不思議な馬だった。

そのダイタクヘリオスの初年度産駒がダイタクヤマト。父と同じ黒鹿毛で誰もが父ダイタクヘリオスと同じような自由奔放のレーススタイルを期待した。しかし、息子は父とは異なる大人しく地味なスタイルで、レースキャリアをスタートさせた。

当時、ダンスインザダークが所属していた橋口弘次厩舎から、1996年9月の秋競馬スタート週にデビューが決まった。阪神2日目の3歳新馬戦、芝では無くダート1200mがダイタクヤマトのデビュー戦。高橋亮騎手を背に3番人気で出走したものの、好位に付けたまま雪崩れ込む形での3着。可もなく不可もなく、地味にデビュー戦を終えたダイタクヤマトは、その後もダート短距離の未勝利戦に出走したが勝つことはできなかった。

キャリア4戦目となる11月の京都未勝利戦。藤田伸二騎手に乗り替わり芝の1200m戦に出走したダイタクヤマトは一変した走りを見せる。上がり3F34秒4の最速での逃げ切り、2着エイシンピクシーに8馬身差をつけて待望の初勝利をマークした。

これで勢いづいたのか、続くさざんか賞も3馬身1/2差の逃げ切りで2連勝。年が明けると重賞路線を選択する。しかし重賞メンバーとの戦いではまだ力不足、シンザン記念(8着)、アーリントンカップ(4着)と収得賞金を積み上げるまでには至らなかった。

休養を挟んで条件戦から再スタートしたダイタクヤマトは、一段一段ステップアップしながらクラスを上げて行く。4歳(現3歳)10月に宝ヶ池特別、1年後の秋には内房特別に勝利し、ようやく準オープンクラスに昇格する。それぞれのクラスに上がっても昇格の壁に阻まれることなく、入着を繰り返しながらレーススタイルを確立させていった。逃げ、もしくは先行から押し切る「ダイタクヤマトパターン」が定着し、走破タイムも少しずつ早くなって行った。

転機が訪れたのは6歳になった1999年春、石坂正厩舎開業と共に橋口厩舎から移籍した。

転籍初戦、準オープンクラスの薫風ステークスで江田照男とのコンビが誕生する。結果は快調に逃げたものの、ゴール直前でエアスマップ(後にオールカマー優勝)に差し切られての3着。それでもゴール直前までダイタクヤマトは気持ちよく駆けていた。再び江田照男とコンビを組んだのが暮れの中山・仲冬ステークス。1枠に入ったダイタクヤマトと江田照男は好スタートから先頭に立ちそのまま押し切った。着差は3馬身1/2、タイムも1分8秒5と、1200mを逃げ切るための「技」が磨かれていることは確実だった。石坂正調教師が彼の1200mでの適正を見極めていたのだろうか。転籍後はレースのクラス、競馬場に関係なく、徹底した芝の1200m戦を最優先したローテーションが組まれていた。

2000年春。オープン馬となったダイタクヤマトは、待望のG1レース高松宮記念に出走する。

鞍上は高橋亮騎手、13番人気で出走したダイタクヤマトにとって、ここは敷居が高かった。それでも内枠からスタートしたダイタクヤマトは、先行するメジロダーリング、アグネスワールドに食らいついた。直線に入るまで先頭集団を形成していたが、追い込み勢に飲み込まれて11着。それでも優勝のキングヘイローから0秒5差は立派な成績だった。

現地で見ていた私は、パドックで見たダイタクヤマトの黒光りした馬体に惚れ、彼を軸とする人気馬への馬連・ワイドの流し馬券を買っていた。

「もしかしたら、この馬はどこかで大きなタイトルを取るかも知れない」

それ以降、彼が出走するレースでは、ダイタクヤマト絡みの馬券を必ず購入するようになっていた。

私が感じた「ダイタクヤマトが大化けする」予感は、その年の秋、見事に的中することとなる。

「ダイタクヤマトの大金星」は江田照男と共に!

高松宮記念で、強いメンバーと走ったことでペースの速さへの耐性と最後の踏ん張りが身に付いたように思えた。

4月の福島開催でオープン特別(やまびこステークス)に出走したダイタクヤマトは、トロットスターやメジロダーリングを相手に楽勝。続く中京のテレビ愛知オープンは、早めに捕まり0秒5差の5着に敗れたが、転戦した函館のG3函館スプリントステークスでは、2着に逃げ貼った。

収得賞金を積み上げたダイタクヤマトの秋は、王道のスプリント路線に駒を進める。ところが秋初戦のセントウルステークス、メンバーが揃った重賞では、8枠発走とはいえ逃げることもできず、好位で脚を使ってビハインドザマスクの7着に敗れる。ブラックホーク、マイネルラヴなどG1馬相手では、まだまだダイタクヤマトの力では分が悪いことが証明される形となった。

それでもダイタクヤマトは、スプリンターズステークスへのチャレンジを選択する。石坂調教師の後日談では、セントウルステークスの後、1200mの適度なレースが無かったので、距離優先でスプリンターズステークスを選択したとのこと。しかしこの選択がダイタクヤマトを名馬の域に引き上げることとなった。

2000年10月1日中山競馬場、秋のG1戦線初戦となるスプリンターズステークス。アグネスワールド、ブラックホーク、キングヘイロー、シンボリインディなどG1馬7頭含む16頭が出走。さすがにこのメンバーになると、ダイタクヤマトは最低人気に甘んじることとなる。イギリス遠征でジュライカップ(G1)を征して凱旋してきたアグネスワールドが1番人気。2番人気は秋初戦のセントウルステークスを2着でまとめたブラックホーク、そのブラックホークにセントウルステークスで勝ったビハインドザマスクが続く。

出馬表の8枠15番に記されたダイタクヤマトは、スタートが鍵。強いメンバー相手にスタート直後からハナをきれるかが全てである。春の高松宮記念では快速オープン馬たちに混じって、先頭集団に付いていくのが精一杯。今回は中館騎手の快速馬ユーワファルコンが、ダイタクヤマトより内枠にいるため、気持ちよく先頭に立つのは至難の業と思われた。

パドックでの周回は16番人気とはいえ、ダイタクヤマトの気合は抜群。汗で黒光りする馬体はアグネスワールドにも引けを取らない。騎乗合図がかかり、鞍上に江田照男が収まる。江田照男とのコンビはこれで3度目、ダイタクヤマトを手の内に入れているのは間違いないと私は思った。出来の良さでアッと言わせてくれるのではないかと、秘かに期待した。

一世一代のロケットスタートをダイタクヤマトと江田照男が見せた。ゲートが開くと飛び出したのがピンク帽子の2頭。更に16番枠のタイキレジャーを抑えて、ダイタクヤマトがハナをきる。内からユーワファルコンが瞬く間に並びかけてくる。江田照男は中館騎手の手綱が激しく動くのを見ながら一旦先頭を譲った。人気のアグネスワールド、ブラックホークは2頭の後ろの先行集団で様子を伺っている。中段にはマサラッキと香港から遠征してきたベストオブザベスト、後方にはビハインドザマスク、キングヘイローの姿。

3~4コーナーの中間点でダイタクヤマトが仕掛けた。外からユーワ―ファルコンに並びかけると並走状態で4コーナーに向かう。抜かれまいと手綱が動き始めたユーワ―ファルコンに対して、江田照男の手は動かない。

4コーナーを回ると、ダイタクヤマトが先頭。内でもがくユーワファルコンとの差が徐々に広がる。後ろからはブラックホークとスギノハヤカゼ、外からアグネスワールドがダイタクヤマトを射程圏に入れている。

残り150m、最後の坂を上るダイタクヤマトの脚は衰えない。3馬身後方でユーワファルコンをブラックホークとアグネスワールドが飲み込む。逃げるダイタクヤマトと江田照男、一完歩毎に後方の2頭が迫って来る。さらに大外からブロードアピールの豪脚……。

それでも人馬一体と化したコンビは、後方の気配が大きくなってくるのを背で感じながらも、ゴールだけを見ている。江田照男の手綱が激しく動き、アグネスワールドとブラックホークが1馬身差まで詰め寄って来た時、ダイタクヤマトの鼻はゴール板を通過していた。

江田照男はゴール板を通過すると、派手なガッツポーズをするわけでもなく、ダイタクヤマトを労わるように右手で首筋を撫でた。

感動的なウイナーズサークル

江田照男騎手にとって、繰り上げ優勝では無く自らの手綱で勝ち取った初のG1制覇。そして開業2年目の石坂正厩舎から誕生したG1馬ダイタクヤマト。

「初々しさ」と「ぎこちなさ」が入り混じった優勝セレモニーは、ひんやりとした空気の中、清々しいシーンが展開された。

本馬場に再登場したダイタクヤマト。何が何だか分からないような状態で、本馬場に入ると立ち止まる。立ち止まったダイタクヤマトに、関係者に贈られる優勝の花レイをかけようとしてダイタクヤマトが戸惑うシーンには、笑いと拍手が起こった。


私の中で、江田照男騎手のベストレース、そして彼のベストパートナーはダイタクヤマト。私がこのレースで、当時の馬券的中最高払い戻し額を記録した事もあるかもしれない。しかしその色眼鏡を外しても、最高のジャイアントキリング、会心の逃げ切りレースとして、私の競馬観戦史に記されている。

いつまでも語り続けたい、2000年のスプリンターズステークスだ。

Photo by I.Natsume

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