尾花栗毛が冬の枯芝に輝いた! 「この馬は競馬を知っている」と感じさせた名馬、トウショウファルコ

まだ、スマホもSNSも無かった、平成初期の頃の話──。

一頭のグッドルッキングホースが、華麗なる逃げを披露していた。もしも、令和の時代に現役生活を送っていたら、間違いなくアイドルホースオーディションの上位に名を連ねる人気馬になっていたはずだ。

トウショウファルコという名の馬は、いわゆる名馬列伝の中で派手に語られるタイプではない。だが、当時のファンの記憶の中では、妙に鮮明に残っている。理由は単純で、彼には「見惚れる美しさ」があったからだ。

尾花栗毛──パドックで周回していると、それだけで胸が少し高鳴る。芦毛とは違う金髪のたてがみと明るい栗毛の馬体は、当時の真冬の枯れた芝に映えた。

尾花栗毛というだけで視線を奪うのに、彼にはさらに整った馬体、柔らかい眼差しがある。

パドックで彼を見たファンは、勝ち負けとは別の次元で「いい馬だな」と思わず呟いてしまう。

そんな馬は、そう多くない──。

トウショウファルコは、1986年に静内の藤正牧場で生まれ1989年2月の小倉競馬場でデビューした。父はテンポイント、トウショウボーイと共に「TTG時代」の一角を形成したグリーングラス。母カメリアトウショウは不出走馬だが、トウショウボーイの母ソシアルバターフライの血を継ぐ良血馬。

2戦目の折り返しの新馬戦で勝利を上げたが、デビュー当初は決して目立った馬では無かった。デビューが遅れたこともあり、クラッシック戦線に乗ることもできなかった。古馬との混合戦が始まる夏の函館で、ダートの400万下条件戦(現1勝クラス)を勝ち上がると、900万下(現2勝クラス)で頭打ち状態になる。芝の2000mを中心に休みなく8戦消化するが、勝ち上がることができない。5歳(現4歳)になり、夏に降級すると、降級初戦で3勝目を上げ、再び900万下(2勝クラス)に復帰する。

このころからトウショウファルコは、「先行逃げ切り」のレースパターンを確立させ、勝てなくても着順掲示板に馬番を掲示する走りが定着しはじめる。馬券の対象になる走りを繰り返すと、トウショウファルコの名前はファンたちに知られるようになり、目立つ馬体と共に人気馬になりつつあった。

人気先行のトウショウファルコだったが、次第に競走成績が追いつき始めた。

6歳(現5歳)になると、準オープンクラスに昇格。格上挑戦となった夏の福島・七夕賞で重賞初挑戦になったものの、3着に好走(8番人気)した。秋には、東京スポーツ杯と91フェアウエルステークスを勝ち、正真正銘のオープン馬に昇格する。

道中は先行集団に取り付き、4コーナーを回ると先頭に立つ、「ファルコパターン」は定着。直線で栗毛の美しい馬体が馬群を誘導するシーンを、私もワクワクしながらカメラを向けていた。

■1992年1月の奇跡 トウショウファルコが輝いた!

トウショウファルコが最も輝いたのが1992年1月だった。

年度初日のメインレースが東西の金杯、そして後半に実施される日経新春杯とアメリカジョッキークラブカップ。古馬の牡馬たちが新年度の始動戦に使う芝の重賞である。普通は、このどこかのレースを使って、2月以降の重賞レースに駒を進めるのが常道だ。実際に1月の重賞レースに勝ち、2月以降のステップレースを使ってGⅠ戦線で大活躍する馬も多い。

トウショウファルコは、初日の日刊スポーツ賞金杯(現・中山金杯)と、2週後のアメリカジョッキークラブカップを連勝する。1月の2つの重賞に出る馬も多くない中、出走して連勝するのは稀なこと。トウショウファルコ以降では、2005年にクラフトワークが記録している。

当時の冬の中山競馬場は、野芝が休眠状態に入り、芝コースは茶灰色だった。メインレースの頃に西日が射すと枯れた芝がキラキラ光る。1992年1月、その光の中心にいたのが、尾花栗毛のトウショウファルコだった。

暮れのフェアウエルステークスを勝ち上がり、金杯に駒を進めたトウショウファルコは6番人気。皐月賞2着、菊花賞5着の戦績を持つミスターシービー産駒のシャコ―グレイドが抜けた1番人気で、このメンバーなら初重賞制覇…と思われていた。

レースはオニマリオ―の逃げで始まり、トウショウファルコはゆったりと二番手に付ける。好位から、慌てず、騒がず、じわりと進出する競馬。直線で抜け出した瞬間、派手なガッツポーズより先に、「やっぱりな」と頷いてしまったファンも多かったはずだ。強さを誇示するというより、実力を淡々と証明する勝ち方で初重賞制覇を成し遂げた。

そして、その余韻も冷めやらぬうちに迎えたアメリカジョッキークラブカップ。年明けの中山芝は、ただでさえタフだ。しかも金杯を勝った馬が、簡単に連勝できる舞台ではない。それでもトウショウファルコは、また同じように、静かに、しかし確実にレースを支配した。

スタートすると同時に先頭に立ったトウショウファルコ。前半1000メートルを62秒というスローペースに持ちこみ、そのまま最後まで押し切っての逃げ切り。1番人気のメジロライアンもカリブソングもシャコ―グレイドも…有力馬たちは成す術もなく、トウショウファルコの逃げ切りを許してしまう。

決して派手な逃げ切りには見えなかった。しかし、コース取り、リズム、仕掛けのタイミング——すべてが噛み合ったときの完成度は高く、「この馬は競馬を知っている」と感じさせる。中山の冬芝を勝ち切ったその姿に、ファンは自然と拍手を送っていた。

トウショウファルコが1992年の日刊スポーツ賞金杯、そしてアメリカジョッキークラブカップを連勝したあの一ヶ月は、いま思い返しても「真冬の奇跡」と呼びたくなるほど鮮やかだった。

年明け早々、重賞連勝を果たしたトウショウファルコは、天皇賞(春)の注目馬の1頭となった。しかし、同競走へのステップレースとして選んだ日経賞直前に蹄球炎を発症し、休養を余儀なくされる。

再び尾花栗毛のその姿を競馬場に登場したのは、秋の府中GⅠ、天皇賞(秋)。トウカイテイオーの復帰戦として話題が集中したレースで、トウショウファルコはあまり注目されず。それでも、久々の競馬場を楽しむように、気持ち良さそうに返し馬に入って行った。

レースはダイタクヘリオスとメジロパーマーの激しい先行争いの直後に、トウカイテイオーと並走して追走していたが、直線で馬群に飲み込まれ13着。優勝した伏兵レッツゴーターキンから1秒6遅れてゴールに雪崩れ込む。

「久々であのハイペースだから仕方ない」

「このあと、ひと叩きして、得意の中山の有馬記念が勝負さ!」

トウショウファルコのファン誰もが、「尾花栗毛の逃げ」を次走以降に期待した。

しかし…「競走馬としての」トウショウファルコを競馬場で見ることは、以後無かった。

■引退後 誘導馬としての第二の馬生

トウショウファルコの引退が発表された時、ファンの間では「グリーングラスの後継種牡馬に」と期待する声が多く上がった。しかし、東京競馬場で誘導馬となることが発表され、訓練を経て1995年6月の開催より、誘導馬として再登場する。

誘導馬として再びファンの前に姿を見せたトウショウファルコ。

これがまた、よく似合った——。

誘導馬というのは、ただ落ち着いていれば務まるわけではない。レース前の緊張感の中で、若い馬たちを導き、観客の視線を受け止め、場の空気を整える“舞台の要”だ。トウショウファルコは、その役割をまるで天職のようにこなした。

尾花栗毛の馬体は競走馬時代よりもさらに柔らかく輝き、「この馬、やっぱり絵になるなあ」

とファンに思わせる存在感を放ち続けた。現役時代の疾走する姿より、誘導馬としての姿に心を掴まれたファンも少なくないはずだ。

トウショウファルコは1999年11月の開催をもって誘導馬の役目を終える。当日の昼休みには、「トウショウファルコお別れセレモニー」が行われた。

その後、横浜市根岸の馬の博物館で余生を過ごし、2005年10月7日に19歳で亡くなっている。

■「強さ」と「美しさ」の両立を見せた、稀有な馬

トウショウファルコの魅力は、強さと美しさが矛盾なく同居していたことだ。

勢いのある先行馬で重賞連勝という確かな実績を持ちながら、どこか柔らかく、優しい雰囲気をまとっていた。他のオープン馬たちとは異なり、厳しい勝負の世界にいながら、どこか「静かな華」を感じさせる馬だった。

いま振り返ると、彼の蹄跡は決して派手ではない。しかし、冬の中山で見せた輝き、そして誘導馬としての穏やかな存在感は、90年代を競馬場で過ごしたファンたちの心に長く残り、「温かい記憶」として息づいている。

なぜなら、トウショウファルコには、「いい馬」「また会いたくなる馬」の要素が、すべて詰まっていたからだ。

1月の中山競馬場のスタンドに立つと、今でもトウショウファルコを思い出す。

Photo by I.Natsume

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