タワーオブロンドン~四半世紀越しのロマンを体現したスプリント王者~

1996年。

半兄にオースミタイクーンを持ち、父に欧州の名種牡馬サドラーズウェルズ、アイルランド生まれの良血馬シンコウエルメスがデビュー戦で5着に敗れ、勝ち上がるための調教を積んでいたその時──事故は起きた。

重度の骨折だった。
到底助かる見込みのないようなその怪我の重さは、診断した獣医に「残念ですが、かなり難しい状況です」と言われてしまったという。

しかし同馬を管理する美浦の名伯楽、藤沢和雄師は「オーナーがいい血統の馬だという事でわざわざ日本に連れてきてくれた。何とか助けてはくれないか」と手術を依頼。

そしてこの選択が大英断だったことを、我々は10数年後知ることとなる。


JRAの獣医師を含めた精鋭たちの手術はなんとか成功したものの、競走馬としての能力は失ってしまったシンコウエルメスはそのまま繁殖入りし、7頭の産駒を残した。2番子のエルノヴァがエリザベス女王杯で3着に入るなどの活躍を見せた以外は直仔に目立った活躍を挙げた産駒はいなかったが、1番子のエルメスティアラが2013年にディープインパクトとの間にディーマジェスティを産むと、皐月賞を勝利するなどの活躍を見せる。

そして2017年。

彼女の最後の産駒、9番子スノーパインと欧州の名マイラーレイヴンズパスとの間に産まれた鹿毛の牡馬が、世界的オーナーブリーダー、シェイクモハメド殿下から「タワーオブロンドン」という名を貰い受け、かつて祖母の命を救った藤沢和雄厩舎の元へ向かった。

シンコウエルメスが藤沢厩舎を去ってから、実に21年の時が流れていた。

素質の証明と、一頓挫

ダーレージャパンファームでも有数の成長力を見せていた彼は、その成長通り3歳マイル路線を主役候補として駆け抜けていく。クリストフ・ルメール騎手を鞍上に迎えたデビュー戦を逃げ切り勝利。続くクローバー賞ではダブルシャープに差し返されて敗れたものの、そこからききょうS、京王杯2歳Sと連勝する。朝日杯フューチュリティステークスこそダノンプレミアムの前に3着と敗れたが、年が明け始動したNHKマイルCトライアルのアーリントンCは距離不安も囁かれる中外から強襲し、レースレコードを叩き出す鮮やかな勝ち方を見せた。

当然、本番のNHKマイルCでも大本命。
高速決着が見込まれる東京実績もあることから抜けた2.6倍の1番人気に支持された。

しかしその期待とは裏腹に、待っていたのは厳しい結果だった。

スタートで躓くと、インの中団でじっと待機し前が開く瞬間を窺っていたが、いざ抜け出そうとエンジンがかかった瞬間、前が塞がった。

外から内から、何度も激突され大きくバランスを崩し、本来の末脚は発揮されることがないまま不完全燃焼の12着。デビュー以来最低の着順、そして何度も不利を受けた馬のメンタルを考慮してか、陣営は登録していたロイヤルアスコット遠征も、安田記念の挑戦もすべて撤回し、長期休養という判断を下した。

こんなところにも、藤沢和雄師の「馬最優先」という信念が現れているのではないだろうか。

秋のキャピタルSで復帰後は2着、5着と惜しいところまでは行くものの勝ちきれないレースが続く。

そしてこの東京新聞杯5着後、起爆を図ったか陣営は2歳時以来の1400m戦、安田記念の前哨戦である京王杯スプリングCを使う事を発表。

鞍上に日本初来日のダミアン・レーン騎手を配してのこの1戦で、彼のスプリント資質が顔を覗かせ始めることになる。

スプリンターの素質が開花する時

この年の安田記念は、ドバイターフを圧勝したアーモンドアイがG1競走7勝目の大台を目指して出走。レース前から、いつにない盛り上がりを見せていた。

そんな女王に挑戦する馬達の前哨戦、京王杯スプリングC。

G1馬こそサトノアレスの除外で消えてしまったものの、主役のチャンスを狙う馬達が多く揃う中、タワーオブロンドンは1番人気に推されていた。

とはいえ上位人気馬達のオッズの差はそれほどなく、4番人気トゥザクラウンまでがひとケタ台。2歳戦以来の1400m戦に、不安を抱くファンも少なくなかったのだろう。しかし、ルメール騎手がデビューからずっと「短い距離の方がいい」と言い続けてきたように、彼の本質はスプリントで開花する。

ゲートが開くとレーン騎手は好位後ろの外へ馬を誘導し、そのまま馬になるべくストレスがかからないような位置へ。中団から直線で前が開くと、馬なりのまま先頭を射程圏内に捉えた。

抜け出したトゥザクラウンが二枚腰で粘り、その後ろからロジクライも迫る。

だが、前半ブロワとダイメイフジが作り出したスローペースが先団に利をもたらしたか、なかなか前が止まらない。このまま好位勢で決着するかにも思われたが、レーン騎手の風車鞭が入った、残り1ハロンでターボがかかったように一気に再加速。

ゴール前でしっかりと前を捉え、見事勝利を収めた。
アーリントンC以来となる重賞制覇は前年厩舎の先輩、ムーンクエイクが作り出した1.19.5のコースレコードをコンマ1秒更新するおまけつきの白星だった。

「G1で好勝負できる力がある」

翌日、ヴィクトリアマイルで来日初G1制覇を飾ることとなる豪州の若き名手にそう言わしめたその脚と実力は、次走以降で着実に証明されてゆく。

完全にスプリンターと見切った師は安田記念を回避し、サマースプリントシリーズに参戦。初戦の函館スプリントSこそ後方から届かず3着に敗れるが、続くキーンランドCは内で苦しい展開になりながらも短距離界の主役ダノンスマッシュをあと一歩まで追い詰める2着に食い込んでいた。

中1週のきついローテの中参戦した最終戦セントウルSは後方からただ1頭、目の覚めるような豪脚を披露し完勝。日本レコードにコンマ2秒迫るようなその勝ち方は、サマースプリント王者に輝いたことなど二の次に回してしまうような強烈なものだった。

「めちゃくちゃ強かった!」

レース後興奮気味にそう語っていたルメール騎手の口調が、次なるスプリント王者の誕生を予兆させる。勿論次走は3歳春以来となるG1挑戦、スプリンターズS。

その真価は、秋の大一番で存分に発揮されることとなる。

25年越しとなる、勝利の美酒

短距離界の王者・ファインニードルが引退し、スプリント戦線に再び戦国時代が到来していたこの年。

一度は高松宮記念でのミスターメロディの見事な勝ち方に、一気のスプリント戦線平定まで見込まれたものの、そのミスターメロディが復帰戦のセントウルSでタワーオブロンドンの前に完敗した事、さらには夏を経て数多くの短距離馬が戦いに名乗りを上げてきていた事もあり、混沌とした状況は以前として続いていた。そのため、このスプリンターズSで真のスプリント王者が決定するのではないかという雰囲気すら醸し出されていたように思う。そうした大一番でタワーオブロンドンは2番人気に推された。

前走で春のスプリント王者を破った事、そして圧巻ともいえるそのレースぶりから、次代の王者に輝くには相応しい実力を秘めていたのは最早疑いようもない。前年同様ゴドルフィンブルーの勝負服が1番に先頭を駆け抜けるという期待を、多くのファンがその鹿毛の馬体に託していた。

──とはいえ、キーンランドCでタワーオブロンドンを破り、春の雪辱を晴らすべく乗り込んできたダノンスマッシュ、好スタートから上位を狙う快速牝馬モズスーパーフレア、更には新進気鋭3歳の新星ディアンドルなど、上位人気の馬はあいずれも魅力十分。そうした馬たちとの力量差はそれほど感じられないばかりか、前走の着順で人気を落としたとはいえ春の短距離王者でもあるミスターメロディ、不屈の牝馬レッツゴードンキなども出走し、非常に難解なレースとなっていた。

初秋の中山にファンファーレが響き、電撃の6ハロン戦の火蓋が切って落とされる。

ハッピーアワーがやや出負けした以外はほぼ一団でのスタート。しかし束の間、物凄い勢いでモズスーパーフレアがスムーズに先頭へ立っていく。自分から進んでいかなかった高松宮記念とは打って変わって順調なスタートを切っていた。しかしこの日は中距離界から参戦した快速マルターズアポジーが、父譲りのスピードで同じようにハナを主張。更にその外から武豊騎手とファンタジストも前へいく展開となった。

それでもハナを譲らないモズスーパーフレアの作り出した前半600mは、なんと32.8。過去10年でも2番目に速いそのペースに、ついていった2頭はたまらず脱落。ところがモズスーパーフレアの脚色は4コーナーでも鈍らないばかりか、一気に仕掛けてきた春の王者ミスターメロディの追撃すらも坂の登りで振り切る。勝負はこのまま決まるかにも見えた。

しかしただ一頭、外から物凄い脚で強襲する鹿毛の馬体がいた。

タワーオブロンドンである。

3.4コーナーで、インのスパートに拘ったダノンスマッシュからひと呼吸おいて外に持ち出したルメール騎手の判断は、最良のものだった。2走前で内が詰まりスムーズな競馬ができなかった反省をしっかりと活かし、今度は逆にダノンスマッシュを内へ封じ込める。

狙い通り、モズスーパーフレアのハイペースのあおりで下がってくる馬達で一瞬ブレーキをかけざるを得なかったダノンスマッシュとは対照的に、ひらけた道を行くばかりか、ターゲットの外へ持ち出す進路すらも意識したうえでの敏腕ぶりが、相棒の走りに更なる力を与える。

余計な遮蔽物が無くなったタワーオブロンドンは、一気に弾けた。

一瞬スパートが遅れたダノンスマッシュを置き去りにすると、後は前の2頭を交わすだけ。

春の王者ミスターメロディを瞬く間に交わし去り、先頭で粘るモズスーパーフレアを図ったようにゴール前できっちり半馬身捉えて1着。

シンコウエルメスから25年。その孫が、師の信念の正しさを証明した。

「シンコウエルメスがアイルランドから来て25年。やっとその血を受け継ぐ素晴らしい馬に巡り合えたことに感謝しています」

一瞬言葉を詰まらせしみじみと語った藤沢和雄師の言葉と表情は、忘れられないものとなった。

史上初、サマースプリント王者のスプリンターズS制覇という偉業を達成したタワーオブロンドン。

祖母譲りの鹿毛が威風堂々、短距離界の王座へと登り詰めた瞬間だった。

執念の結実。夢は次代へ。

スプリンターズS勝利後は2019年を全休に充て、翌年はオーシャンSから始動。しかしダノンスマッシュとの2キロの斤量差が応えたか、はたまた休み明けの影響かここでは3着に敗れると、続く本番高松宮記念ではドバイへ渡航したルメール騎手の代打として短期免許で来日していたライル・ヒューイットソン騎手を鞍上に迎える予定だった。

ところが新型コロナウイルスの影響でドバイが中止になり、鞍上を福永祐一騎手へ変更。迎えた本番はいい行きっぷりを見せたものの、直線弾けず12着に惨敗する。

連覇を狙った京王杯スプリングCも好位から全く伸びず、8着。そして長期休養明けの暮れ、香港スプリントも見せ場なく13着に大敗し、種牡馬入りへ……。前シーズンの強さは鳴りを潜めたまま、無念の引退となってしまった。

そのスピードと欧州血統を受け継ぐ産駒のデビューは2024年。

欧州の名門ファミリーの血がどう輝くか。夢は次代へと託された。

スプリンターズS以後は3着が最高と、やや物足りなく感じる人もいるかもしれない。しかしそれでも、師の「馬最優先」主義が時を超え結実したのはほかでもない事実である。その結果、ディーマジェスティやタワーオブロンドンという、素晴らしき名馬が誕生し、そしてその後もオセアグレイトらがシンコウエルメスの牝系を継ぐ現役として奮闘している。

もしもあの時、師がシンコウエルメスの安楽死という決断に首を縦に振っていたら……。

繁殖牝馬としての道すら諦めるような方向に誘導していたら……。

このドラマは、牝系は誕生していなかった。

あの67秒の偉業達成の裏には、血のにじむような人々の努力と決断が凝縮されていたのである。

写真:Horse Memorys

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