日本ダービーが開催されるシーズンがやってきた。
イギリスのチャーチル元首相が「ダービー馬の馬主になるのは一国の宰相になるより難しい」と言ったとか言わないとか、そんな伝承すらある大レースだ。
毎年このシーズンになると、競馬ファンはウキウキとした気持ちになる。
ふと思い至って、実際に2400mをサラブレッドになったつもりで、走ってみることにした。
2400mというと、どんなコースを走れば良いだろうか。
僕の自宅近辺で済ませるのであれば、玄関を出てすぐコーナーをまわり、そこから真っ直ぐ走り、数年前にできたばかり葬儀場の隣りにある公園までが、丁度片道1200m。
そこを折り返して、自宅に戻って、ちょうど2400mになる。
よし、やってみよう。
僕はそう心に決めて、翌朝を待った。
そして、早朝4時30分。
5月とはいえ、随分と冷える朝だった。
住宅街を走るので、まだそれほど人が出歩いていないような時間を狙った。
目標タイムは、サラブレッドと同じ2分20秒〜30秒台。
……人間には明らかに無理なタイムだが、あくまでも目標は目標だ。
あくまで今回は「サラブレッドになったつもりで走る」ということ。
自分がサラブレッドなら、それくらいで走りたい。
まずは、前半6ハロンをどう乗り切るかだ。
スタート直後は下りだが、その後はゆるやかな平坦に近い下りが続く。
この「コース」の特性上、前傾ラップは確実だ。下りをいかして後半につなげていきたい。
脳内で美しくファンファーレが鳴り、ゲート(?)イン。
架空の係員が離れて、スタートを切る。
好スタートが切れた。
すぐに、キツいコーナーをまわる。
両サイドの戸建て住宅やアパートに囲まれて、朝の風を感じながら、走る、走る、走る……。
普段車で通る時には気づかない細かい風景が目に飛び込んではくるものの、早くも僕に感想を思い浮かべる余裕はない。
普段の走り込み不足が、すでに露呈されていた。
当たり前だが、あっという間に目標としていた2分30秒は過ぎている。
ゆるい下りが、淡々と続いている。それでも、それだけなのに、キツい。
たまにイヌを散歩させる人とすれ違う。
カラダが温まるのと同じくらいの早さで、かなり肺に負担を感じるようになっていた。
思うように足が回らない。それでも、ひたすら走るしかない。
ふくらはぎも、痙攣寸前だった。
自分が思っていた以上にカラダに異変が起きているのかもしれない。
疲れがほとんど限界のような状態で、ようやく公園の折り返し地点をまわった。
その時、僕の脳内で次々に疑問がわいてくる。
「なんで? なんで僕は、2400mにこだわり、走っているんだ? ここで走るのをやめたって、脚を止めて歩いたって、誰にも迷惑はかけないし、誰も困らない。なんで? なんで走っているんだ?」
そうした疑問に、自問自答する。
「……そうだ! 僕はいま、サラブレッドなんだ!」
自分にそう言い聞かせると、そのままただひたすら走る。
後半の6ハロンは、行きとは逆に、緩やかな坂がずっと続く……。
長い。実に……長い……。
左足の付け根に、痛みがある。
息があがる。いた、随分前からずっとあがっている。
やがて、中山競馬場を連想させる、『ゴール前』の坂に差し掛かる。
もう僕は、ランナーズハイ状態にあった。
軽くないカラダが、なぜだか軽く感じる。
ふくらはぎは限界のはずなのに、その危険信号さえ感じなくなっている。
残っていない脚力を振りしぼりに絞って、ゴールの自宅前に向かっていく。
──そして、走り切った。
僕は2400mを、なんとか走り切った。
……もうタイムなど、どうでもいい。
僕は『サラブレッドになって』2400mを走ってみたのだ。
ちゃんとやり遂げたのだ。
ゴールしてからしばらくは、動けなかった。
呼吸が整わない。本当に、しんどい。
それにしても、自分で2400mを走ってみて、改めて思う。
「サラブレッドって、スゴい」
ダービーで1着になる馬も、シンガリでゴールする馬も。
ダービーに出られなかった馬も。
みんなすごい。
みんな、本当にすごい。
「僕はサラブレッドにはなれない!」と、そんな当たり前のことを痛感した。
そんな朝だった。
日本ダービーが、今年もやってくる。
自らの限界に挑戦し、2400mを全力で疾走する、3歳馬たちの戦いが。
そんな彼らを、今年はいつもと違う気持ちで応援できる気がした。