「ふたり」の時間は終わらない。ネオユニヴァースとM.デムーロ騎手の物語。

思わず声を出して笑ってしまった。

たぶん、彼がジョープロテクターに乗って淀短距離Sを勝ったときのことだったと思う。テレビ中継のカメラがいつものようにウィナーズサークルの様子を捉えると、そこには満面の笑みを浮かべながら、ターフィーくんに抱きついて喜ぶジョッキーの姿があった。まるで子どもが遊園地のキャラクターとじゃれ合っているかのような無邪気さ。その屈託のない笑顔はすぐさま彼のトレードマークとなり、当時21歳になったばかりのイタリア人ジョッキーが日本のファンと関係者に愛されるまでに、さほど時間はかからなかった。

ミルコ・デムーロ騎手は、人間味あふれる男だ。

勝てば思いっきり喜ぶ。興奮のあまり相手ジョッキーの頭をポコっと叩いたり、まだゴールしていないというのに両手を離した「飛行機ポーズ」を見せたり、そのアクションも独特だ。

遠慮なく言ってしまえば、軽く常軌を逸しているとさえ思うことがある。

その反面、結果が出ないときの落ち込みぶりも激しく、見ているだけで「ああ今はちょっとお悩みモードなんだな」と勘付くことができるほど。勝ちたい気持ちが時に空回りし、強引な騎乗で他馬に迷惑をかけてしまうこともあった。

武豊騎手やクリストフ・ルメール騎手が、良い時も悪い時もスマートな振る舞いを見せるのとは対照的に、彼はいつだって心身の浮き沈みを包み隠すことなく生きてきた。きっとそれが彼の魅力なんだろうと思う。

そんなミルコ・デムーロ騎手に感動の涙を流させたのがネオユニヴァースだ。03年、彼に外国人騎手として初めて日本ダービーのタイトルをプレゼントした、生涯最高のパートナー。

重馬場の戦いを制し、泥まみれになりながら栄光をつかみ取った「ふたり」が誇らしげに大観衆のもとへと姿を表すと、そこに待ち受けていたのは割れんばかりの「ミルコ・コール」だった。

こんな手厚い祝福に、彼の熱いハートが耐えられるわけがない。あっという間に顔はくしゃくしゃになり、涙が頬を伝った。ヘルメットを外し、何度も頭を下げながら歓声に応える姿を見ていると、何だかこちらも同じくらいうれしくなった。

競馬の本場・ヨーロッパからやってきたジョッキーが、この極東の島国でダービーを勝ったことを泣いて喜んでくれている。自分たちと同じくらい、ダービーのことを大切に思ってくれている。日本の競馬に敬意を抱き、愛情を持ってくれている。それがひしひしと伝わってきたのが、泣きたくなるほどうれしかった。

デビューから主戦を務め、きさらぎ賞でも勝利を分かち合った福永祐一騎手が、同じ瀬戸口勉厩舎のエイシンチャンプに乗ることになった。それが出会いのキッカケだった。「身体が二つほしい問題」は多くの名ジョッキーが経験してきた分岐点。もちろん福永騎手もネオユニヴァースの潜在能力の高さは十分にわかっていたが、それを承知の上でG1朝日杯フューチュリティSをともに制した戦友を優先したのは、その先の結果を知った今でも正しい選択だったと思う。

こうして委ねられたネオユニヴァースの手綱が、ミルコをまだ見ぬ栄光へと導いた。初めてコンビを組んだスプリングSで、当時クラシック有力候補の呼び声高かったサクラプレジデントに完勝。皐月賞でもマッチレースの末に再びサクラプレジデントを破り、人馬とも初めてとなるG1を手にすると、もう「ふたり」の行く手は誰も阻めない。そのまま力強く3歳世代の頂点へと駆け抜けていった。

残念ながら菊花賞は3着に終わり、三冠馬として歴史に名を残すことはできなかった。古馬になってからはG2大阪杯を勝ったものの、春の天皇賞で大敗を喫したあとに屈腱炎を発症。3歳春の華々しい活躍を思えば、少しさみしい形でターフに別れを告げることになった。
それでも、菊花賞に臨むにあたってはJRAが特例措置を取り、すでに短期免許期間が終了していたミルコの騎乗が認められるなど、競馬界に残した影響は大きかった。

充実の日々をともに過ごした「ふたり」も、しばらくはそれぞれの時間を過ごした。ネオユニヴァースは種牡馬となり、初年度産駒からアンライバルドやロジユニヴァースを輩出。たちまちトップサイアーの座へと昇り詰めた。ミルコも以前と変わらず短期免許制度を利用し、定期的に日本で騎乗していたが、やがてその心の内には新たな想いが芽生えていったのだろう。「いつかJRAの騎手になって、ずっと日本で乗りたい」と。

──さらに月日は流れ、2011年3月。遠く離れたドバイの夜空のもと、あの日と同じく馬上で涙を流すミルコの姿があった。ヴィクトワールピサとのコンビで、ドバイワールドカップを制覇。日本調教馬として初めて、世界最高峰のタイトルを手にした瞬間だった。

涙の理由は、すぐにわかった。ただ勝利の喜びだけがあふれたものではない。胸の前で十字を切り、天に向かって突き上げられた拳にこめられた意味は、大きな災害に遭い傷んだ心にこれでもかというほど深く刻み込まれた。

「大好きな日本のために勝ててよかった」。

多くの生命が奪われた。住むところも、食べるものも、生業も全てを失った人たちがいた。「がんばろう日本」を合言葉に、必死に心と身体を奮い立たせようとしていたが、あまりにも苛烈な傷跡を前に、何を頑張ればいいのかもわからず、途方に暮れるしかなかった。

厳しい現実に打ちひしがれる中で届いた希望。ミルコは最高の形で、自らを受け入れてくれた「愛する国」に恩返しをしてくれた。その瞬間をもたらしたパートナーは、他ならぬネオユニヴァースの産駒だった。

15年にはJRAの騎手免許を取得し、念願の「日本のジョッキー」になったミルコ。その翌年にはヴィクトワールピサ産駒のジュエラーで桜花賞を制し、祖父ネオユニヴァースから三代続けてG1を制する偉業を成し遂げた。これは2022年現在、中央競馬では他に河内洋元騎手しか達成していない、とんでもない記録。初めてネオユニヴァースの背に跨ってから10年以上の時を経てもなお、「ふたり」の時間が力強く刻み続けられてきた証だ。

あどけない表情を振りまいていた青年も、今は笑うとさすがにシワが目立つ年齢になった。それでも人なつっこさは今も変わらないし、いくら注意されても両手を離してのガッツポーズはついつい出てしまう。

日本語も堪能になり、インタビューは通訳なしでの受け答えが当たり前。休日には騎手仲間と京都市内の山に出向き、サイクリングで身体を鍛えるなど、日常生活にもすっかりなじんでいる様子。交通安全大使として警察のイベントにも参加するなど、PR活動にも積極的に協力している。

競馬ではうまくいかないこともあった。成績が低迷する時期も経験し、多くの強いお手馬が彼のもとを離れた。そのさなか、2021年にユーバーレーベンでオークスを勝った際に残した言葉が今も強く心に残っている。

「人生は難しい。早く『ヤクドシ』が終わってほしい」。

たくさんの栄光を味わいながら、悔しさとも戦ってきた男の言葉は深い。そして何より、「厄年」という言葉が出てくるほど日本文化が浸透していることが、「同じ日本人」として誇らしく感じられた。

ミルコ・デムーロは今日も愛する日本の空のもと、JRAのジョッキーとして戦い続けている。そして、2021年この世を去ったネオユニヴァースの血脈もまた、競馬場に息吹き続けている。

「ふたり」の時間は、まだまだ終わらない。

写真:Horse Memorys、かぼす

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