競馬新聞の馬柱にほとんど必ず載っている情報のひとつに、出走する各馬の「道悪実績」「重・不良の成績」がある。良馬場で競馬が行われる時には特に気にも留めない情報だが、重馬場や不良馬場で開催される際には人気の有無にかかわらず、その欄をチェックする競馬ファンも多いのではないだろうか。
2010年の中山グランドジャンプ。私は、現地の中山競馬場で観戦をしていた。残念ながら、その数日前に降った雨が、競馬場の桜の花びらを散らしてしまっていた。
「今日は(暮れの)大障害で、明日が有馬記念だっけ? そんな錯覚に陥りそう」
「本当にね、年末みたいな空気感だ」
この日、競馬場に集まった仲間とそんな話題になるぐらい、とてもとても肌寒い日だった。晴れてはいたものの、気温は上がらず芝もダートも不良馬場。目の前を馬が走るとベチャベチャと音を立てていることからも、この日の馬場はかなりの水分を含んでいるのが伺えた。
この年の中山グランドジャンプの出走馬の重・不良馬場での成績を確認する。私の連軸候補の馬は重馬場での勝利経験があるので心強く思った反面、競馬新聞に掲載されていたデータコーナーでは<1勝馬は厳しい>という理由で、勝ち馬の候補から脱落していた。
その馬は、メルシーモンサン。
前年暮れの大障害では掲示板に乗る5着と健闘したが、このグランドジャンプではあまり注目をされていない存在だった。それでも私は大いに狙い目はある、と感じていた。なぜなら、J・G1で必要な「大障害コースの経験」を持ち合わせていたからだ。急勾配のバンケットと大竹柵・大生垣を経験しているか否か。仮に着順は悪かったとしてもこの経験の有無は、予想するうえで大事なものだと感じていた。
2008年のこのグランドジャンプで1番人気に推されたのは、エイシンニーザン。障害転向後3戦して負け無しで臨んだものの、初めてとなる中山コースに苦しみ5着に敗退。
さらに遡って2004年に障害レースを5連勝して暮れの大障害に挑戦したロードプリヴェイルですら初の中山、初の大障害にやはり苦しめられて5着に敗れた。
だからこそ、この年の出走馬のなかで中山コースが初となるショウリュウケンや重賞勝ちの勢いがあるトーワベガですら、私は軽視した予想となった。
メルシーモンサンが障害戦初勝利を挙げたのは、その前年の夏の小倉でのもの。そのとき以来となる、雨で湿った道悪馬場での出走となった。そして前年の暮れの大障害では勝ち馬とは1.6秒差だったにもかかわらず1勝馬だからなのか、もしくは大本命馬とされている同厩舎・同馬主のメルシーエイタイムの露払い扱いなのか、8番人気で単勝オッズは40倍前後を行ったり来たりしていた。前哨戦のペガサスジャンプステークスで6着だったことも、人気が無かった要因かもしれない。
さらにもう1つ、私はどうしてもメルシーモンサンを買いたい理由があった。それは鞍上が高野容輔騎手だったことだ。競馬とは縁もゆかりも無い家庭に生まれ育った彼は、14歳の時にテレビでシルクジャスティスが勝った有馬記念を観て、ジョッキーを志したという。騎手課程の18期生として、2002年3月に騎手デビュー。減量の特典があるうちは乗り鞍も勝ち星も確保していたものの、4年目以降は成績も低迷。それでも2008年にはマーメイドステークスで48キロで騎乗した最低人気のトーホウシャインを優勝へと導き、その翌年の平地の未勝利戦で騎乗したディアトゥドリームという馬で当時の複勝の払い戻し記録(12,280円)を叩き出していた。穴党の私は
「いつかまた、大穴を開けるのではないか」
と密かに思っていた。それがこのレースとなれば……という淡い期待を抱きながら、メルシーモンサン絡みの馬券を買ってJ・G1のファンファーレを迎えた。
戦前の予想通り、テイエムトッパズレがハナに行く展開となった。バシケーンやバトルブレーヴといった馬がそこに続き、メルシーモンサンは前半は後方馬群で脚を溜める作戦を決行する。
そして、大竹柵・大土塁では落馬ゼロ。場内から大きな拍手が沸き起こった。買っている馬券はそれぞれ違うはずなのに、この難関障害をクリアすると人馬を称える割れんばかりの拍手や歓声が起こる──平地のレースではあまりお目に掛かれない、観衆の一体感が大好きなのだ。もちろんこの時の私も、新聞を叩いて大きな拍手を送っていた。
……しかし、年に2回の難関障害を全馬クリアしたことで、今年も全馬完走の可能性が高まった矢先、芝の外回りコースに置かれた8号の置き障害で、大本命であり単勝オッズ1.9倍のメルシーエイタイムが落馬、競走中止してしまう。スタンドで観戦していた他のお客さんの
「メルシーが落ちちゃったら、もう自分の馬券は全部紙くずだ」
というボヤキが聞こえてきた。 なので、それに反論するかのように
「いやいや、まだ"メルシー"はモンサンが残ってまっせ!」
と、なぜか普段は使わない関西弁を使って、私は叫んでいた。
大波乱となる可能性が出てきた中山競馬場の空気。スタンドがザワザワし、「これから大変なことがが起こるかもしれない」という、言いようのない緊迫感が競馬場を支配し始めていた。
メルシーモンサンはポジションを上げて好位に取り付き、4コーナーを回って直線に向くと逃げていたテイエムトッパズレの内に進路を取った。最後の置き障害も無事に飛越、最後の脚比べでも根性を見せて先頭に立ち、外から迫るオープンガーデンをクビ差、振り切って先頭でゴールを駆け抜けた。
メルシーモンサンは叔父にメルシータカオー、そして2着のオープンガーデンの父はゴーカイという、ジャンプレースファンには馴染みのある血統の馬が上位に入った。
自分の買った馬券が的中し、余韻に浸っていると一緒にいた競馬仲間が、電光掲示板の勝ちタイムを見て驚いていた。
5分03秒5。
長く競馬を観ていた私だが、日本のレースで5分を超えるものを見たのは初めてのことだった。観ているファンもだけれど、レースを走った馬や騎手も、相当疲れ切っていたのではないかと想像がつく。
結果としてメルシーモンサンは重馬場が得意な馬だったことが証明されたけれど、馬だけではなく乗り役の高野容輔騎手も『道悪の鬼』と言えるかもしれない。2008年にトーホウシャインで勝ったマーメイドステークスも、ドロドロの不良馬場だった。
さらにそのマーメイドステークスはハンデ戦で、48Kgという最軽量ハンデでの1着。そしてその当時の中山グランドジャンプは63.5Kgという最も斤量を背負うレースでの勝利。その斤量差15.5Kgというのはなかなか珍しい記録でもあった(2012年以降、最も斤量を背負う5歳以上の牡馬・騸馬は63Kgの負担重量に規定が変更されている)。
その後、メルシーモンサンは脚部不安に悩まされることになり、中山グランドジャンプを勝った次走は2年後の2012年3月となってしまう。そしてその後もまた長期休養を余儀なくされ、グランドジャンプ制覇後は4戦しかレースを走れなかった。中央競馬の競走馬登録を抹消されたメルシーモンサンは乗馬となり、滋賀県の乗馬クラブでは休養馬の調教パートナーを務め、今は鹿児島県のホーストラストで余生を送っている。
鞍上の高野容輔騎手もこの中山グランドジャンプを制した2010年の暮れに騎手免許を返上し調教助手となった。度重なる落馬の影響で「大したことのない落馬でも記憶がとびだしたので、レースに乗るのが怖くなり引退を決めた」のだという。すでに所帯を持っていた彼が健康面を優先させたのは、当然の選択だったと言えるかもしれない。一見すると華やかな世界に見えるジョッキーも、常に怪我や命の危険と隣り合わせであることを改めて思い知らされた。調教助手に転身後は大久保龍志厩舎の所属を経て現在は角田晃一厩舎に身を置き、2019年にはアメリカの3歳クラシックレースに参戦したマスターフェンサーの遠征に帯同し、現地でも献身的なサポートで馬を支えた。
メルシーモンサンと高野容輔騎手。
その当時から、人馬とも置かれた立場や環境は変わったけれど、4月に桜の花びらを散らす雨が降るたびに、私はずっとこのコンビを思い出すだろう。
2010年4月に見せてくれた驚きや衝撃(私個人的には、馬券的中の喜び)といったものは、10年以上経った今も、少しも色褪せてはいない。
写真:ジャンプレース応援隊、並木ポラオ